46.ヒロカ
朝六時。
かなり厳しく冷え込んだ空気の中、私はギターを抱え、キャリーを転がしながら学校へ向けて走っていた。
弾む息が少し白く残るほどの寒さだったが、学校に近づく着く頃には体が軽く汗ばんでいた。
十分時間的に余裕を持っているので、とくに急ぐ必要はないのだが、気持ちが逸ってゆっくり歩いてなどいられなかったのだ。
実は、一つだけわざと置いてきた忘れ物がある。
衣装のジャケットのフラワーホールに差すブローチ。
お母さんが付けたらどうかと言ってくれたそれを、私は自分の机の目立つ所に置いておいた。
私達の出番ギリギリに届けてもらえるように、メールでお願いするつもりだ。
ステージを見に来て欲しいなんて、照れくさくて直接は言えない。
お母さんも私を見るために文化祭なんかに来るのは抵抗があるだろう。
忘れ物を届けるついでという口実があれば、顔を出してくれるのではないかと期待していた。
いつもより一時間以上早い時間の通学路。
早朝の作業が残っているクラスは予想以上に多いらしく、眠そうな顔の麻生高生が次々と校門に吸い込まれていく。
私はよしと気合を入れ直し、キャリーのハンドルをギュッと握りしめて特設ゲートに突入した。
昨日にはまだなかった飾り付けや看板があちこちに設置されていて、お祭りムードは更に高まっている。
靴を履き替えると、キャリーを持ち上げて一気に四階まで駆け上がった。いつもの空き教室に一旦ギターとアンプを隠して、一年A組の教室に向かう。
A組の廊下も他のクラスと同様、手作りながらも賑々しい飾り付けがなされている。
安直に決めた「一栄庵」という店名が巨大な木の板に行書文字でしたためられ、入り口に立てかけられていた。
さらに、小さな黒板が店頭メニューとしてイーゼルにセットされている。
見違えるほどの進捗に驚いた。
昨日時点ではこの店の看板すら出来上がっていなかったのだ。
きっと徹夜組が頑張ってくれたのだろう。
その証拠に何人かの男子生徒が教室近くの廊下にビニールシートを広げて力尽きたように寝転がっていた。
室内は時代劇に出てくるお茶屋をイメージしたデザインに統一されている。
部室棟から背もたれのないベンチを借りてきて赤い布をかけ、即席の床机を作った。
添える野点傘は入魂の手作りだ。
提供する和菓子がお店からの仕入れだけに、内観の準備にかなり凝ることができたようだった。
「あ、寛ちゃん、おはよう。早いね」
声をかけてきたのは頼子さんだった。ウェイトレスの制服になる袴を小脇に抱えている。
「おはよ。あ、頼子さんも袴着るんだね」
「うん、寛ちゃんは……出番があるから無理か」
「そだね。ちょっと着てみたかったけど。クラスの方、全然手伝えてないからちょっと心苦しくて。当日の朝くらいは頑張ろうかと思ったんだけど……もう殆どやることない?」
飾り付けは完了しているように見える。
黒板のメニューもバッチリ書き上がっている。
すぐにでも開店可能に見えた。
「いやいや、いくらでもあるよー。じゃあ、寛ちゃん、湯呑みを洗って来てくれる?そこに洗剤とスポンジあるから」
「おっけー!」
じっとしていると緊張が膨らんできてしまいそうだったので、私は頼子さんに言いつけられるままに開店前の手伝いを黙々とこなした。
頼子さんは委員でもないのに残作業を適確に把握しているようで、絶え間なく作業を割り振ってくれた。
八時五十分。
いつもならチャイムが鳴るはずの時間だが、今日はその代わりに学校中のスピーカーからラヴェルのボレロが流れてきた。
校内放送の声が重なる。
『全校生徒の皆さん、おはようございます。麻高祭、開校十分前、開校十分前です。各教室、各部室、準備の総仕上げをお願いします。九時のチャイムと同時に校門が開きますので、五分前には来客を迎えられる状態にして下さい』
胸が高鳴る。
日常とは違う一日が、始まろうとしている。
私は一人、人知れず拳を固めた。
「いよいよだね」
「……うん」
「じゃあ、私ちょっと着替えてくるから。九時回ったら、すぐ一緒にC組に行かなきゃね」
