第012話 クリスティーナ、弟子として踏み込む
証拠は、希望を叶えてくれない。
ただ、見なかったことにもさせてくれなかった。
夜の湖畔は静かだった。
昼間の水面が嘘みたいに、黒い空だけを映している。
観測天幕の外で、俺は端末を膝に置いたまま座っていた。
停止画面には、月の中の翼ある蛇が残っている。
黒い石畳。
銀白の光。
知らない街。
知らない紋章。
知らない誰か。
それなのに、俺は何度も再生しそうになる。
再生しても、答えが増えないことはわかっている。
それでも、指が動きかける。
「さすししょ、夜更かしも一流ですね」
後ろから声がした。
クリスティーナだった。
いつもの調子。
少し軽く、少し得意げで、俺を師匠扱いする時の声。
俺は返事をしなかった。
できなかった、と言った方が近い。
クリスティーナは数歩近づいて、そこで止まった。
「……師匠?」
声が変わる。
ふざけるのをやめた声だった。
「何を見ているんですか」
「調査中の映像」
「黒い街の、ですか」
「ああ」
それ以上、言葉が続かない。
クリスティーナは隣に座らなかった。
まず、少し離れた場所に立ったまま、俺を見る。
距離を測っている。
踏み込んでいいのか。
今は退いた方がいいのか。
彼女なりに考えているのがわかった。
「弟子に隠さないでください、とは言いません」
クリスティーナが言った。
俺は少し驚いて彼女を見る。
「言わないのか」
「言いたいです」
正直だった。
「でも、たぶん言ったら、師匠は困ります。話せないこともあるんですよね」
「ある」
「なら、話したくないなら話さなくていいです」
クリスティーナはそこで、少しだけ顔をしかめた。
「でも、一人で見続けるのは、だめな気がします」
「何で」
「匂いはわかりませんけど」
彼女は湖の方を見た。
「今の師匠、画面に引っ張られている顔をしています」
ソフィアとは違う。
匂いで読むわけではない。
ミリアムのように数値で見るわけでもない。
それでも、クリスティーナは見ていた。
弟子として。
俺の近くにいる人間として。
「隣、座っていいですか」
「いい」
クリスティーナは、俺の横に座った。
いつものように勢いよくではなく、静かに。
「黒い街が、誰かに似ていたんですか」
「街は知らない」
「銀白の髪の人は」
「知らない」
「紋章は」
「知らない」
「じゃあ、何が引っかかってるんですか」
まっすぐ聞かれた。
俺は端末の画面を伏せた。
湖の音がする。
風の渓域とは違う、低くて深い水音。
「弟がいた」
初めて、そう言った。
クリスティーナは黙っている。
急かさない。
驚きもしない。
ただ、聞いている。
「名前は聖夜。俺の弟だ」
口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
これは、湖の映像の人物名ではない。
黒い街の証拠でもない。
ただ、俺の記憶の中にいる弟の名前だ。
「俺が死んだ時、あいつを残した」
「亡くなった、ということですか」
「俺がな」
クリスティーナが息を飲む。
そういえば、転生前の細かい話を、彼女たちにちゃんとしたことは少ない。
配信者だったこと。
女神に会ったこと。
この世界へ来たこと。
そういう大枠は話しても、残してきた人間のことは、あまり言葉にしていなかった。
「仲がよかったんですか」
クリスティーナの問いは、慎重だった。
俺は少し笑った。
笑うしかなかった。
「そう言えたら、楽なんだけどな」
「違うんですか」
「悪かったわけじゃない。嫌いだったわけでもない。ただ、俺は仕事と配信に逃げてた」
言葉にすると、情けない。
「弟を守った記憶より、放っていた記憶の方が多い」
クリスティーナは何も言わない。
「だから、黒い街を見て、弟に結びつけたいのは、俺の都合かもしれない」
端末の伏せた画面に、月蛇紋の光がかすかに漏れている。
「やり直したいんだと思う。あいつがどこかにいるなら、今度こそ何かできるんじゃないかって」
言ってから、喉が詰まった。
「でも、それはあいつのためじゃなくて、俺が許されたいだけかもしれない」
クリスティーナが、膝の上で手を握った。
いつもの彼女なら、ここで「師匠は悪くないです」と言ったかもしれない。
言ってくれたら、俺は少し楽になったかもしれない。
でも、彼女は言わなかった。
「それを決めるのは」
クリスティーナは、ゆっくり言った。
「弟さん本人だと思います」
