第039話 遠い闇の王配候補
湖を閉じたあとも、秀直はしばらく動けなかった。
水面には、もう何も映っていない。
黒い経路もない。
白い翼の尾根もない。
銀白の光も、王配候補に似た分類語も消えている。
ただの水だ。
それなのに、秀直の胸の奥には、まだ誰かがいた。
誰かが、遠い闇の中で立っている。
孤独ではない。
いや、孤独ではないはずなのに、孤独に見える。
複数の手を取ろうとしている。
誰かを選ぼうとしている。
選ばされているのではなく、自分で選ぼうとしている。
その感触だけが残っていた。
「秀直様」
ミリアムの声が現実へ引き戻す。
「記録名を確認します」
「遠い闇の王配候補反応」
秀直は、さっき自分で言った名を繰り返した。
言いながら、喉の奥が痛んだ。
本当は別の名を呼びたい。
あまりに短く、あまりに近い名。
子どものころから、何度も呼んできた名。
怒る時も。
探す時も。
笑う時も。
置いていかれた気がした時も。
その名が、舌の上まで来ていた。
「記録名に、弟の名前は入れません」
ミリアムは、先に言った。
やわらかくはなかった。
だから、ありがたかった。
やわらかく言われたら、秀直は甘えたかもしれない。
「わかってる」
返事は、思ったより掠れた。
ミリアムは記録窓に注記を入れる。
本人性未確定。
人物名なし。
顔なし。
声なし。
現在地なし。
分類語は不安定。
対象は複数の手を取るような選択反応を示す。
「王配候補、という分類について」
ミリアムは続けた。
「弟側の制度名である可能性と、こちら側の記録が近い概念へ誤訳している可能性を分けます」
「制度名」
秀直は、その言葉を噛んだ。
制度。
候補。
王配。
どれも、弟の記憶とは直結しない。
それなのに、胸の奥のどこかが引っかかる。
あいつなら、そんな場所でも妙に背筋を伸ばして立つかもしれない。
自分だけを守るのではなく、周りの手を取ろうとするかもしれない。
そう思ってしまう。
思ってしまった時点で、もう危ない。
「秀直」
シャルロッタが名を呼んだ。
いつもの敬称ではなかった。
その分、距離が近い。
「あなたが今見ているのは、弟君ですか」
秀直は、答えられなかった。
答えたい言葉はある。
そうだ。
たぶん、そうだ。
あれは弟だ。
生きている。
別の場所で、誰かを選んでいる。
そう言えたら、どれほど楽だろう。
「証拠はない」
ようやく出たのは、その言葉だった。
シャルロッタはうなずく。
「では、誰として扱いますか」
「誰として」
「あなたが見たい弟として扱えば、あなたの希望が先に立ちます」
彼女は湖面を見た。
もう何も映していない水を。
「そこで選んでいる誰かとして扱えば、相手の選択が先に立ちます」
秀直は、拳を握った。
痛いほど正しい。
痛いほど、嫌な正しさだった。
「俺は」
言葉が途切れる。
喉の奥で、弟の名がまた引っかかった。
呼びたい。
呼べば、届くかもしれない。
届かなくても、こちらが気づいたと伝わるかもしれない。
いや、違う。
伝えたいのではない。
自分が安心したいのだ。
遠い闇の向こうにいる誰かを、自分の知っている名で縛れば、怖さが少し減る。
知らない場所で、知らない責任を負っている誰かではなく、弟だと思えれば、秀直の心が保つ。
「呼びかければ」
秀直は、かすれた声で言った。
「相手を、俺の希望へ引き寄せることになる」
ミリアムの指が止まった。
記録ではなく、聞いていた。
「そう思います」
シャルロッタは答えた。
「少なくとも、今の証拠では」
湖面が、わずかに震えた。
誰も触れていない。
七環錫杖も、鳴っていない。
それでも、黒い経路の名残が一瞬だけ水底に戻った。
秀直が弟を思ったからではない。
弟と呼ばなかったからでもない。
相手を、自分の希望ではなく、そこで選んでいる誰かとして扱った瞬間。
黒い経路は、細く反応した。
「記録」
ミリアムが低く言う。
「反応発生。条件仮説を更新します」
「言って」
秀直は湖面から目を離さなかった。
「血縁想起、単独では反応なし。強い願望、単独では反応なし。対象の選択を、本人性未確定のまま証言対象として扱った時、黒月経路が微弱反応」
アクアリナが目を閉じ、湖に触れた。
「湖は、感情の形を映しています」
「人物名は」
ミリアムが促す。
「保証しません」
アクアリナは、はっきり言った。
「この湖が映しているのは、誰かの名ではありません。選択の形です」
