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妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第三十一話 私は働いたまま、あなたの隣に立ちたい

 昼の大使会議が終わっても、王宮は休まなかった。



 会談室の扉が閉じ、大使たちが一度控えへ戻り、廊下に昼の光が差し込んでも、書記室の工程板はまだ半分しか終わっていない。


 夕方の小宴。


 夜の会談兼夜会。


 本当に厄介なのは、むしろここからだった。



 昼の会議は、席に座り、発言順を守る場だ。


 揺れはあっても、紙の上へ戻しやすい。


 けれど夜会は違う。


 人が立ち、歩き、誰かの隣へ寄り、誰かを避ける。


 会談で整えた言葉が、夜の柔らかい笑顔の中で簡単に形を変える。


 だから、私は夜会のほうが怖かった。



「小宴の迎え列、最終確認です」



 ロッテが白札を差し出す。


 私はそれを受け取り、工程板の夕方の欄へ置いた。



 北方連合。


 南方同盟。


 東方使節。


 西方商会。


 それぞれ、昼とは別の顔で入ってくる。


 会談で言えなかったことを、食前の挨拶や夜会の一言へ混ぜてくる人たちだ。


 そういうものを、軽い社交だと侮るわけにはいかない。



「北方連合の大使夫人は、夕方の小宴で南方同盟側へ寄りますか」



 エミルが訊く。


 私は少しだけ考えてから、首を横へ振った。



「寄りません」


「昼の発言を受けて、探りを入れるのでは」


「それをすると、北方連合が強引に出たことを自分で認める形になるわ」



 私は北方連合の札を、夫人方の迎え列から半歩だけ離す。



「だから表向きは穏やかに笑うはず。むしろ動くのは、南方同盟の随員側」


「控え室の位置に異議を出した方ですか」


「ええ」



 あの人は、昼の時点で《《扱いが軽い》》という不満を表に出しかけていた。


 夜にもう一度、別の形で出る可能性が高い。



「では、南方同盟側を避けますか」


「避けません」



 私は補助札を一枚置いた。



「逃がす場所を作ります。正面からぶつかる前に、王妃宮付き女官が果実酒の説明へ誘導する」


「果実酒ですか」


「南方の果実を使ったものだから、話題として逃げやすいの」



 エミルが、なるほど、と小さく呟く。


 こういう逃がし方を、彼は最近かなり覚えてきている。


 それが少し頼もしい。



「フロレンティア様は」



 マルタ女官が問う。



「北列を受けます。ただし小宴の間だけです」


「夜会では」


「王妃宮付きへ返します」



 私は会場図の夜の欄へ、別の札を置いた。



「フロレンティア様が夜まで立ち続けると、また《《王妃の代わり》》に見えます。小宴で夫人方の視線を受け、夜会では一歩下げる。そのほうが噂へ餌を渡さずに済みます」


「補佐官殿は」


「私は工程板側に残ります」



 言いながら、自分でも少しだけ胸の奥が静かになった。


 昼の会談では、私は少し離れた位置から場を見ていた。


 夜会でも同じだ。


 王弟殿下の隣の椅子ではなく、工程の線上に立つ。


 それがいまの私の仕事だった。



「主催者席の隣は、夜も空けるのですね」



 ロッテの声には、少しだけ心配が混じっている。



「空けます」



 私は答えた。



「でも、空白には見せません」



 そこへ、書記室の扉が開いた。


 レオンハルト殿下が入ってくる。


 昼の会談を終えたばかりなのに、顔にはほとんど疲れが出ていない。


 けれど、よく見れば外套の留め具へ触れる手が少しだけ遅い。


 この人も疲れているのだと、私はようやく分かるようになっていた。



「小宴の支度は」


「最終確認中です」



 私は会場図を示す。



「夜会の主催者席まわりも、予定どおり空けます」


「分かった」



 返事は短かった。


 でも、それだけでよかった。


 この人は、私が空けると言えば、そこに理由があると分かってくれる。



「ただし」



