45.メイ
スタジオに到着してヒロカの演奏を聴いた時は少し驚いたが、そのあとの練習はいつも通りかそれ以上の出来だった。
おまじないが効いたのかな、と考えて自分で赤面しそうになった。
ヒロカといると、調子に乗ってカッコつけようとしてしまう癖がついているような気がする。
二人で機材の片付けと会計を済ませて、ナカシマギターショップを出る。
鬱蒼と薄暗いアーケード街。
冷たい空気が制服の隙間に入り込んできて、汗ばんだ体を急激に冷やしていく。
練習を終えたあとの街は、普段よりずっと素っ気なく、疎外感のようなものさえ感じる。
音楽を心底楽しんだ後の反動なのかもしれない。
私たち見知らぬ森を歩くヘンゼルとグレーテルみたいな気分で、手をつないで歩き出した。
特に何を話すわけでもなかったが、つないだ手の感触で十分だと思えた。
ヒロカが聞かせてくれた曲のことを思い出して、私は左手をぎゅっと握った。
暖かで穏やかなのに、時折情熱や憂いの欠片を感じるメロディ。
まるでラブレターを読み上げてもらっているようだった。
本当にそんなことをされたらさすがに気恥ずかしいだろうけど、音楽ならアリだと思えてしまう。
だから私も、言葉では言えないような想いを込めて歌詞を付けてみたいと思う。
どんな曲が完成するのか、今から楽しみで仕方ない。
信号待ち。
車なんかほとんど来ないけど、私たちは律儀に青になるのを待っていた。
隣のヒロカがすんと小さく洟をすする。
秋も深まってきて、気温は急激に下がってきていた。
風邪を引いて喉を痛めたりしないように気をつけなくては。
そう思うと同時に、ヒロカが私の腕に抱きつくようにして寄り添ってきた。
少し袖の長さを持て余した彼女の両腕を愛おしいと思った。
体の左半分だけでも、体感の気温は随分変わる。
心理的には劇的だ。
寄り添って、温め合うようにして歩いていると、すぐに紺野書店の看板が見えてきてしまった。
ヒロカがゆっくりと半歩分の距離を取る。
ギリギリまで、指先は繋いだままでいた。
「あとで、今日録音したファイル、送るからね」
「うん。お願いね」
ヒロカの家の隣の軒先で、私たちは立ち止まる。
いつもだったら少し部屋にお邪魔したり、夕食をご馳走になったりという選択肢もあったかもしれないが、今日に限っては早めに帰って、お互い心の準備と休養の時間を取ろうと決めていた。
「メイ」
「ん?」
私は隣のヒロカに向き直る。
少しだけ不安そうな影を覗かせていた顔が、私と目が合うと笑顔に変わる。
「……メイ」
「なぁに?」
ヒロカは俯いて、小さく首を振った。
「呼びたかったの」
「……そっか」
自分にとって特別な、大切な人の名前。
呼べば答えてくれることが嬉しい。
ただそれだけのことで、どこからか力が湧いてくるということを、私も知っている。
ヒロカが教えてくれた。
私は、本当に色んな事を私はヒロカに教えてもらったし、沢山の物をもらった。
夢中になれること、震えるほど楽しい瞬間、人を好きたまらなくてじっとしていられなくなる気持ち。
明日、一つの区切りの時が来る。
私達が目標にした大切なイベント。
でも、その結果なんて、本当はもうどうでもいいのかもしれない。
どんな結果になったとしても、ヒロカと一緒にいられるなら、楽しい時間は続いていく。
今まで私が拾い損ねてきた日常の中の幸せを、きっと二人なら取り戻していくことが出来るはずだ。
「明日さ、楽しもうね」
私の心中を知ってか知らずか、ヒロカはそう言ってくれた。
「頑張ろう」ではなく、「楽しもう」。
気負いを忘れさせてくれる、嬉しい表現だった。
「うん。一緒に、いつも通り、楽しもう」
私たちは笑顔で頷き合って、お互いの拳をぶつけあって、そしてそっと短いキスを交わした。
「……じゃあ、また明日」
「うん、また明日ね」
私は駅に向けて歩き出す。
途中で何度か振り返ると、その度ヒロカは書店の入り口から手を振ってくれていた。
私も大きく手を振って応えた。
ヒロカの姿が見えなくなるコンビニの角で、最後にもう一度手を振り合った。
一人で歩く帰り道は、やはり少し肌寒い。
私は小走りで駅へと急いだ。
少し落ち着かない気持ちを、ヒロカのメールを読み返してなだめて過ごす帰路。
薊橋駅を降りて、逃げこむようにステーションインに駆け込む。
すっかり顔見知りになったフロントのボーイさんに会釈をしてエレベーターに乗り込む。
三階に到着すると、思いがけない事態が待っていた。
「……お父さん?」
302号室の前で所在無げに佇んでいた痩身の男性に、私は訝った声をかける。
少し大げさに驚いた素振りで、私の戸籍上の父親は気まずそうな視線を飛ばしてきた。
ノータイのスーツ姿だったが、Yシャツのボタンが一番上まで締まっていてネクタイをしているよりも息苦しそうだった。
「ああ、お帰り」
まさか、私が帰ってくるのを待っていたのだろうか?