「え?」
「ほら、冴木さんが歌うんでしょ?」
「よ、頼子さん、何で知ってるの?」
「噂になってるんだよ。密かに楽しみだったの。ちょっと待っててね!」
言い残して、女子更衣室の方へ駆けて行く頼子さん。
相変わらずこういう話題には目がない人だ。
それにしても、客寄せを押し付けられたメイに好奇の目にさらされるのは、なんだか少し納得がいかない。
あれだけ人目を引く容姿をしていると、致し方のないことなのかもしれないが。
なんだか少し心配になってきて、私は頼子さんを待たずにC組の様子を見に行くことにした。
二つ隣のC組は、バーテン風の衣装を着込んだ男子生徒が忙しなく出入りを繰り返している。
高橋くんと鉢合わせしないかとドキドキしていたが、バンドバトルの方の準備をしているのか姿は見えなかった。
入り口から覗き込んで、バーをイメージしているらしい薄暗い教室内にメイの姿を探す。
教室に備え付けの液晶テレビと、もう一つ視聴覚室あたりから借りてきたらしい大型液晶モニタにカラオケ機材の映像出力が繋がれて、それぞれ店内のお客とステージで歌う人から見やすいように設置されている。
今から演奏のテストを始めるところのようだった。
ミラーボールの吊るされた小さな半円形のステージに立っているメイを見つける。
一応サクラという扱いなので、一人だけ私服姿だった。
私はその佇まいに微妙な違和感を感じる。
何というか、ピリピリしているというか……近寄りがたい空気を纏っている気がした。
長く艶やかな黒髪に阻まれて、彼女の表情は読み取れない。
暗幕が引かれ、ほとんど真っ暗になった教室内をテレビとミラーボールの光だけが照らす。
音量設定をしていた男子生徒がメイにマイクを手渡した。
「んじゃ、音量と照明、最終テスト入りまーす!」
声を上げたのは、確か矢島くんという名前だったか。
機材調整の指揮を取っているらしい彼の宣言と同時に、教室内が暗転。
真っ青な表示の画面に、ゆっくりと曲名が浮かび上がる。
「罪と罰」。
当然ながら私のお気に入りリストにも入っている曲だった。
客寄せにするにはちょっとヘビーな選曲かもしれないが、メイの声ならどんな曲でも関係なく人を惹きつけるだろう。
私は固唾を呑んでステージを見守る。
少しずつ音量を上げてフェードインしていく前奏。
音に同期してミラーボールが四方に光を発し始める。
浮かび上がる私のよく知るシルエット。
右手が、ゆっくりとマイクを構えた。
大きなブレスのあと、ハイトーンボイスが炸裂した。
スピーカーが小さくハウリングを起こすが、メイは音量を落とさない。
軽いテストのつもりで気軽に構えていたクラスメートたちが一様にステージに目を奪われる。
音響担当らしい男子生徒が慌ててマイクのボリュームを絞った。
それに気づいたのか、メイは更に声量を引き上げる。
自分の後ろにわらわらと人だかりが出来ていく気配を感じた。
やがて伴奏にディストーションギター、エレキベース、ドラムが重なって盛り上がっていくが、明らかに声に対して音量不足だ。
バランスを取るために伴奏のボリュームが引き上げられる。
結果、ボーカルと重なる全体のボリュームが想定外の大音量となる。
普段メイの声を聞き慣れている私でも圧倒されるような鬼気迫るパフォーマンスだった。
ステージの上で体を折り曲げるようにして声を張り上げるメイ。
相変わらずその表情はうかがい知ることが出来ない。
ただ、私には何だかその姿が、悲鳴を上げて助けを求めているように見えた。
退廃的な歌詞の世界観に入り込んでいるにしても、こんな、自暴自棄になって声を叩きつけるような歌い方をする彼女は見たことがなかった。
お祭りの幕開けに先駆けて圧巻の歌唱を披露するその姿に、教室内外からどよめきが上がる。
テストとか客寄せとかに関係なく、目の前の光景は強烈なスペクタクルだった。
静かに盛り上がる野次馬たちの中で、私は一人胸を抑えて、湧き上がる不安を鎮めようと努める。
(メイ。何があったの……?)