 彼は会場図を見下ろしながら言った。



「今夜は、昼より踏み込んだ探りが来る」


「承知しています」


「私の隣の空席についてもだ」



 その言葉で、書記室の空気が一瞬だけ静まった。


 誰も露骨には見ない。


 でも、全員がその話題を知っている。


 王妃不在。


 王弟主催の夜会。


 隣の空席。


 王宮の人間が、そこへ勝手な意味を読みたがるには十分すぎる材料だった。



「空席は空席として扱います」



 私は静かに答えた。



「ですが、意味は置きません」


「どうやって」


「意味を置く場所を、別に作ります」



 私は夜会図の中央へ指を置く。


 主催者席ではない。


 会談卓から夜会卓へ移る、中央の細い流れ。


 そこへ、議題と贈答と短い確認発言を集める。



「今夜の中心は、殿下の隣ではありません。王妃殿下不在でも、各国の合意と礼が滞らず続くことです」


「なるほど」



 彼の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。



「つまり、私の隣を見ている暇をなくすのか」


「そうです」


「容赦がない」


「必要ですので」



 私がそう答えると、殿下の口元がごくわずかに動いた。


 あの、見えにくい笑い方だった。




 夕方の小宴は、予想より穏やかに始まった。



 穏やかに始まるものほど、途中で崩れる。


 それを知っているから、私は油断しなかった。


 フロレンティア様は、北列の夫人方を受ける位置へ立っている。


 淡い青のドレスが、夕方の灯りにほどよく映えていた。


 目立ちすぎない。


 でも、視線を受け止めるには十分。


 あの人は、自分がどのくらい見られるかを本当によく知っている。



「北方連合、入ります」



 ロッテの声が低く届く。


 私は小さく頷いた。


 北方連合の大使夫人は、予想どおり南方同盟側へは寄らなかった。


 代わりに、王妃宮付き女官へ穏やかな挨拶をし、果実酒の卓へ目を向ける。


 よし。


 最初の線は生きている。



 次に動いたのは、南方同盟の随員だった。


 昼に控え室の日当たりへ不満を出した人物だ。


 彼は夜会の導線を見ながら、露骨ではない程度に主催者席へ近づこうとした。



「ロッテ」


「はい」



 私が合図を送ると、ロッテはすぐに王妃宮付き女官へ白札を渡した。


 女官は果実酒の説明を始め、南方同盟の随員を自然に卓のほうへ誘導する。


 真正面から止めない。


 止めると、不満が形になる。


 興味を移す。


 そうすれば、本人も面子を失わずに動ける。



 うまく流れた。


 私は小さく息を吐く。



「補佐官殿」



 エミルが、横で囁いた。



「今ので一つ防げたのですか」


「たぶん」


「たぶん?」


「夜会は、確定で防げるものばかりではないわ」



 私は会場へ目を戻す。



「小さく曲げて、大きく折れないようにするだけ」


「……怖いですね」


「ええ」



 私は頷いた。



「だから面白いの」



 言ってから、自分でも少し驚いた。


 でも本心だった。


 怖い。


 面倒。


 厄介。


 それでも、場が崩れずに流れていく瞬間が、私はやはり好きなのだ。



 小宴は、大きな綻びを出さずに終わった。


 しかし、本番は夜だった。




 夜の会談兼夜会は、大広間の灯りを少し落として始まった。



 昼の会談室より柔らかく。


 小宴よりは厳粛に。


 王妃殿下が不在であることを、欠落ではなく静かな余白として見せるため、灯りは中央の会談卓へ寄せている。


 主催者席はある。


 レオンハルト殿下もそこに立つ。


 けれど、隣の空席には灯りを当てない。


 目立たせない。


 隠しもしない。


 ただ、今夜そこへ意味を置かない。



 それが、私の出した答えだった。



 最初の挨拶は、問題なく通った。


 レオンハルト殿下の声は低く、短く、余分な飾りがない。


 そのぶん、誰にも媚びていないように聞こえる。


