第二話 魔界の少年
身体が暗闇へ沈んでいく。
落下する感覚の中で、レナトリアは目を閉じた。
風が頬を打ち、編み込まれた髪が背後へ流れる。祭服の裾が大きく翻り、手首の枷が鎖を鳴らした。
レナトリアは胸元のペンダントを握ろうとした。しかし、両手は枷に繋がれたまま、思うように動かせなかった。
魔界。
地上とは異なる世界。魔物が棲み、魔王が統べるとされる場所。
教会は、魔界の魔物が地上を脅かすと説いてきた。魔王への奉献は、その脅威を鎮めるためのもの。
聖女は、そのために存在する。
レナトリアは幼い頃から教会本部の塔で暮らし、神官たちの教えを受けてきた。外へ出ることはほとんどなく、窓から見える景色と、書物に記された世界が彼女の知るすべてだった。
最後に生贄となったのは、大叔母だった。
曾祖父の妹にあたる彼女も、レナトリアと同じように聖女として育てられ、十八歳で魔界へ送られたという。
塔の一室に飾られた肖像画の中の大叔母は、細く整えられた眉に静かな眼差で、口元にはわずかな微笑みが浮かんでいた。
(……大叔母様は、どんな気持ちで穴へ落ちていったんだろう……)
怖かったのだろうか。
それとも、聖女としての役目を果たすことを、当然だと思っていたのだろうか。
肖像画の中の大叔母は、何も答えない。
レナトリアには、その答えを知る術はなかった。
レナトリアは唇を結んだ。
不意に、下から吹き上げる風がレナトリアの身体を包んだ。
「……っ」
閉じていた瞼の裏に、風の流れが変わった気配が伝わる。
落下の勢いが、少しずつ弱まっていく。
やがて、背中と膝の裏に、誰かの腕が回された。身体が宙に浮いたまま支えられていた。
「習わしだからって、拘束して落とすなんて……酷いじゃんね」
少年の声だった。
レナトリアはゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫、おねーさん?」
目の前にいたのは、レナトリアより少し年下に見える少年だった。
黒髪の襟足は細く編み込まれており、茶色の瞳がこちらを覗き込んでいる。
少年は、首元まで詰まった黒い上衣を着ていた。胸元には横向きの留め具が並び、その上から、ゆったりとした深い朱色の上着を羽織っている。
その袖口から覗く手首には、幅の太い腕輪が着けられていた。
少年は、レナトリアを抱えたまま、大きな鳥の背に乗っていた。
鳥の翼がゆっくりと羽ばたく。
レナトリアは、少年と鳥を交互に見た。
背中に回された腕の感触に気づき、身体がわずかに強張る。
すぐに身を離そうとしたが、地についていない足が空を切るだけだった。少年の腕を振りほどくこともできず、彼女はひとまずその顔を見つめた。
「あなたが……魔王……?」
「え、魔王?」
少年は目を丸くし、首を振った。
「違うよ、俺は魔王なんかじゃない……あー、でも地上だとそうなるのかな?」
「……どっち?」
はっきりしない少年の様子に、レナトリアは首を傾げた。
少年はレナトリアに微笑み、それから眼下に視線を移す。
「……いろいろ話をする前に、まずは場所を変えよう」
少年はそう言って、鳥の首元を軽く叩いた。
大きな翼が広がる。
風がレナトリアの祭服を巻き上げ、髪を揺らした。
彼女は、恐る恐る周囲へ目を向けた。
眼下には、山々がどこまでも連なっていた。
その頂には白い雲がかかり、深い谷間には緑の森が広がっている。
視界を遮るものはなく、遠くの山並みまで見渡せた。
レナトリアは、思わず息を止めた。
塔の窓から見える景色は、いつも決まった額縁の中に収まっていた。遠くの山も、森も、書物に描かれた挿絵も、そこから先へ続くことはなかった。
けれど、今は違う。
風が頬を撫で、雲がすぐ目の前を流れていく。眼下の森は、見渡す限りどこまでも続いていた。
(これが、魔界……)
レナトリアは、少年の腕に支えられたまま、眼下の景色を見つめていた。
胸元で、聖印のペンダントが風に揺れた。
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