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第038話 湖と竜皇と七環

 湖へ戻る道は、前より静かだった。


 同じ水神官の領域。


 同じ巨大な湖。


 けれど、ミリアムの手元にある記録は、前回とはまるで違っている。


 水面に映った黒い街。


 竜皇の夢で観測された白金の波形。


 七環錫杖が返した、一拍遅れの低音。


 三つを並べると、どれも同じではない。


 同じではないのに、完全に無関係とも言えない。


 その曖昧さが、ミリアムの胃を重くした。


 希望は、曖昧な場所に入り込む。


 だから、先に線を引かなければならない。


「目的を確認します」


 湖畔に着いてすぐ、ミリアムは言った。


 風は弱い。


 湖面は、まだ何も映していない。


「今回の目的は、誰かを探すことではありません。竜皇夢層記録、湖の反射記憶、七環錫杖の反応が、同じ現象に触れているかを検証することです」


 秀直は、少し遅れてうなずいた。


 その遅れを、ミリアムは記録しない。


 記録しないが、見逃しもしない。


「わかってる」


 秀直の返事は短い。


 だが、完全に冷静ではない。


 それでいい。


 冷静すぎる人間なら、ここへ戻る意味が変わってしまう。


 必要なのは、感情を消すことではない。


 感情が証拠の形を勝手に変えないようにすることだった。


 アクアリナが湖畔へ進み出る。


 水神官の衣が、湖の色を受けて淡く揺れた。


「湖が映すものを、私は翻訳します」


 彼女は、前と同じように言った。


「意味は決めません」


 ミリアムはうなずく。


「意味は、記録と照合して判断します」


「はい」


 アクアリナは微笑まなかった。


 この作業が祈りでも奇跡でもないことを、彼女もわかっている。


 それでも、湖へ触れる指先は丁寧だった。


 ミリアムは三つの記録窓を開く。


 第一窓。


 黒い街が初めて映った湖面記録。


 黒い街。


 月の紋章。


 銀白に近い髪の輪郭。


 ただし、顔なし、声なし、名前なし。


 第二窓。


 竜皇夢層記録。


 白い翼状地形。


 証言化ログの外部到達可能性。


 白金波形。


 黒い月経路との一瞬の重なり。


 第三窓。


 七環錫杖反応。


 低音。


 一拍遅れ。


 湖の記録の奥と近似。


 竜皇の夢そのものとは不一致。


「一致ではありません」


 ミリアムは先に言った。


 秀直がこちらを見る。


「まだ何もしてないぞ」


「だから先に言います。一致ではありません。近似、または接触点の共有です」


「接触点」


「三つの記録が、同じ通路を示している可能性はあります。ですが、同じ対象を示しているとは限りません」


 シャルロッタが静かに頷いた。


「証拠線を先に置くのは賛成ですわ」


「置かないと、見たいものを見ます」


 ミリアムは、秀直を責めるつもりで言ったのではなかった。


 だが、言葉は秀直へ刺さったらしい。


 彼は目を伏せ、それでも否定しなかった。


「そうだな」


 その返事だけで十分だった。


 七環錫杖を湖面へ近づける。


 ティアナが息を吸った。


 歌わない。


 彼女は歌わず、ただ呼吸を合わせる。


 歌で接続を強めないためだ。


 音楽は届かせる力を持つ。


 だから今は、届けすぎてはいけない。


 ティアナの呼吸は、湖面の揺れを乱さない程度に細く続いた。


 七環錫杖の最初の環が、かすかに鳴る。


 遅れて、二つ目。


 三つ目は鳴らない。


 湖面が一度だけ暗くなった。


 ミリアムは記録窓へ目を走らせる。


 黒い街は映らない。


 前回見えた街並みも、月の紋章も、銀白の輪郭もない。


 代わりに、白い翼のような尾根が水面の奥に薄く浮かんだ。


 その上を、黒い月の経路が細く横切る。


 重なっている。


 だが、混ざってはいない。


「翻訳します」


 アクアリナの声が、湖面の揺れと一緒に低くなる。


「これは場所ではありません。移動の道でもありません」


 秀直が息を止める。


「では、何ですの」


 シャルロッタが問う。


「重なった記録の影です」


 アクアリナは、言葉を選ぶように続けた。


「湖は、黒い月を呼んでいるのではありません。白い翼も、黒い月へ向かっているのではありません。ただ、同じ圧を受けた記録が、水面で重なって見えています」


 意味を決めない。


 そう言った通り、アクアリナは断定しなかった。


 翻訳だけを置いた。


 ミリアムは、その言葉を記録へ入れる。


「同じ圧」


 ミラが、祈るように呟いた。


 彼女の顔は青い。


 竜皇の夢で得た言葉が、湖でも反応している。


 神官長としては、震えるべき事実だ。


 だが、証拠としてはまだ断片でしかない。


 ミリアムは、そこも記録へ残した。


 ミラ=カリス、反応を目視。


 感情反応あり。


 証拠評価は断片。


「ひどく事務的ですね」


 ミラが小さく言う。


「事務的にしておかないと、祈りが結論になります」


「……はい」


 ミラは、苦しそうに笑った。


 それでも、拒まなかった。


 七環錫杖の四つ目の環が、遅れて鳴る。


 配信端末の非公開層が一瞬だけ開いた。


 公開画面ではない。


 生配信でもない。


 コメント欄でもない。


 記録層の奥で、分類語だけが浮かぶ。


 黒い月。


 銀白の光。


 王配候補に似た語。


 その三つは、文字として安定しなかった。