 王弟としては少し硬い。


 けれど、王妃不在の夜には、むしろその硬さが必要だった。



「王妃殿下はご不在だが、王宮の礼は欠けない」



 彼がそう告げた瞬間、広間の空気が少しだけ締まった。


 私は工程板の横で、その言葉を聞いた。


 王妃の代わりはいない。


 でも、王宮の礼は欠けない。


 それはこの夜の芯だった。



 最初の確認発言。


 贈答の短い紹介。


 外務卿の補足。


 それらは順番どおりに進む。


 けれど、三つ目の確認発言の前に、大使夫人の一人が小さく扇を閉じた。



 西方商会の会頭夫人だった。


 私はその仕草を見て、すぐに警戒する。


 この方は、声を荒らさない。


 ただ、静かな一言で場の温度を変える。



「王弟殿下」



 会頭夫人の声は、予想どおり穏やかだった。



「今夜は王妃殿下がご不在でいらっしゃいますのに、女主人役をどなたもお立てにならないのですね」



 来た。


 私は心の中でそう呟いた。



 広間の視線が、ほんの少しだけ主催者席へ向く。


 そして、その隣の空席へ。


 灯りを落としていても、人の目は意味を探す。


 避けられない。


 だからこそ、ここで逸らすのではなく、別の意味を置く必要があった。



 レオンハルト殿下は、少しも表情を変えなかった。



「今夜、王妃殿下の代理は置かない」


「まあ」



 会頭夫人の扇が、わずかに動く。



「では、その空席は?」


「空席だ」



 あまりにも短い答えだった。


 場が一瞬だけ固くなる。


 私はすぐに白札を取った。



 このままだと、硬すぎる。


 事実としては正しい。


 でも、夜会では正しいだけでは角が立つ。


 私はロッテへ札を渡す。


 ロッテはそれを受け、王妃宮付き女官へ合図を送った。


 女官が一歩進み、会頭夫人の問いへ続くように、贈答箱の薄布を開く。



「王妃殿下より、各国の奥方様方へ、今夜のご不在に代えて春季布地の見本をお預かりしております」



 声が、広間へ自然に流れた。


 会頭夫人の視線が、空席から贈答箱へ移る。


 ほかの夫人方も同じだった。



 いい。


 空席の意味を問い続ける前に、王妃殿下の意志が別の形で場へ入った。


 代理席ではない。


 贈答。


 記録。


 王妃宮付き女官の手。


 それで十分だった。



「王妃殿下のお心遣い、ありがたく拝見いたしますわ」



 会頭夫人はそう言い、扇をもう一度開いた。


 引いた。


 私は小さく息を吐く。



 けれど、それで終わりではなかった。


 今度は北方連合の大使が、会談卓へ一歩だけ近づいた。



「王弟殿下」



 彼は昼よりも柔らかい声で言った。



「昼の会議で触れた件について、夜の場であればもう少し率直に意見を交わせるかと」



 その言い方に、私は工程板の黒札へ指をかけた。


 夜の場であれば。


 それは危ない言葉だ。


 昼の公式発言で置いた線を、夜の柔らかさで崩そうとしている。



 レオンハルト殿下は、すぐには答えなかった。


 ほんのわずかに、こちらを見る。


 大丈夫か、と訊く視線ではない。


 どこまで受ける、と確認する視線だった。



 私は黒札を置かず、白札を一枚だけ動かした。


 受ける。


 ただし、率直な意見交換ではなく、《《確認》》にする。



 殿下はそれを見て、短く頷いた。



「率直な意見交換は、後日の公式協議で行う」



 彼は言った。



「今夜は、昼の会議で確認された範囲を越えない」


「しかし」


「ただし、確認すべき一点があるなら聞こう」



 広間の空気が、少しだけ変わった。


 完全に拒まない。


 でも広げない。


 北方連合の大使は、一瞬だけ言葉を探した。


 それから、慎重に一つだけ質問を置いた。



 それでいい。


 一つなら受けられる。


 二つ目は受けない。


 夜会を、もう一度会議に戻してはいけない。



 質問は、予想どおり南方同盟との境界に関わるものだった。


 レオンハルト殿下は外務卿へ視線を送る。