いくら視線で問いかけてみても、メイが私に気付く気配はない。
聞きに行くと伝えていたのだから、普段のメイなら絶対に私を探してくれるはずなのに、そんな素振りも見せない。
ただ声を強く吐き出すように歌い続ける様を眺め続けて、私にとって長い長い五分間がやっと終わった。
改めて湧き上がる拍手と歓声。
照明が調整されて普段の教室の明るさが戻ってくる。
ステージの上のメイは、軽く肩を上下させて息を整えている。
その表情は、普段と何も変わりないように見えた。
「……冴木さん、ちょっと手加減してもらってもいい?この音量でずっとやってたら、絶対先生が怒鳴りこんでくるよ……」
「……ああ、ごめん。ちょっと緊張してたから……。次はもっと抑えるようにするね」
軽く萎縮している矢島くんに、悪びれずしれっと答えるメイ。
その視線が私を捉えて、軽く笑った。
『見ててくれた?』
歌っている最中の迫力が嘘のように、けろっとした顔で聞いてくる。
私は慌てて、返事を返す。
『すごかった。怖いくらいだったよ』
『ちょっとね、ストレス解消したかったの』
ちろりと舌を出すメイ。
やはりいつも通りだ。……気のせい、だったのだろうか?
首を傾げる私の頭上に、いつもより少し音量の大きいチャイムが鳴り響いた。
麻高祭の開祭を告げる合図だった。
結局その後、メイは『Glamorous Sky』を無難に歌いきって、開店直後の集客に貢献した。
後は矢島くんにマイクを押し付けて、お役御免とばかりに教室から逃げ出したらしい。
私は着替えを済ませてからメイと合流した。
午前中の内に、少しでも文化祭の雰囲気を味わっておこうと二人で校内をうろついたものの、案の定私は迫り来る本番に対する緊張に押しつぶされそうになってしまい、結局空き教室で最終調整をすることになった。
「ごめんね、メイ……。できれば一緒に楽しみたかったんだけど……」
私はギターを構えて机に腰掛け、ひたすらアルペジオを繰り返していた。
「うぅん、私も、実は似たようなものだから」
入念にストレッチを繰り返すメイは、言葉に反して全く緊張しているように見えない。
もしかしたら教室で大勢の前で歌ったのが良かったのかもしれない。
私ももう少し人前で練習する機会を設けたほうがよかっただろうか……?