痛いところを、まっすぐ突かれた。
俺は息を止める。
そうだ。
俺がどれだけ後悔しても。
俺がどれだけ許されたいと思っても。
それを決めるのは俺じゃない。
弟だ。
俺は、許されたいだけなのかもしれない。
そして、それに気づいているのに、まだ画面を見ている。
「きついこと言うな」
「すみません」
「いや」
俺は首を横に振った。
「必要だった」
クリスティーナは少しだけ肩の力を抜いた。
「師匠」
「何だ」
「私、前に言いましたよね。師匠の配信に刻まれたいって」
「言ったな」
「あれ、格好いい場面だけ見たいって意味じゃないです」
彼女は夜の湖を見た。
「師匠が強いところも、すごいところも見たいです。でも、師匠が間違えそうなところも、たぶん見なきゃいけないんだと思います」
「何で弟子がそこまで」
「弟子だからです」
即答だった。
少しだけ、いつもの勢いが戻る。
「師匠が間違える時に、止められる弟子になりたいです。全部見せろって言われた時に、師匠が流されそうなら、止めます。黒い街に引っ張られそうなら、袖を引きます」
「弟子にそこまでさせる師匠は、情けないな」
「弟子が育ったってことです」
クリスティーナは胸を張った。
その言い方が、少しだけ彼女らしくて、俺はようやく笑えた。
「さす弟子」
「今の、褒めました?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、ちゃんと褒めてください」
「よく育った」
クリスティーナは一瞬、真顔になった。
それから、照れたように視線を逸らす。
「……はい」
少し離れた場所に、人の気配があった。
ソフィアたちだ。
たぶん、気づいている。
でも近づいてこない。
会話を盗み聞きしない距離で、こちらを見守っている。
ソフィアなら、今すぐ来ることもできた。
シャルロッタなら、言葉を整えることもできた。
ミリアムなら、端末を取り上げることもできた。
ティアナなら、湖の音を聞いてくれたかもしれない。
でも今は、クリスティーナに任せている。
それが少し、ありがたかった。
「師匠」
クリスティーナが端末を見る。
「今日は閉じましょう」
「忘れるために?」
「違います」
彼女は首を横に振る。
「明日、ちゃんと見るためにです。寝てない人が見ても、たぶん悪い方へ引っ張られます」
「正論だな」
「ミリアムさんに教わりました」
「それは強い」
俺は端末を閉じた。
画面が消える。
月蛇紋も、黒い街も、銀白の光も消えた。
消えたが、なかったことにはならない。
原本は残っている。
記録はある。
明日、また見る。
今夜は、ここで止める。
「端末、預かってもいいですか」
クリスティーナが言った。
「削除しません。公開もしません。原本保全の当直です」
「ミリアムと交代で?」
「はい。今、勝手に決めました」
「後で怒られるぞ」
「怒られたら、師匠も一緒に怒られてください」
「巻き込むな」
そう言いながら、俺は端末を渡した。
クリスティーナは両手で受け取る。
剣を受け取るみたいに、真面目な顔だった。
「預かります」
「頼む」
その夜、俺は久しぶりに画面を見ずに眠った。
よく眠れたわけではない。
何度も目が覚めた。
それでも、夜通し停止画面を見続けるよりはましだった。
翌朝、俺は仲間全員に弟のことを話した。
配信は切ったまま。
湖畔の朝の光の中で、簡潔に。
弟がいたこと。
俺が死んで、残してきたこと。
黒い街との関係は未確認であること。
これは配信に出す情報ではないこと。
誰も、軽く慰めなかった。
ソフィアは静かに言った。
「わたしは、過去の弟さんの代わりにはなれません」
「わかってる」
「でも、今のご主人さまを一人にはしません」
その一言で、胸の奥に残っていた硬さが少しだけほどけた。
シャルロッタは、公開範囲の整理を手伝うと言った。
ミリアムは、未確認欄を消さずに残すと言った。
ティアナは、湖の音を聞く時は一緒にいると言った。
クリスティーナは、観測当番表へ自分の名前を書き込んだ。
大きな字で。
少し曲がった字で。
その横に、彼女は役割を書き足す。
師匠を見張る。
冗談みたいな言葉だった。
でも、もう冗談だけではなかった。
配信者は、何でも話す人間じゃない。
話していいものを選ぶ人間でなければならなかった。
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