志乃屋幸四郎と、勝治。
私は短歌も素人です。
唯唯、幸せであれ。
そのような願いを込めて名を付けられたのが、幸四郎である。
江戸一番の大店、呉服・反物問屋『志乃』の四男坊だ。
屋号の志乃という名の由来は、何代だか前の創業者の妻だとか妾だとかと聞いた覚えがあるような気もするが、店を継ぐ身でもない幸四郎にとってはどうでもよいことである。
志乃屋の幸四郎さん、または、志乃屋の四郎さん。
そう呼ばれれば返事をする。
それだけの話であった。
「なぅ……」
縁側に胡座をかいた幸四郎の膝の上、我が物顔でごろごろと喉を鳴らしているのは、猫だ。
黒毛に青色の瞳。雄であると知ったのは不可抗力。腹を見せて寛がれてしまえば嫌でも目に入る。
「おまえ、懐っこいね」
「にゃおん」
春の陽気に誘われた幸四郎は起き抜けの身であるが、まだ朝も早い。
父母と一番上の兄夫婦が暮らす本邸と庭続きのこの離れには、幸四郎と、御目付役で世話役の勝治しか住んでおらず、用でもなければ奉公人も寄りつかない場所である。
つまり、誰に見咎められる心配もない。
背に垂らした黒髪は結いもせず、気怠さの残る身体には襦袢一枚が気楽だ。半衿が濃青の、縞柄長襦袢だ。呉服問屋の息子らしく粋なものだと気に入っている。少々肌寒くはあるものの、膝の上で寛ぐ猫を退かすほどでもなかった。
「同じ黒でも、私の勝治とは大違いだ」
ふと思い浮かべた男に、幸四郎の喉が微かに揺れる。
猫の毛並みは柔らかく、撫でている手にも心地よい。四肢を投げ出して腹まで晒す様には、警戒の欠片もない。浮かんだ強面とは正反対である。
「にゃあ」
「はは」
剥き出しの腹を撫で、蹴りつけてくる肉球を指先であやす。ひとり笑っていたところで、背後の畳がぎしりと鳴った。
「幸四郎さん?」
噂をすれば何とやら。
縁側に響いた低音に、幸四郎は猫を撫でる手を止めた。
「ここだよ、勝治」
「あぁ、幸四郎さん、こちらにいらしたのですか。朝餉の支度が終わ……」
袂を捲っていた紐を解きながら、勝治が姿を現す。幸四郎と目が合うなり、その声は半ばで途切れた。いったん奥に引っ込んだかと思えば、ほどなく戻って来る。腕には幸四郎の着物があった。
そのままのしのしと歩み寄り、勝治は幸四郎の脇に両膝を着く。
勝治は上背のある美丈夫で、ひょろりとした幸四郎より頭ひとつ背が高く、軽々と抱き上げてしまうくらいには力持ち。おまけに町を歩けば方々から視線を浴び、感嘆の息を吐かれる男ぶりときた。
「またこんな薄着で……いけませんよ、幸四郎さん」
黒猫とは正反対の、勝治である。
肩にふわりと着物を掛けられ、幸四郎は頬を緩めた。
「少し寒いと思っていたんだよ、さすがは勝治だね」
長く叱られる前に先手を打つ。けれども勝治の目は幸四郎を通り過ぎ、膝の上へと向かった。
「なぉん」
そこにいるのはだらけきった猫である。
勝治は思い切り眉を寄せた。
「何処の手の者です?」
「不穏だなぁ」
何処からどう見てもただの猫。
幸四郎はころころと笑った。
「ほれ、もう行きなさい」
「にゃー」
勝治の手が猫の尻を追い立てる。
膝から飛び降りた猫は不満げにひと鳴きすると、庭の草木を足場にして塀を軽々と飛び越えて行った。幸四郎の背丈をすっぽりと隠す高さの塀である。
「あんなに高い塀も越えていくなんて、大したものだねぇ」
言いながら勝治を見上げる。
今度は、美丈夫の口元が僅かに緩んだ。
「猫は足腰が強いですから」
「そうなんだねぇ」
「えぇ」
頷いた勝治は、着物を掛けるだけでは気が済まなかったらしい。
幸四郎が尻の下に敷いている座布団の向きを変え、同時に幸四郎の向きも変えてしまう。骨張った大きな手のひらと長い指が近づいた。
甲斐甲斐しく袷を整え、襦袢から覗いていた鎖骨を隠す勝治。
ところが、待てど暮らせど満足する気配はなく、それどころか勝治の眉間の皺はますます深くなっていくばかり。
幸四郎は指先をそっと持ち上げた。
目の前であれこれと気を揉んでいる男の髪に触れる。
やはり、硬い。
「今日は外出はやめておこうかな」
ぽつりと呟くと、勝治の手が止まった。
すっと通った涼し気な目が幸四郎を映す。髪を撫でていた手を掬い取られ絡む、指と指。
座ったままの幸四郎の首元を隠すことは諦めたようだ。
「是非ともそうなさってください」
「ぐうたらを勧めるだなんて悪い御目付役だね」
「ぐうたらではありません。安静です」
御目付役の屁理屈に幸四郎はまた笑い、空き手を目の前の肩へ置く。次いで顎を持ち上げると、勝治の瞳がとろりと蕩けた。
互いの顔が傾き、近づく。
吐息が触れ合う。
「それに、幸さんとふたりきりの時は、お役は返上をと……」
強面男の甘い甘い言葉に瞼を伏せかけた幸四郎は、あっと瞬いた。
「幸さん?」
「浮かんだよ」
「詩ですか?」
「うん」
頬を包む手に、幸四郎はにこにこと頷いて見せる。鼻先が擦り合う。勝治が僅かに息を逃がしつつ、ゆるりと腰を下ろした。その足の間に挟み込まれながら幸四郎は塀を見た。猫が越えた塀だ。
縁側の 春の心地も 塀を越え
揺れる尾に酔い 着物は温く
朗々と紡いだ言葉は、結句で勝治の袷に指を這わせたところで、空気に溶けた。