選択の形。
秀直は、その言葉を胸の中で繰り返した。
黒い経路の奥で、何かがまた揺れる。
複数の影。
複数の手。
その中心にいる誰か。
相手の固有名も、関係名も、国の名も、何も出ない。
ただ、誰かが一人で立つのではなく、複数の手を取ろうとしている。
自分の責任を、誰かを所有する形ではなく、共に立つ形へ変えようとしている。
そんな感触だけがある。
読めない。
だが、感じてしまう。
「もう一人の証言者」
ミラが呟いた。
「選び取る者」
彼女の声は震えていた。
神官としての震えではない。
竜皇の言葉が、湖の反応と重なったことへの震えだ。
「可能性として、記録します」
ミリアムが言う。
「確定ではありません」
「はい」
ミラは、すぐに言い直した。
「可能性として」
その修正を、秀直はありがたいと思った。
みんなが、彼の希望に合わせて結論を急がない。
それが、かえって希望を残してくれる。
「兄上」
クリスティーナが小さく言いかけて、口を閉じた。
彼女もまた、言葉を選んでいる。
弟子として、師匠の痛みを止めたい。
でも、止め方を間違えれば、証拠の線を歪める。
「師匠」
言い直した声は、落ち着いていた。
「今、追いますか」
秀直は答えられなかった。
追いたい。
あまりに追いたい。
湖を深く開けば、もっと見えるかもしれない。
七環錫杖を鳴らせば、黒い経路が強くなるかもしれない。
ティアナが歌えば、届くかもしれない。
そんなことは、わかっている。
できるかもしれないことがある時、人はそれを責任と呼びたくなる。
見えたものを追う責任。
記録者として確かめる責任。
兄として、手を伸ばす責任。
どの言葉も、正しそうに見える。
「追いたい」
秀直は言った。
隠せなかった。
「でも、追う理由が、検証じゃない」
自分で言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
「安心したいだけかもしれない」
湖面は沈黙した。
神々が笑う気配はない。
祝福もない。
嘲りもない。
ただ、分類語だけが記録層の奥で不気味に揺れている。
闇。
王配。
候補。
選択。
どれも、人の名にはならない。
「なら、今日は追いません」
シャルロッタが言った。
「記録は残します。仮説も残します。けれど、あなたの安心のために湖を開きません」
ティアナが、歌わないまま息を整えた。
ソフィアが静かに秀直の隣へ立つ。
「見たいものがある時ほど、見ない選択にも責任があります」
その言葉は、ソフィア自身の経験から来ていた。
守られる名を拒んだ彼女だから言える。
誰かが自分を助けたい物語へ入れようとした時、その物語がどれほど息苦しいかを知っているから。
秀直は、湖面を見た。
黒い経路は、もう消えかけている。
「記録名は、そのまま」
「遠い闇の王配候補反応」
ミリアムが確認する。
「注記は」
「本人性未確定。弟本人とは扱わない。対象は、黒月経路の先で選択反応を示す誰か」
ミリアムの手が、少しだけ止まった。
それから、正確に入力する。
「登録します」
湖面が完全に静まった。
秀直は、ようやく息を吐いた。
弟が生きているかもしれない。
そう思うことは止められない。
だが、証拠がないものを弟と呼ぶことは、相手の選択を奪う。
もし本当にその向こうに誰かがいるなら。
もし本当に、その誰かが自分で選ぼうとしているなら。
兄の希望で引き寄せてはいけない。
「ミリアム」
「はい」
「黒い経路が出た条件を、もう一度整理してくれ」
「次の実験計画にしますか」
秀直は、少しだけ黙った。
「実験という言い方は、危ないな」
「はい」
ミリアムの返事は速かった。
「条件整理、とします」
「それで」
ミリアムは記録窓を閉じかけ、最後にもう一行を加えた。
黒い経路は、秀直が弟を思った時ではなく、誰かの選択を証言として扱った時に現れた。
その一文を見て、秀直は唇を噛んだ。
そこに希望がある。
同じくらい、危険もある。
次に進むなら、そこを間違えてはいけない。
湖畔の風が、水面を小さく撫でた。
遠い闇は、もう見えない。
それでも秀直は、そこに誰かがいると知ってしまった。
知った、ではない。
感じた。
そして、感じたものを証拠と呼ばないことからしか、次へ進めなかった。
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