それよりも、まだ七時過ぎだというのに彼がここにいるというのはどういうことだろう?
私の知る限り、普段彼が帰宅するのは一番早い時間でも夜の十時前後のはずだ。
「少し、話したいことがあって。早めに帰ってきたんだ」
「え?」
すぐには言われている意味が理解できなかった。
母が蒸発してから約四年間、改まって話なんてされた記憶がなかったからだ。
転校することが決まった時だって、いつもメールで「連絡」を受けていた。
「荷物をおいたら、こっちの部屋に来てくれ」
それだけ言い残すと、301号室に入っていく父。
ドアが閉じるバタンという音が、やけに大きく響いて聞こえた。
話?何を改めて?
想像してみるが、あまりに取っ掛かりがなさすぎる。
父の近況どころか、そもそも今どんな仕事をしているのかもはっきりとは分からないのだ。
とにかく、聞いてみるしかないだろう。
私は302号室に荷物を放り込んで、すぐに301号室の扉を開いた。
私の部屋と全く同じレイアウト。
仕事用らしい鞄が机の上にあることと、換えのスーツがカーテンレールにかけられていることだけが違う。
父はベッドの端に腰掛けて、眼鏡を拭いている。
「椅子、座って」
「……」
私は無言で椅子を引く。
あまり真正面から向き合うのは気が引けて、体を少し斜めにして腰掛けた。
「……」
眼鏡をかけ直して、切り出しづらそうに黙りこむ父。
中央で分けた白髪混じりの髪には寝ぐせのような跡がついているし、何日か髭を剃っていないように見える。
頬は痩けているのに一重の瞼は少し腫れぼったくて、ひどくくたびれた印象を与える。
古ぼけた眼鏡の奥の白目が充血している。
多分、毎日睡眠時間を削ってまで仕事に打ち込んでいるのだろう。
「……話って?」
沈黙に耐えかねて、私は促した。
必要以上に声が冷たくなってしまった。
「ああ、それが……」
口ごもりながら目をそらす仕草に、不吉な予感を覚える。
珍しく動揺しているように見える。
何か、あまり良くない話題を振られるような気がしてならない。
「……お母さんがな」
「え?」
お母さん?
私の祖母に当たる人の話だろうか?