弱気になりかける自分を叱咤する。
今更過去のことを考えても仕方がない。
私も覚悟を決める思いで、強くネックを握り直した。
すべての曲の伴奏は、それぞれ数百回以上繰り返した。
何も考えなくても左手が次のコードの形を作ってくれる。
いつも通りの木の感触が、しっくりと手の中にフィットする。
思い返してみれば半年強、暇さえあればこのギターをいじっていた。
指先が痛くても我慢して弾き続けて豆をつくったりもした。
バレーコードが出来なくてもがき、左の手首が腱鞘炎になったりもした。
それでも諦めずに練習し続けていた積み重ねの結果として、私は今メイとこの場所にいる。
私は真っ赤なボディの側面をそっと手の平で撫でた。
ピックガードの部分に幾重にも刻まれたスジ状の傷痕が、積み重ねてきた努力を証明してくれているような気がする。
違和感なく体に馴染む、滑らかな曲線が心地いい。
私の人生の中で、こんなにも愛着を持った持ち物があっただろうか。
構えると、これから始まる楽しい出来事を想像して心が踊る。
そう、これから楽しいことが待っているんだ。
いつもと同じように、ただそれを楽しめばいい。
私達なら、私達だから、必ず出来る。
「そうだ、ヒロカ。これ」
そう言ってメイがコートのポケットから取り出したのは、高岡で買った子犬のステッカーだった。
「あー!忘れてた……」
「もう、二人で貼るって言ってたのに」
「あはは、ごめんごめん……。でもちゃんとケースに入れておいたんだよ。ほら」
私も、ソフトケースの外側のポケットから黒猫のステッカーを取り出す。
「じゃあ、ここにしようかな」
ボディがくびれている箇所の側面に、ぺたりと貼り付ける。
これなら演奏中にも見ることが出来る。
「私は、ここかな」
メイはマイクのスイッチの裏側あたり、手の平に収まる位置に貼り付ける。
「……えへへ」
また一つ、二人で共有するものが増えた。
より一層このエレアコに愛着が湧いた気がする。
「よーし、じゃあメイ、三曲通してやってみようか!」
気分一新した私は机から飛び降りて、メイの左斜め後ろに移動する。
「了解」
メイはカットソーの胸元を緩めながら、咳払いと深呼吸をした。
大丈夫。
いつもと同じだ。
どんなに緊張したって、私の両手にはもうすべてのコードとストローク、ピッキングが染み付いている。
もうミスする方が難しいくらいだ。
あとは、私達がどれだけ今幸せか、どんなに音楽を楽しんでいるかを、しっかりと伝えることだけ考えよう。
二人きり、空き教室の真ん中に立って、私たちは本番さながらの演奏を続ける。
お祭りに湧く校内の片隅で、二人きりの練習。
私はただひたすら、メイの力強く突き抜けるような歌声を際立たせる伴奏とコーラスに全身全霊を込める。
「……?」
最初は、チューニングが微妙に狂っているのかと思った。
『Whatever』を演奏し終えた後で、確認する。
五フレットを抑えた六弦と開放の五弦、同じ音だ。
同じく五フレットを抑えた五弦と開放の四弦、同じ音。
上から順に一弦まで確かめるが、音がずれている弦は無かった。
やはり、緊張しているせいだろうか。
具体的に何と言い表せないレベルで、微妙な違和感を覚える。
何か、お互いの音が、完全にリンクしていないような……。
音程でないとすると、リズムだろうか。
メイの声と私のストロークが、ずれている?
