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たったひとりの君だから【後編】




 橘千春が泣いているところが頭から離れない。


 教室を出て下駄箱まで行って立ち止まる。

 どうしてもなにかが引っかかって、外に出れずにいた。


「あれー、清和君なにしてんの」


「ドンちゃん……」


 背後から声をかけられて振り向くと帰り支度をしたドンちゃんが立っていた。先生の手伝いをしていたら遅くなっちゃったよ、と笑いながら言う。


「あ、さっきね、橘さん泣いてたんだよ」


「知ってる。あっちの藤倉に彼女ができたからだよ」


「えー、そうなんだあ」


 そう言った後に不思議そうな顔をする。


「え、でも橘さんて清和君のこと好きなんでしょ」


「なんでそう思うの」


「だって、いつも好きって言ってるじゃない」


 ドンちゃんは純粋な奴だ。人を疑ったり、裏があることなんて考えもしない。


「あれはからかってるだけだよ。ドンちゃんはそう思わないの?」


「ううん……僕はさ、前から……どうして清和君がそんなに疑うのかがわからない」


「どうしてって……」


「……橘さん、可愛いじゃない。あんな風に言われて清和君は嬉しくないの?」


 ドンちゃんの無邪気な笑顔は僕の心をほんの少し悲しくさせた。


「橘さんはあっちの藤倉を追っかけ回してるよ。僕のことなんてからかうと面白い玩具くらいにしか思ってない」


 ドンちゃんは黙って靴を履いて、言葉を咀嚼するように天井を見た。


「うーん……でも……じゃあ、泣いてたのは清和君とは関係ないんだね」


「……たぶん」


「たぶん?」


 煮え切らない返答にドンちゃんがまた不思議な顔をしてこちらを見た。


「聞いてみたらいんじゃないかな?」


「え、」


「なんで泣いてたか。クラスメイトなんだし」


「……うん」


 ドンちゃんの毒気のない言葉に素直に頷いてしまった。


 でも、そうだ。それを聞くくらい、いいじゃないか。それでたとえばお前なんて関係ないと言われたからって、いいじゃないか。僕が傷付くだけだ。


 だってもし、そうじゃなかったら。


 教室の方に踵を返すと途中の廊下に橘が見えた。僕を見て、目をそらす。赤い目を擦り、口元を引きむすんで、そのまま目の前を通り過ぎようとする。


 かける言葉が浮かばない。このままだと通り過ぎてしまう。あせってとっさに腕を掴んだ。


「ひぎゃァっ!」


 珍妙な声をあげて橘が立ち止まる。


「橘さん!」


「は……はい」


「な、なんで泣いてたの?」


 単刀直入に聞くと橘が大きな目をこれ以上ないくらいに見開いた。


「そっ……」


 口をぱくぱくとあけて、それから信じられないというように叫んだ。



「それをかずくんが聞くっ……?!」



 橘の大きな叫び声が廊下に響いた。


「あの僕……ちょっと……橘さんに聞きたいことがあるんだけど……」


「お、うぉ? ……うん」


 結局教室に取って返した。僕が出た時にはまだ数人の生徒がいた教室は、もう誰もいなくなっていて、乱れた椅子に誰かのいた痕跡があるばかりだった。


 橘は座るでもなく、手のひらで顔にパタパタと風をあてて、視線を所在なく彷徨わせている。

 いつもの勢いはなくて、どこか防御力の下がった気弱な感じに、なんとか話を切り出すことができた。


「あのさ、橘さんて、藤倉瑛太のこと好きなんだよね?」


「え、なんで?」


 橘はパタパタしていた手のひらを止めて、びっくりしたようにこちらを向いた。


「よく、話しかけにいってるから」


「えっ、あっ、知ってたの?」


「……」


「あ、あれは、部活の子の付き合いで……その……面白半分っていうか……」


「面白半分? じゃあ、橘さんが好きな藤倉って……」


「……かっ、かずくんに決まってるじゃない! 何度も言ってるよね? ……知ってるよね?」


「知らなかった……」


 橘は表情をなくして「えぇ、なんで……」と低く小さく呟いた。


「ずっと、ふざけて、からかってるのかと思ってた」


 橘は黙ってしまった。目を大きく開けて、それから口元をひき結んで床を見た。心底ショックを受けているのが伝わってきて、いたたまれなくなる。


「ごめん……」


 僕は謝るべきだ。それから、もうひとつ、思っていたことを、彼女に言うべきかもしれない。


「あの……ぼ……お、俺…………た、橘さんのこと……」


 言い慣れない言葉を口にしようとしてカミカミになっていたところ、黙って下を向いていた橘ががばっと顔を上げた。


「藤倉清和君」


「う、うん……」


 橘の勢いに気圧されて言おうとしていた言葉がひっこむ。


「好きです」