顔も見たことはないが。
「冬実が、見つかったんだ」
一瞬、本気で誰のことだか分からなかった。
冬実。冴木冬実。
それは、私の母の名前だった。
「知り合いにお願いして、調べてもらっていたんだ。生い立ちから考えて、身寄りを求めるなら都内だろうと思ってね。それで、数週間前に、連絡がついたんだ」
脳裏に浮かぶ母の顔。
意識的に思い出さないようにしていたその面影は、薄いモザイクが掛かったようにはっきりしない。
「パチンコ店でアルバイトをしているそうだ。実は、先週一度電話で話もした」
父が何を言おうとしているのか、この話題がどういう結論に行き着くのかが全く予想できない。
それ以前に、どんな反応をして良いのか……自分自身がどう感じているのかすら把握できていなかった。
「かなり生活にも困っていて、一度胃を酷く患って入院したそうだ。その……少なくない額、借金もしているらしい」
「……へえ」
私の頭はついに、そのことに向き合って考えようとすることを放棄した。
他人事として聞き流そうとして、口から勝手に言葉が漏れ出た。
「それが、どうしたの?」
私の反応に理解を示そうとするように、父は少しこちらに身を乗り出した。
「芽衣。結論から言うと……」
「うん」
「……私は、冬実とやり直したいと思ってるんだ」
「……」
ただでさえ許容量を超えている状態の頭に、また新たな異物が放り込まれる。
私は眉間のあたりに強い痛みを覚えた。
「四年前、冬実が失踪した時、実はメールを受け取っていてね。……彼女は、お前を私に押しつけるようにして姿を消すことを、とても気に病んでいたんだ」
「……」
「女手一つでお前を育てていくことの重圧に耐えかねて私と一緒になったらしいんだがね、情けない話当時の私は、お前たち二人を満足に養っていけるほど稼げていなかったんだ。あの時私がもっとしっかりしていれば、彼女はあんな選択をしなくて済んだのかもしれない」
「……待って、ちょっと」
頭痛が眉間から後頭部の方まで広がって、頭がグラグラする。
「……すまない。今まで散々私の仕事の都合でお前を振り回しておいて、その上こんな話を……」
自嘲気味に呟く父の姿は、情けなくなるほどに弱々しくて、驚くほど人間臭かった。
数日前、どうしてこの人のことを機械のようだと思ったのか。
ここ数日の間に、何がそこまで彼を変えてしまったんだろう。
「でも、やっとこれで最後にできるんだ。今の仕事が落ち着いたら、本社勤務になれる見通しが立った。収入も、三人で十分暮らしていけるくらいになりそうなんだ」
「え……?」
視界が四隅から黒く侵食されていくような感覚。
今、何て……?
「早ければ、あと一ヶ月後くらいには辞令が出る。次に引っ越せば、もう転校を繰り返したり、こんなホテルで暮らすようなことをしなくて済む。それで、お前がお母さんと一緒に済むことを了承してくれれば……」
「……嫌だ」
父の言葉の語尾を食うように、私は拒絶の言葉を吐いた。
「芽衣?」
「嫌だよ。私、ここを離れたくない」
「……どうして?」
今まで転校するときには黙って従うだけだっただけに、私の反応は予想外だったようだ。
「お母さんのことは、まだゆっくり考えればいいんだ。ただ、仕事のことはもうどうにも……」
「嫌だって言ってるでしょ」
私は語気を強めて立ち上がる。
勢いで椅子が後ろに倒れた。
父は目を丸くして、呆気にとられたようにぽかんと口を開いたまま私の顔を視線で追った。
「行きたければ一人で行って。私、ここで一人で暮らすから」
「……そんな訳には行かない。そんなこと、まず不可能だろう」
「どうして?バイトすれば普通に生活くらいできるよ。あの人もそうしてたんでしょ?」
「でも、お前はまだ学生で」
「学校なんか行かなくていい。何のために行ってるのか、分かんないし」
「……芽衣。転校続きだったことは本当に申し訳なかったと思ってる。そんな状態からなんとか脱却するために、ここ数年私も頑張ったんだ。もう一度だけ我慢してくれれば、普通の学校生活が送れるようになるんだよ。今まで何とか上手くやってこられてたじゃないか。勉強だって、頑張ってついていってるんだし」
私の中に、今まで味わったことのないどす黒い感情が膨らんでいく。
それ以上口にしないでと脅すように、懇願するように睨みつけるが、父は畳み掛けてくる。
「……それに何より、冬実はお前と暮らしたがってるんだ。今までのことを悔いて、やり直したいと言ってる。血の繋がった母親と離れて暮らすのは、お前のためにも……」
「……今更、父親ぶらないでよ……。私のことなんか、お荷物くらいにしか思ってなかったくせに!」
私は、机の上にあったコーヒーカップを掴んで、どこへともなく投げつけた。