 外務卿が答える。


 南方同盟の大使が扇の向こうで表情を消す。


 私はすぐに補助札を動かした。


 南方同盟側へ、次の短い確認発言を渡す。


 これで、北方だけが夜の場で得をしたようには見えない。



 エミルが隣で小さく息を呑んだ。


 驚いている暇はない。


 私は次の札を示す。


 彼は慌てずに受け取った。


 よし。


 今の流れも、書記室はついてきている。



 そのあとも、夜会は何度か揺れた。


 王妃不在の空席へ視線が向くたび、王妃宮付き女官が別の役目で場へ入る。


 レオンハルト殿下の隣へ女性を置くべきではという空気が育ちかけるたび、フロレンティア様が夫人方の挨拶を軽やかに受け、視線を北列へ散らす。


 会談が夜の私談へ崩れかけるたび、私たちは確認発言へ戻す。


 座る人ではなく、動く線で場を支える。


 誰か一人が王妃の代わりになるのではなく、それぞれの手が小さな役目を持つ。


 ようやく、形になってきた。



 終盤、最後の山が来た。


 南方同盟の大使夫人が、王妃宮付き女官の説明を受けたあと、ふとこちらを見たのだ。


 工程板の横に立つ私を。


 それから、主催者席のレオンハルト殿下を。


 そして、あえて柔らかく微笑んだ。



「リューネ補佐官」



 私の名が、広間の端から呼ばれた。


 私は一礼し、一歩だけ前へ出る。



「はい」


「今夜の流れは、あなたが整えていらっしゃるのね」


「王家儀礼局と王妃宮、外務卿室の共同でございます」



 私は即座に答えた。


 自分一人の手柄にしない。


 でも、自分の名から逃げもしない。


 その線が大事だった。



 大使夫人は、目を細める。



「では、殿下のお隣ではなく、その工程板の隣に立つことを選ばれたの?」


 広間の空気が止まった。


 あまりにも直接だった。


 けれど、悪意だけではない。


 試している。


 王宮が、私をどう扱っているのか。


 私自身が、自分をどう扱っているのか。


 それを見ようとしている。



 私は、ほんの一瞬だけレオンハルト殿下を見た。


 彼は何も言わない。


 答えを預けてくれている。


 そう分かった。



 私は工程板の横で、背筋を伸ばした。



「はい」



 短く答える。


 それから続けた。



「今夜、私が座るべき椅子はありません。ですが、立つべき場所はございます」


「立つべき場所?」


「はい」



 私は手元の白札へ触れる。



「王妃殿下の代理席へ座ることではなく、王妃殿下が不在でも順番を止めないこと。それが今夜の私の役目です」


 大使夫人の扇が、ゆっくり閉じられる。


 広間が静かだった。


 たぶん、誰もが続きを待っている。



「ですから、私はここに立ちます」



 私は言った。



「仕事が必要とする場所に」



 その言葉を口にした瞬間、胸の奥の何かが静かに定まった。


 ああ、そうだ。


 私はずっと、ここへ辿り着きたかったのだ。


 誰かの隣の席を奪い合うのではなく、自分の仕事が必要とする場所に立つ。


 その上で、誰かを選べる人間になりたかった。



 南方同盟の大使夫人は、しばらく私を見ていた。


 それから、ほんの少しだけ微笑んだ。



「よいお答えね」



 静かな声だった。



「王妃殿下がお聞きになったら、きっとお喜びになるわ」



 緊張していた空気が、そこでようやくほどけた。


 レオンハルト殿下は何も言わなかった。


 でも、彼の目がほんの少しだけ柔らかくなったのを、私は見逃さなかった。



 最後の挨拶は、滞りなく終わった。


 楽団が終曲へ移る。


 大使たちが順に退き、夫人方は王妃宮付き女官から布地の見本を受け取り、会頭夫人は満足げに寄付箱の控えへ署名した。


 北方連合も、南方同盟も、完全に満足したわけではない。


 でも、誰も大きく不満を残してはいない。


 それで十分だった。



 夜会は、崩れなかった。



 閉会の音が鳴ったあと、私はしばらく工程板の前を動けなかった。


 疲れた。