 いつもとちがって小さな震え声で、下を向いて言うものだから、疑おうなんて思えなかった。ただ、そうすると気になってしまう。


「……な、なんでまた」


「クラスでカラオケ行った日。あの日かずくんひとりだけ遅れたでしょ。私見てたんだ……」


「見てたって、なにを?」


「うん。お父さんに抱っこされてる小さい子の靴がぽとんて落ちたの。もう結構先に行ってたのに、かずくんそれ拾って、わざわざ届けにいってた……だから遅れたの」


「そ、そうだけど、それがなんなの」


「なんなのって言われても……あれなんだけど、私それ見た瞬間落ちちゃったの……」


「……」


 なんだそれ。そんなことで。


「あ、千春……と藤倉」


 カラカラと扉の音がして、部活中の格好で橘の友達が教室に現れた。橘が途端笑顔になっていつもの調子で叫ぶ。


「私、藤倉、この藤倉が好きだから! あの藤倉は好きじゃないから!」


「知ってるっつーの」


「ねぇ、その……なんで僕のこと言う時だけ『く』の字が平らなの?」


 それには友人の幸田さんが答えた。


「あー、それね。紛らわしいから……ウチらの中では普通の『藤倉』があっちで……」


 幸田さんは藤倉のイントネーションを尻上がりに言った。『むじるし』とか言うのに近い。


「そっちの……きみ、あなたは『藤倉』って言ってたの。あたしはかずくん呼びしないし、すると怒る人がいるからね」


 今度のイントネーションは尻下がり、というか平らな感じに言った。『いわさだ』とか言う時のそれに近い。


 わざとじゃないのだろうけれど、ほとんど隠語や暗号に近い。


 教室を出たところで橘が笑ってこちらを見た。


「信じた?」


「うん……ごめん……でも藤倉って言われたら、あっちを好きかと思うよ……」


「それもどうかと思うけど……」


 橘は少しだけ呆れた顔をして息を吐いた。


「でも私かずくんの、自信のないところも好きなんだ」


「……えぇ」


「根拠もなく自信満々な奴のほうが嫌いだもん。かずくんは俺俺って暑苦しくなくて、押し付けがましさがないの」


 ……ものは言い様だと思う。卑屈で自信がないだけなのに。


「あ、でも見た目も好き。目の形が好き。意外と手が大きいのも好きだし。あと、髪の毛とかもそのまんまで、飾らない感じがするし。ちょっと癖っ毛なのも可愛いよね」


「は、はぁ」


「声っていうか、しゃべり方も大袈裟じゃないし内容も口下手っぽくてそっけないのに、なんでか柔らかくて、優しい感じがして好き」


 それは早口が得意じゃなくて、すぐ噛んだり、どもったりするからなだけじゃないだろうか……。


「ほんとに、なんでなのかわからないんだけど……特別なの。朝とかさ、歩いてる後ろ姿見つけると、ふわぁってしちゃうの……なんか、他の人とぜんぜんちがうんだよね」


 この人は本当に僕の話をしているのだろうか。


「かずくんは……私のこと好き? あぁあ! なんでもないなんでもない!……でもあのなんか、その……これからも話しかけたりしてもいい?」


 なんというか、勢いが良すぎて言葉を挟む隙がない。


「私、かずくんが好き! もう……もうね! 本当好きで好きで頭おかしくなるくらい大好きなの! 全部好き!」


「た、橘さん……」


「ご、ごめん。ウザいよね……」


「う、ウザくない」


 少なくとも、僕は嬉しい。


「でも、最初から真面目に言ってくれたら……」


 そしたらここまで疑うこともなかったと思うんだけど。


「真面目に言って拒否られたらダメージでかいじゃん!」


 橘は勢いよく言って急に大人しくなってうつむいた。


「ていうか、真面目に言うの、恥ずかしくて……ごめん」


「……僕のほうが、ごめん」


 可愛くて恋愛に悩んだことなんてなさそうな彼女が自分相手にそんなことを考えるなんて、わりと想像の外だった。


「橘さんて、変わった趣味だね……」


「そんなことないと思うよ。かずくんは良さが派手でわかりやすかったりしないだけで……すっごく……」


「も、もういいから」






 秋が終わる頃には休み時間に彼女と一緒にいて、話をしたりすることは自然になっていた。


 僕はあの日言いそびれた告白の返事をしないまま、一週間も過ぎる頃にはいまさらな感じがして、なんとなく伝わっているだろうと、言う機会を探すことすら諦めてしまった。

 彼女のように、また彼女の周りにいるような恋愛強者のようにはさらりとできやしない。それでも態度でそれをなんとか伝えようとしながら過ごしていた。


 時々お昼を誘われる。部活のない日に一緒に帰ろうと言われる。それから唐突に好き好き叫ばれる、信じられない日々。


 お昼を食べ終えて「眠いね」と言い合って廊下を歩いていると前方から派手な化粧の女子が歩いてきて、橘を見て軽く片手を上げた。