カップは父の肩をかすめて、ベッドの向こうの壁にぶつかり、鈍い音を立てて砕けた。
呆然とする父を睨みつけながら、私は叫ぶ。
「今まで、まともに話もしようとしなかったのはどうして?そうする価値もなかったんでしょ?ただそこらには捨てられないから仕方なくそばに置いてただけでしょ?何も不満を言わないからって、お金だけ渡して野放しにして。それで今度は何?逃げた女とよりを戻すダシに使うつもり?!私の事なんだと思ってるのよ!?ふざけないで……ふざけるのも、いい加減にしてよっ!!」
喚き散らす言葉の中で、私は初めて自分の中の憤りを知った。
自分という負債のような存在を背負わせてしまっていることを申し訳なく思うばかりだったはずなのに、その裏で私は自覚もないままこんなにも怒りを溜めていたのだ。
「……少しでも、私が何を考えているか想像したことがある?ほんの少しでも、私のことを理解しようと思った?実の父親に慰み者にされて、実の母親には捨てられて、どこの誰とも知れない男を父親だとあてがわれて、二度も苗字が変わって!どこに行っても一人ぼっちで、溶けこんだと思ったら引き離されて、新しい場所に行く度に見世物にされて!」
「……芽衣」
「ここに来るまで私は、友達もいなかったし、趣味も楽しみの一つもなかったんだよ……。おかしいと思わなかった?引っ越す時私の荷物を見て小さすぎると思わなかった?学校で書いた絵とか、工作とか、どうして持って帰ってこないんだろうって疑問に思ったことはなかったの?卒業アルバムなんて、もらったその日に焼却炉に投げ入れて帰ってきたんだよ?」
堰を切った言葉は止まらない。
今まで必死に私を養ってくれていた人なのに、出来るならその御礼を言いたいと思っていた相手のはずなのに。
「私がどれだけ普通の家庭や生活に憧れて、どれだけ他人を妬んで毎日を過ごして来たか分かる?せっかく出来た大切な友達の家で、なんでもない家族の会話や日常が羨ましくて、泣きたくなるんだよ……。少しでも仲良くなれたら、その人が他の誰かと話してるのを見るだけで、嫉妬で狂いそうになるんだよ!何でこんな思いしなきゃいけないの……?ねぇ!私、どうしてこんな……私が何したって言うのよっ?!」
「……」
「……私が、上手くやってこられてた?一体何を見てそう思ったの……?もうとっくに私は、どうしようもないほど歪んでるの。今更家族ごっこの中に引き戻したって、まともになんかなれないよ。きっと家庭を滅茶苦茶にするだけ。あの人と一緒に暮らしたいなら、私とは縁を切って、ここに捨てて行って」
私は一方的にそれだけ言って、父に背を向けた。
早足で廊下に出て、叩きつけるように301のドアを閉める。302号室に滑り込んで、鍵をかける。
そのまま、ドアに背中を預けて崩れ落ちた。
「……っ……う……っ」
漏れそうになる嗚咽を、自分の制服の袖を噛みしめて耐える。
馬鹿みたい。ヒスを起こして八つ当たりして泣き喚くくらいなら、いつものやせ我慢でやり過ごせばよかったのに。
明日は、ヒロカとの大切な日なのに、こんな考えなしの大声をあげて、本当に馬鹿みたいだ。
「芽衣。話を聞きなさい!」
ドア越しに、追いかけてきた父の言葉がくぐもって響く。
私の知る父らしからぬ、なりふり構わない言動だった。
「芽衣、済まなかった。私も必死だったんだよ。一日でも早くお前とお母さんと、三人の生活に戻りたかったんだ。そうするしか私達全員の問題を解決する手段が……」
「……もういい。やめて」
「……お母さんと一緒なら、少しずつでもお前と話が出来るようになっていくと思うんだ」
「やめてって言ってるの!」
私の拒絶の声に一瞬黙り込んだ父だったが、低く押し殺した声で続けた。
「もしお前が言うように、お前が歪んでしまっているとしたら、まずはそれを直すんだ。普通の生活を送って、普通の価値観と感覚を身につけるんだよ。そうでなければ、まともに社会の中で生きていくことはできないだろう?特に、今のままで一人でなんて、夢のまた夢だ」
「……」
「今は分からなくても、すぐに気づく時が来る。お前はまだまだ若いんだ。いくらでもやり直せる。目先のことだけに囚われるな」
私はそれ以上反応することをやめて、ただ黙って座り込んで肩を震わせていた。
しばらくするとドアの向こうに父の気配はなくなっていた。
父がいなくなっても、父の言葉が呪詛のように私の耳の中にこびり付いて離れなかった。
絶対に言いなりになるつもりはない。
ヒロカと一緒にいるためなら、天涯孤独になったって構わないと思う。
私の気持ちは、父なんかに分かるはずはない。
あんな言葉に従ってはいけない。
……しかし、父の言うこと全てが私を言いなりにするための方便だろうか?