 昼からずっと、頭の中で線を引き続けていた。


 でも、悪い疲れではない。


 自分一人で抱えた疲れでもない。


 書記室の人たちと、王妃宮と、フロレンティア様と、レオンハルト殿下。


 いくつもの手がつながったあとの疲れだった。



「終わりましたね」



 エミルが、どこか呆然とした声で言う。



「ええ」



 私は頷いた。



「終わりました」



 ロッテが、嬉しそうに工程板の札を外し始める。


 マルタ女官は、すでに最終控えへ書き込みをしていた。


 クラウディア次席儀礼官は、広間の端で外務卿室と短い確認を交わしている。


 皆、終わった直後から次に残す形を作っている。


 それが、今の王家儀礼局だった。



 フロレンティア様が、私の隣へ静かに来た。



「お疲れさまでした」


「フロレンティア様こそ」


「今夜のあなた、少し怖かったですわ」


「怖かったですか」


「ええ」



 彼女は楽しそうに笑う。



「仕事をしている人の顔でしたもの」



 それは褒め言葉なのだろう。


 少なくとも、今の私にはそう聞こえた。



「ありがとうございます」


「それから」



 フロレンティア様は、少しだけ声を落とした。



「そろそろ、ご自分の答えをお出しになってもよろしいのでは?」



 私は一瞬だけ言葉に詰まった。


 彼女はそれ以上何も言わず、綺麗に一礼して夫人方の列へ戻っていった。


 相変わらず、必要なところだけ突いて去っていく人だと思う。


 でも、たぶんその通りだった。



 今夜、私は答えを見た。


 椅子ではなく、場所。


 飾りではなく、仕事。


 逃げるのでも、選ばれるのを待つのでもなく、自分の足で立つこと。



 その上で、私は誰の隣へ行きたいのか。


 もう、分かっていた。




 すべての退出が終わったころ、大広間はようやく静かになった。



 灯りは半分ほど落とされ、床には夜会の余韻だけが残っている。


 私は工程板の最後の札を外し、黒札を箱へ戻した。


 その瞬間、背後から低い声がした。



「エルシェナ」


「はい」



 振り返ると、レオンハルト殿下が立っていた。


 主催者の顔ではなく、いつもの静かな顔だった。


 でも、昼よりも、夜会の最中よりも、少しだけ近く感じる。



「よく支えた」


「皆で支えました」


「そうだな」



 彼は頷いた。



「だが、あなたがいなければ崩れていた」


「それは、少し買いかぶりです」


「違う」



 短く否定される。


 その強さに、私は少しだけ目を瞬いた。



「あなたが、誰か一人で埋める形へ戻さなかった。そこが一番大きい」


「……そうでしょうか」


「そうだ」



 彼は、工程板を見た。



「王妃の代理席を置かなかった。私の隣も埋めなかった。だが場は欠けなかった」



 一拍置く。



「あなたは、空席を空席のまま守った」



 その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。


 そうだ。


 私は空席を守った。


 誰かの代わりを入れずに。


 自分も代わりにならずに。


 それでも場を成立させた。



「殿下」


「何だ」


「前に、答えはもう少し先にさせてくださいと申し上げました」



 彼の灰色の目が、まっすぐこちらを見る。


 急かさない。


 驚きもしない。


 ただ、私の言葉が置かれる場所を空けてくれる。



「覚えている」


「今夜、分かりました」



 私は工程板の横に手を置いた。


 さっきまで私が立っていた場所。


 仕事が必要とした場所。


 そこから逃げずに言いたかった。



「私は、あなたの隣の椅子に座りたいわけではありません」



 レオンハルト殿下は何も言わなかった。



「王妃殿下の代わりでも、殿下を飾る相手でも、誰かが安心するための空席埋めでもなく」



 一呼吸置く。



「私は、働いたまま、あなたの隣に立ちたい」