 彼女が気付いて手を振り返すと小走りで近付いてくる。


「瑠美」


「千春、こないだ薦めたチョコどうだった?」


 勢い良く近付いて来た割に何か他愛のない世間話が始まってしまった。先に教室に戻ろうか迷っていると橘に制服の端を小さく掴まれたのでそのままそこに立っていた。


 なんでもない話がひと段落した時、橘が思い出したように言った。


「瑠美、まだ藤倉追っかけてんの? 前あんたのせいで誤解されたんだけど」


「あー、彼氏に? それ瑠美のせいかよ!」


 首を大袈裟に横に傾けて僕を見てから、ツッコミを入れてふぅと息を吐く。


「うーん、最近さぁ、どうしようかなって」


「彼女できたから?」


「それは別れるかもじゃん? だからカンケーないの。でも瑠美のほうが彼氏作るかもだから……」


「え、他に好きな人できたの?」


「そういうわけでもないけど……向こうから声かけてくれたし……そういうの悪い気しないじゃん。迷ってんだぁ」


 一生懸命に見せかけて裏では計算高く動く。女子のこの感じが僕は苦手だった。ちょっと怖い。当初橘のこともそんな感じかと疑ってしまっていた。


 その子が行ってしまった後、橘はどこかぼんやりしていた。そのまま、ぐるりと僕の顔を見た。


「かずくんも?」


「え、なにが?」


 唐突な問いになんのことか戸惑う。


「私が寄ってきたから、悪い気はしなくて……」


「ち、ちがうよ!」


 慌てて否定するも、彼女の顔はちっとも元気にならない。


「僕は……えっと、そういうわけじゃなくて……」


「なくて?」


 橘が目を光らせて僕の言葉の続きを聴き逃すまいと顔を近付ける。近過ぎて思わず勢いよく逸らした。


 そのままふたり黙ってしまって、予鈴が鳴った。橘が諦めたように小さく溜息を吐いて教室に戻ろうと歩きだす。


「戻ろ」


 元気のない小さな声で言って教室に入った。


 それでなんとなく、思い出した。

 橘が泣いた日のことを。

 橘だって、真面目にそれを言うのに勇気が必要だったこと。


 それから気付いた。

 僕のやっていたつもりの“態度で示す”はよく考えたらちっとも態度になってない。彼女からの誘いを断らなかっただけだ。

 そんなの、向こうからしたら“悪い気はしないから”流されてるだけのように感じられてもおかしくない。


 改めて自分は今までなにをやっていたのだろうと頭を抱えた。


 放課後になって元気のないままの橘が僕の机まで来た。元気がないというより、なにか考えこんでいる。なんだかまずい気がする。このままじゃ、どこかのイケメンに取られる……。


 橘に「好きだよ」とさらりと言って、ふっと微笑むキザな男は何故か藤倉瑛太の顔で再生された。


 でも、それだってありえる。だって彼女はこんなに可愛いのだから。


「一緒にかえろ」


「うん」と頷いて立ち上がる。橘はぼんやりしたまま先を歩きだした。


 少し先を行く彼女の手首を掴んで止める。


「はぎゅ!」


 珍妙な悲鳴が廊下に響いた。


「橘さん!」


「は、はい!」


「……た…………ちばな、さん」


「う、うん」


 軽く息を整えて、言葉を吐き出そうとするが、焦って言い出したものだから、なんと言っていいのか台詞が分からない。脳みその焦りをそのままこぼしはじめる。


「その……僕は……いや、ええと……本当はずっと……あの、」


 本題とは無関係な「その」だの「あの」だの無意味な前振りを延々としてから、自分に呆れて一度黙った。そうして一拍置いてから、なんとか言葉は出た。


「橘さんのこと……ものすごく、好き……だすゅら」


 最後の方は噛んで謎の音声となった。


 だすゅら……。


 だすゅら。


 橘が目を見開いた。


 猛烈に恥ずかしい。


 急激に消え去りたくなって、さっさと帰ろうと歩きだした。ちゃんと言えたのに落ち込むのは何故だろう。


 どうせ今さらなのだからもう少し格好良く言いたかった。もっともそんなことを考えていたからこんなに時間がかかったのだけれど。


 少し行って後ろに気配が無いことに気付いて立ち止まる。もしかして、あまりに情けなくて呆れられたんだろうかと心配になってくる。振りかえろうとしたその時、どん、と体に衝撃がきた。


 橘が後ろから抱きついているのだと、認識するのに時間がかかった。


「かずくん! かずくん!」


 橘はそのまま大きな声で言った。



「かずくん! だーいすき!!」



 廊下に彼女の声が響いた。


 びっくりして思わず「声が大きいよ」と言うと今度は耳元で小さな囁き声で「だいすき」と言って背中に顔を押し付けた。




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