 王配。


 配偶。


 候補。


 伴侶。


 翻訳候補が揺れ、すぐに崩れる。


「ミリアム」


 秀直の声が低くなった。


「見えてる」


「はい」


「これは」


「本人証明ではありません」


 ミリアムは、言葉を被せた。


 早すぎるくらいでちょうどいい。


 秀直の手が、わずかに震えていたからだ。


「分類語です。しかも不安定です。弟側の制度名なのか、こちら側の記録が近い言葉へ誤訳しているのか、まだ分けられません」


 弟。


 その語を口にした瞬間、秀直の表情が痛む。


 だが、ここで避けすぎるのも違う。


 ミリアムは続けた。


「黒い月、銀白、王配候補に似た語。開示できるのはそこまでです。顔、声、名前、現在地はありません」


 秀直は、湖面を見つめた。


 水面の奥で、黒い経路が細く揺れている。


 そこに、誰かがいる。


 言葉が、彼の喉まで上がっているのがわかった。


 弟とは言わない。


 言えば、それは証拠ではなく願望になる。


 だが、言わずにいられるほど遠くもない。


「そこに」


 秀直の声が震えた。


 ミリアムは止めなかった。


 止める言葉ではない。


 線を越えなければ、震えた声も記録の一部だ。


「そこに、誰かがいる」


 湖面が乱れた。


 黒い経路の奥で、複数の影が揺れる。


 手のようにも見えた。


 誰かが複数の手を取るようにも見えた。


 だが、それ以上は出ない。


 人名はない。


 関係名もない。


 顔も、声も、服も、国名もない。


 ただ、選ぶ動きに似た反応だけがある。


 ミラが息を呑んだ。


「竜皇が言った、もう一人の証言者。選び取る者……」


「可能性です」


 ミリアムは、すぐに釘を刺す。


「はい。可能性として」


 ミラは言い直した。


 その一言が大事だった。


 可能性。


 証拠。


 確定。


 その段階を混ぜないことが、今の全員を守っている。


 シャルロッタが秀直の横へ立った。


「秀直様」


「わかってる」


「まだ何も申し上げておりません」


「言われることは、わかる」


 秀直は苦く笑った。


 だが、目は湖面から離れない。


 シャルロッタは、声を柔らかくしなかった。


 柔らかくすれば、慰めになる。


 今必要なのは、慰めではなく境界だった。


「あなたが見たい弟として扱ってはいけません」


 秀直の肩が揺れた。


「そこで選んでいる誰かとして扱うべきです」


 湖面の黒い経路が、また細く震えた。


 まるで、その言葉だけに反応したように。


 ミリアムは即座に時刻を打った。


 反応発生条件。


 秀直の血縁想起ではなく、対象の選択を証言として扱う発話。


 仮説。


「今、反応しました」


 クリスティーナが言う。


「はい」


 ミリアムは短く答える。


「何にですか」


「まだ仮説です」


「仮説で」


「秀直様が誰かを弟として呼び寄せようとした時ではありません」


 ミリアムは、湖面を見たまま言った。


「そこで選んでいる誰かとして扱った時に、経路が強くなりました」


 誰もすぐには話さなかった。


 ティアナの呼吸だけが続いている。


 歌ではない。


 接続を強めないための、細い拍。


 ソフィアが、静かに言う。


「名を与えることが、相手の場所を奪うこともあるのですね」


「あります」


 ミリアムは答えた。


「特に、証拠より先に名を置く場合は」


 秀直は、ゆっくりとうなずいた。


「記録名は」


 彼はそこで一度言葉を切った。


 弟候補。


 そう言いたいのだと、ミリアムにはわかった。


 言いたいに決まっている。


 けれど、彼は言わなかった。


「遠い闇の王配候補反応」


 秀直は、かすれた声で言った。


「それで残す」


 ミリアムは入力した。


 記録名。


 遠い闇の王配候補反応。


 注記。


 本人性未確定。


 顔なし。


 声なし。


 名前なし。


 現在地なし。


 黒月経路、銀白光、王配候補類似分類語。


 対象が複数の手を取るような反応あり。


 詳細不明。


 湖面が急に乱れた。


 白い翼の尾根がほどける。


 黒い月の経路が、水底へ沈む。


 七環錫杖は、最後の一環を鳴らさなかった。


 接続ではない。


 通信ではない。


 ただ、証言化された記録同士が、同じ外部圧に触れた時の反射。


 ミリアムの中に、まだ言葉にならない仮説が組み上がる。


「ここまでです」


 彼女は言った。


「これ以上は、湖を深く開く必要があります。私的記憶や祈りまで巻き込む可能性があります」


 アクアリナも頷いた。


「湖は、求めれば映します。ですが、映ったものが誰のものかは、湖が決めません」


「今日は閉じましょう」


 シャルロッタが言った。


 反対する者はいなかった。


 秀直だけが、最後まで湖面を見ていた。


 そこにはもう、黒い経路はない。


 ただ、水がある。


 それでも彼は、その奥に誰かを見てしまった後の顔をしていた。


 弟とは言わなかった。


 証拠にも、しなかった。


 だが、声の震えは残った。


 ミリアムは、その震えを記録しない。


 記録するのは、条件だ。


 黒い経路が現れた条件。


 それは、秀直が弟を思った時ではない。


 誰かの選択を、証言として扱った時だった。



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