 言葉にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。


 大げさな告白ではない。


 けれど、私にはこれ以上正確な言葉はなかった。



「自分の机を持っていたいのです」



 私は続けた。



「自分の名前で呼ばれたい。自分の仕事を続けたい。その上で、あなたを選びたい」



 手が少しだけ震えた。


 でも、声は震えなかった。



「それでもよろしいですか」



 レオンハルト殿下は、しばらく私を見ていた。


 長い沈黙ではなかった。


 でも、私にはその一瞬がひどく長く感じられた。



「よい」



 彼は答えた。


 いつも通り短い。


 けれど、その声は、今までで一番やわらかかった。



「むしろ、そうでなければ困る」


「困るのですか」


「困る」



 彼は少しだけ口元を動かした。



「仕事を捨てたあなたは、きっと私を恨む」


「たぶん、かなり」


「なら、捨てないほうがいい」



 私は思わず笑ってしまった。


 緊張がほどける。


 この人は、本当に一番欲しいところを、妙に実務的な言葉でくれる。



「私は」



 彼は一歩だけ近づいた。


 けれど、距離を詰めすぎない。



「補佐官エルシェナ・リューネを尊重する」


「はい」


「その仕事も、机も、名前も」


「はい」


「その上で、あなたを私の隣に望む」



 胸の奥が熱くなる。


 でも今度は、苦しくなかった。



「では」



 私はゆっくりと息を吸った。



「私も、あなたを選びます」



 彼の目が、ほんの少しだけ揺れた。


 たぶん、とても小さな動きだった。


 でも、私はもうそのくらいなら見逃さない。



「役目としてではなく」



 私は言った。



「レオンハルト様ご自身を」



 その名を呼ぶと、彼の表情が少しだけ変わった。


 王弟殿下ではなく、レオンハルト様。


 その響きを、今夜初めて本当の意味で自分のものにした気がした。



「……そうか」



 彼は低く言った。



「はい」


「では、明日から少し面倒になる」


「明日から、ですか」


「王宮へどう通すか。王妃殿下へどう報告するか。あなたの補佐官職をどう守るか。噂をどこまで許すか」



 私は瞬きをして、それから笑ってしまった。



「本当に、まず実務なのですね」


「当然だ」



 レオンハルト様は、あまりにも真面目に答える。



「あなたが望んだ形を守るには、手順が要る」


「そうですね」



 その通りだった。


 恋を選んだから終わり、ではない。


 むしろ、ここから形にしなければならない。


 仕事を持ったまま隣に立つ。


 そのためには、言葉だけではなく、手順が要る。



 それが少し可笑しくて、そしてとても安心した。



「では」



 私は工程板の空いた欄へ視線を落とす。



「明日、その手順を一緒に組みましょう」


「今夜ではなく?」


「今夜はもう、終業後です」



 私がそう言うと、レオンハルト様は一瞬だけ黙り、それから本当に小さく笑った。



「そうだったな」


「はい」



 私は黒札の箱を閉じる。



「今夜の私は、もう働きました」


「では、休め」


「殿下も」


「レオンハルトだ」


「……レオンハルト様も」



 言い直すと、また少しだけ頬が熱くなった。


 けれど、もう逃げたいとは思わなかった。



 大広間の灯りが、また一つ落ちる。


 工程板は空になった。


 でも、私の前には次の仕事がある。


 王宮へどう通すか。


 補佐官としての席をどう守るか。


 そして、私が選んだ人の隣に、どう立つか。



 面倒だ。


 きっと、とても面倒だ。


 でも、私はもうその面倒から逃げたいとは思わなかった。



 仕事を持ったまま。


 名前を持ったまま。


 机を持ったまま。



 私は、あなたの隣に立ちたい。



 その答えを、ようやく自分の声で言えた夜だった。

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