例えば、本当に一人でこの街で生活していくとして。
こんな世間知らずで、なんの取り柄もない小娘一人で、どうやって稼いでいけばいいんだろう。
私は、ヒロカと一緒に、ヒロカを守って生きて行きたい。
そのためには一体、何をどうすればいいのか?
想いの強さとは裏腹に、何も具体的な方法が浮かんでこない。
自分の母は父と別れて、一人で暮らしていくことすらままならなかったらしい。
私も同じ轍を踏むことになりはしないだろうか?
その時、ヒロカはどうなる?
もう、いい加減にして欲しかった。
私はただ、ただヒロカと一緒に楽しく音楽をやっていられればいいだけなのに。
ヒロカ。ヒロカ……。
やっと出会えた、大切な人。
私が、生きていると感じられる場所をくれる人。
大好きな人。
嫌だ。
離れたくない。
彼女無しの生活なんて、想像するのも恐ろしい。
ならば無理を通して一緒にいる?
そうして、自分のエゴで最終的に彼女を不幸にすることになったとしても?
私は、彼女を幸せにするために彼女と一緒にいたいのか?
それとも今までの不幸を取り戻すために彼女といたいのか?
自分の幸せのために他人を不幸にするならそれは自分の母親と同じことをして母親と同じ結末を迎えて最後には大切だったはずのものを捨てて私がヒロカを捨てて私は最後には――。
……もう嫌だ。
疲れた。
酷い目眩に襲われて、私はそのまま滑り落ちるように床に倒れた。
肩が姿見がにぶつかって一緒に転倒し、鏡に無数のヒビが入った。
汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔に髪が張り付く。
割れた鏡の破片の中に、私の顔がいくつも並んでいる。
それらすべてが私に詰問してきているような気がした。
「……やめて。……もう許してよ……」
私は全てを拒絶するように、目を閉じた。
何十分そうしていただろうか。
ポケットの中で携帯が震えた。
指先ひとつ動かすのも億劫な状態だったが、なんとなく予感がして、私はカーペットの上に倒れこんだままスマホを取り出した。
画面を確認する。
やっぱりヒロカからメールだった。
私はすがるような思いでそれを開封した。
『今日の練習の録音、送るね!メールだとサイズ制限あるから、いくつかに分割しておいたから。再生方法とか分かんなかったら、なんでも聞いてね。XXX』
ヒロカが打った文字。
ハートの絵文字。
少し遅れて送られてきた、ミニチュアダックスがウィンクするアニメーションスタンプ。
私は、スマホ画面の受話器アイコンをタップしようとして、躊躇った。
本番は明日だ。
こんな話、聞かせられるはずがない。
それでも、ヒロカの声が聞きたくて、私はメールに添付されている録音ファイルをタップした。
六つあるうちの最後のファイルが、ヒロカの作った曲の録音だった。
彼女のギターと声が、手の中のスピーカーから再生される。
ただひたすらに優しく、穏やかな声色。
人を疑ったり恨んだりすることなんて考えたこともないような、無垢という言葉が何よりも似合うメロディ。
何故、この人は私を思ってこんなにも素敵な曲が作れたんだろう。
ヒロカはどうして、私なんかを好きになってくれたんだろう。
そのメロディは、私の救いようのない懊悩をすべて受け入れた上で、それでも一緒にいたいと伝えてくれている気がした。
過去の私と今の私、違うところがあるとすれば、それはヒロカと繋がっていることだ。
もし私が本気で、助けて欲しいと声をあげれば、彼女は今からだって私に会いに来てくれるだろう。
たった一人でも、自分のために何を投げ打っても行動してくれるという事実が、私にもう一度体を起こす力をくれた。
ここでまた私が無気力の内に沈んでしまえば、ヒロカとの出会いは私に何も与えてくれなかったことになる。
そんな結末を、許すわけにはいかない。
私は鞄から一本のボールペンと、ルーズリーフを取り出した。
内部から頭蓋をぶち破ろうとしているのではないかというほどの頭痛に耐えながら、体をもたせかけるようににして机に向かう。
「……見ていてね、ヒロカ。あなたが教えてくれたことを、私は貫いてみせるから」