そんなバカな。そんなことは今まで一度としてなかった。
それは、気のせいだと言われればそれで済んでしまいそうな、ごくごく小さな感覚だった。
メイはいつものように活き活きと歌っているし、私の両手は一つもミスはしていない。
課題だったフレットノイズだって完全に消せていた。
「ヒロカ?どうしたの?」
「……うぅん、大丈夫。ちょっとやっぱり、緊張してるみたいで」
両手首を振って、指先の状態を確かめる。
やはり特に異常は見つからない。
体の問題でないとなると、やっぱり心因的なものなのだろう。
「大丈夫。ちゃんとばっちり弾けてるよ」
「そう、かな?」
「うん、ちゃんといつも通りだよ」
メイがそういうなら、きっとそうなのだろう。
もしかしたら、直前にいいアンプを使って練習をしたせいで、アンプラグドに違和感があるのかもしれない。
そうであれば、本番は問題ないはずだ。
なんとなく完全にはスッキリしない状態で練習を再開しようとしたところで、バンドバトル参加者への連絡メールが私とメイの携帯両方に届いた。
「演奏順、一から四番のメンバーの皆さんは、芸楽館裏のステージにお越しください。各バンド五分間のリハーサルの時間が割り当てられます。共用のアンプを使用する場合には音量などの設定を記録しておいて下さい。本番の演奏時間は機器の設定も含めて十五分です……」
私は文面を読み上げて、生唾を飲み込んだ。
ついに、来た。
「……いよいよ、だね。ヒロカ、大丈夫そう?」
「うん。リハーサルで、アンプ使って少し試して見れば、多分平気」
「……じゃあ、行こうか」
「あ、ちょっとまってね」
スマホの画面を操作して、用意しておいたお母さん宛のメールを送信する。
さて、来てくれるか。
それとも面倒だと断られてしまうか。
メール送信完了の表示をしっかりと確認して、私はスマホをポケットに戻した。
私は一旦ギターをケースに仕舞う。
予備も合わせて二つずつ、シールドとピックがあることを確認してから肩に担いだ。
武器を手に出撃する兵隊のような気分で私たちはゆっくりと階段を降り、ステージに向かった。
「すぐ裏の旧部室棟の部屋が控室として使えます。待ち時間はそちらにいてもOKです。各部屋、バンド名が入口の貼り紙に書かれています。一応鍵もかかりますので、貴重品など置いていく場合は施錠をお願いします。鍵は入り口の南京錠に挿しておきましたので」
出場バンドの内、前半の四組、二十人弱がステージ前に集まって実行委員から注意事項の説明を受けていた。
貫徹したらしい高橋くんの目の下にはクッキリとクマが浮かんでいる。
気まずさに耐える私の少し前にメイが立ってくれて助かった。
見回すと、自分たち以外は全員二年生以上のようだった。
私達がそうであるように殆どの生徒はもうステージ衣装に着替えているため、なんともビジュアルがちぐはぐな人だかりが出来上がっていた。
分かりやすい黒ずくめのヴィジュアル系がTeleCostar、改造スーツのモード系がSugar&Salts、浴衣ベースの和装がロンリノオト、私たちIrisは……特に当てはまる括りはない。
強いて言うならメイはモッズ、私はソフトなガーリーパンクというところだろうか。
他のバンドは全員四人以上の構成らしく、二人きりの私たちは集団の中で軽く浮いていた。
「では、特に質問がなければ一番のバンド、十二時丁度からリハーサル開始して下さい。二番のバンドは十二時五分からですので、遅れないように準備お願いします」
配布された手書きのタイムテーブルによると、Irisのリハーサルは十二時十五分からだった。
リハーサル準備を始めるTeleCostarのメンバーを、少し距離を置いて眺める他のバンドのメンバー達。
自分たち以外のリハーサルの様子を伺っておきたい気持ちは分かるが、牽制しあうようなギスギスした空気に少し息が詰まりそうだった。
「ヒロカ、アンプの準備って、簡単にできるの?」
試奏の音の合間に私に囁くように尋ねるメイ。
「うん、私はそんなにややこしい設定とかしないから、音量だけメイのマイクと合わせれば終わりだよ」
