第一話 生贄の聖女
王城の地下には、窓がない。
石壁に囲まれた広間の中央には、床一面に大きな魔法陣が描かれていた。幾重にも重なる円と、複雑な紋様。その周囲には燭台が並び、揺れる炎が壁に長い影を落としている。
広間の奥には、国王が立っていた。金糸で縁取られた黒い礼服に身を包み、頭には王冠を戴いている。
国王は一度広間を見渡してから、重々しく口を開いた。
「これより、魔王への奉献を執り行う。聖女レナトリア・ラ・フィオセルス、陣の中央へ出よ」
名を呼ばれて、レナトリアは一歩を踏み出した。
両手首に嵌められた枷が、動くたびに乾いた音を立てる。鎖が祭服の袖に触れ、そのたびに銀糸の刺繍がかすかに揺れた。
レナトリアは足元の魔法陣を見つめ、円の縁をひとつずつ越えていく。
しかし、最後の一歩を踏み出す前に、ほんのわずかに足が止まった。
床に描かれた紋様の先には、国王と神官たちがいる。その傍らに、見慣れた白い衣服が二つ並んでいた。
レナトリアは視線を上げた。
淡い桃色を帯びたブロンドの髪は、儀式のために編み込まれ、白い祭服の背へ流されている。袖口と裾には銀糸で細かな刺繍が施され、胸元には聖印を象ったペンダントが下がっていた。
レナトリア・ラ・フィオセルス。
代々神官を務める家に生まれ、十八歳を迎えたばかりの彼女は、成人の証として「ラ」の名を授かった。生まれる前から聖女となることが定められていたレナトリアは、今日、魔王への生贄となるべく魔界へと堕ちる。
国王の隣では、白い神官服を纏った父と母がレナトリアを見つめていた。
母は胸元で両手を重ねている。指先が白くなるほど力が込められていたが、レナトリアと目が合うと、母はゆっくりと口元を整えた。
父は何かを言いかけるように唇を動かした。けれど、声になる前に目を伏せる。祭服の袖から覗く手が、わずかに握られていた。
その少し後ろに、赤髪の少年が立っていた。
俯いた顔の下で、両手が固く握られている。指の関節が白く浮き、爪が掌に食い込んでいた。
レナトリアより三つ年下の弟、カルロ・フィオセルスだった。
赤い髪を短く整え、両親と同じように白を基調とした礼服を身に着けている。襟元には銀糸で聖印が刺繍されていたが、成人した神官に与えられる装飾はまだない。
「……こんな習わし、おかしいです」
カルロは身体の横で拳を握りしめた。
声は広間に響いたものの、最後の一音がかすかに揺れていた。
「どうして姉上が生贄に……」
父は眉を寄せ、制するようにカルロの肩に手を置いた。
母は重ねた手を解きかけ、また胸元へ戻した。
レナトリアは顔を上げ、広間の奥に並ぶ人々を見渡した。
カルロと目が合う。
彼は何かを言おうと唇を開いた。けれど、父の手に肩を押さえられたまま、声を出せずにいる。
レナトリアは、弟へ向けて小さく首を振った。
それから、国王の傍らに控える神官長へ視線を移す。神官長は儀式用の杖を手に、静かにそれを掲げた。
「金色の盟約に則り、その扉を開かん――」
詠唱の声が、石壁に反響した。
神官が杖を振り下ろすと、床に描かれた魔法陣が淡い金色の光を帯びる。
円を描く紋様が順に輝き、石床の継ぎ目から白い光が溢れ出す。低い音が広間を揺らし、中央の床がゆっくりと沈み始めた。
レナトリアの足元が動いた。
祭服の裾が揺れ、鎖が床を擦る。足裏から伝わる振動に、彼女は一度だけ息を止めた。
魔法陣の内側に、黒い穴が開いていく。
その奥には何も見えない。
レナトリアは胸元のペンダントに目を落とした。聖印の表面に、魔法陣の金色が映り込んでいる。
思わずカルロが前に出た。
「待て、カルロ!」
父が腕を伸ばすが、カルロは振り返らない。
床石が擦れる轟音の中、レナトリアはカルロへ顔を向けた。
「……カルロ、父上と母上をよろしく」
カルロの肩が震えた。
伸ばしかけた手が、行き場をなくしたように宙で止まる。
「あなたが家を継ぐのだから、しっかりしなさいね」
レナトリアは口元をわずかに緩めた。
喉の奥が狭まるが、すぐに息を吸い直し、レナトリアは弟の顔を見つめた。
「さようなら」
「姉上っ――」
伸ばされたカルロの手が、空を切る。
レナトリアの指先が、枷の内側でわずかに動いた。
床が完全に開いて、彼女の身体が暗い穴の中へ落ちていく。
白い祭服が翻り、銀の枷が光を弾いた。
石床がゆっくりと閉じ、魔法陣の光も徐々に消えていった。
レナトリアの視界いっぱいに、闇が広がった。
お読みいただき、ありがとうございます。
この話を少しでも気に入っていただけたら、
感想やレビュー、リアクションなどをぜひお願いします!