「マイクの設定も」
「わかってるって、一緒にやっとく」
「……お願いね」
ほっとしたように胸を撫で下ろすメイ。
「あ、音量チェック、頼子さんにお願いしなきゃ」
マイクとギターの音量のバランスを客席で聞いてもらう役割は、前日までは高橋くんにお願いするつもりでいた。
しかしあんなことがあった後では、やはりちょっと頼みづらい。
私はスマホを取り出して電話をかける。
「……出ないや。忙しいのかな?」
「私から、高橋くんに頼もうか?」
「うぅん、ちょっと行ってくるよ。多分接客中で、携帯どっかに置いちゃってるんだと思う。待っててね」
私は一旦控室に寄って、ギターを置いていくことにした。
ステージ裏側に横たわる旧部室棟は古めかしいプレハブがいくつも連なったような建物で、数年前に体育館のそばに新しい部室棟が建てられてからは空っぽのまま放置されている。
運動部員たちにかなり荒っぽい使われ方をしたらしく、窓ガラスにヒビが入っていたり、壁がべっこり凹んでいたり、外観は悲惨な有様だった。
「Iris」と書かれた貼り紙が貼られた部屋の前に立った時、スカートのポケットの中でスマホが震えた。
お母さんから着信だった。
通話をタップして髪と耳の間にスマホを差し込む。
「もしもし?」
「……親を使いっ走りにしないでほしいんだけど」
とても不本意気な声。
私は目論見が成功したと一人ほくそ笑んだ。
「ごめんごめん、いまどこ?」
「裏門の方。これ、入っちゃっていいの?」
「うん、今日は一般開放されてるから。裏門から入って、すぐ左に曲がってまっすぐ来て。私もすぐそばにいるから」
「はいはい」
通話を切ると同時に裏門に向けて走りだす。
旧部室棟の角を右に曲がったところで、駐輪場のそばにひときわ目立つ金髪のポニーテールを見つけて、駆け寄る。
「ありがとー!助かったよ!」
「はいはい……。そのジャケット、胸元何もないと無表情だからね」
ブローチを受け取り、襟のフラワーホールに取り付ける。
「これでよし、っと。どう?決まってる?」
「……うん。いいんじゃない?」
不機嫌そうに細められていた目を少し緩めて、お母さんは頷いてみせた。
「一時半くらいから出番だから、良かったら見ていってよ」
「あー、店番お父さんに押し付けてきちゃったから、あんまり長居はできないんだけどね」
「もうすぐだから、いいじゃん。まあ、別に無理にとは言わないけどさ」
「……さっきあっちで、お好み焼き売ってたのよね。広島風の。久しぶりに食べてみようかしら」
はぐらかすように視線を逸らすその横顔を見つめて、私は自分のジャケットの袖を握りしめた。
「……食べ終わったらでいいから、ステージ、見に来てくれる?」
「……」
お母さんは意外な言葉を聞いたという感じで、眉をぐいっと持ち上げて私を見る。
いつの間にか気恥ずかしさよりも、今まで私達が重ねてきた練習の成果を見て欲しいと思う気持ちが優っていた。
ずっと目立たないように過ごすことを貫いてきていた娘が突然こんなことを言ってきたら、驚くのも無理はない。
でも、演奏を見てもらえたらもっと驚いてもらえる自信があった。
「……一時半ね?」
「うん」
「……見てあげるから、頑張んなさい」
私の気持ちを汲みとってくれたのか、少しぶっきらぼうにそれだけ言って踵を返し歩き出すお母さん。
「うん!」
私はその背中に大きく返事を返して、改めて控え室に向けて駆け出した。
照れくささを塗り替える闘志のような感情がお腹の底から湧いてきて、私の体を前へと衝き動かした。
ボロボロの木製の閂にはめられた南京錠を開けて、立て付けの悪い引き戸を開く。
部屋の中は四人が定員のカラオケルーム程度の広さだった。
室内には折りたたみの椅子がいくつか置いてあるだけでひどく殺風景だが、予想していたよりもずっと綺麗で控室にはちょうど良かった。
私はギターを部屋の角に立てかける。
思えばこのギターは、ことあるごとに空き教室の掃除用具入れに箒やちりとりと一緒に隠されたり、音楽準備室に夜通し置き去りにされたりしている。
私にとってのもう一つの大切な相棒のはずなのにと改めて考えると、ちょっと可哀想になった。
私は罪悪感を誤魔化すように、ソフトケースの上からポンポンと撫でる。
「……少し、待ってるんだよ?すぐに戻ってくるからね」
小声で言い聞かせるように囁いて、控え室を出る。
入る時と逆の手順で施錠した。
芸楽館裏から本館の昇降口に向かう。
一般の来客の姿がかなり多くなっている。
バンドバトルの開演時間は客足のピークを見込んで設定されているのだろう。
三階の一年A組、一栄庵もなかなかの盛況ぶりのようだった。
さすがは光雲堂の和菓子。
芋ようかんが余ることを祈りながら、私は頼子さんの姿を探した。
袴姿でお茶の乗ったお盆を運んでいるお下げ頭を見つける。案外堂に入ったウェイトレスっぷりだった。
「頼子さーん!」
お茶を配り終えたタイミングを見計らって声をかける。
「あ、寛ちゃん!……それ、ステージ衣装?!かわいーーー」
頼子さんの声に、クラス中の人の目が私に集中する。
少し怯んだが、これから本番でもっと人目に晒されるんだと思って開き直ることにした。
「まぁね!今日の私は、普段とはちょっと違うよー」
「おーーー!」
不敵に笑う私に拍手をくれる頼子さん。
何故か他の何人かのクラスメイトまで拍手をしてくれて、私は照れながらどうもどうもと頭を下げた。
「それより頼子さん、これからちょっと時間ある?リハーサルの音量チェック、手伝って欲しくて」
「え、え、時間は大丈夫だけど、それって私なんかがやって大丈夫なこと?」
「大丈夫大丈夫、音がでっかいか、ちっちゃいかだけ言ってくれればいいから!」
私は頼子さんの返事を待たずに、背中を押すようにして彼女を教室から連れ出した。
「ちょ、ちょっと、寛ちゃん、強引」
「言ったでしょ、今日の私はちょっと違うの!」
「……冴木さんと一緒の時は、きっといつもこれくらい積極的なのね」
何故かうっとりした声ではしゃぐ頼子さん。
この人は全く。
「でも、冴木さんの歌、すごかったね!流石ってかんじ!」
「でしょー?本番でも絶対決めてくれるから、見に来てね。多分一時半くらいから出番だから」
言いながら、私は一抹の不安を拭いきれずにいた。
練習の時に感じた違和感。
あれは本当にアンプの有無によるものだろうか……。
まずは、頼子さんチェックしてもらいながらリハーサルをしてみるしかないのだが。
連れ立って芸楽館裏に向かう。
腕時計を確認すると、十二時六分。
丁度いい時間だ。
私は小走りに旧部室棟の控え室に急いだ。
「すごいね、控え室まであるんだ。本格的」
「なんていうほど、まともなものじゃないけどね」
「Iris……ていうんだね、寛ちゃんたちのバンド」
「うん、メイが考えてくれて……あれ?」
ポケットから取り出した鍵を差し込もうとして、異変に気づいた。
腐りかけていた閂の横木が折れ、締められたままの南京錠が地面に落ちている。
部屋を間違えたかと思ったが、貼り紙には確かにIrisと書かれている。
私は深く首を傾げた。
「どうしたの?」
「鍵が……」
南京錠がかかっていないので、当然引き戸は開けられる。
中に入ってみると、立てかけたはずのギターが倒れて床に横たわっていた。なぜか私にはその様子が、ぐったりと脱力した動物の亡骸のように見えた。
ざあ、っという大量の虫の足音のような怪音と共に、血の気が引く。
まさか。いや、でも、そんな……。
私はぶるぶると震える手でソフトケースを抱き上げ、ぐるりと周囲を半周するジッパーを開ける。
狂ったように脈打つ心音が全身を揺らす。
早く、確かめないと。私の、大切な相棒の無事を……。
「……っ!ひ、寛ちゃ……」
後ろから私の手元を覗き込んだ頼子さんが息を飲む音が聞こえた。
「……嘘……」
私は、すとんとその場に尻もちをついた。
ギターケースが床に激突して鈍い音を立てる。
ケースのネック部分が、骨折した腕のように、ありえない箇所でだらりと折れ曲がった。




