第十六話 役目の代わりではなく、私の名前で呼んでください
王女殿下の婚約披露式典の翌朝、王宮は何事もなかったみたいな顔をしていた。
空は晴れ、回廊にはいつもの靴音が響き、女官たちは昨日の式典が最初から無事に終わると知っていたような顔で歩いている。
たぶん、成功した催しというのはそういうものだ。
崩れなかったことだけが残り、崩れかけていたところを誰が支えたのかは、少しずつ見えなくなっていく。
昔の私なら、それを悔しいと思っただろう。
でも今は違う。
昨日は、ちゃんと私の名前が呼ばれた。
それだけで十分だと思えるくらいには、私はようやく自分の席を手に入れていた。
王家儀礼局の書記室へ入ると、机の上に見慣れない箱が置かれていた。
薄い木箱に、王家の印。
横にはクラウディア次席儀礼官が立っている。
今日も隙のない顔だったが、いつもより少しだけ空気が柔らかい。
「おはようございます」
私が一礼すると、クラウディア次席儀礼官は短く頷いた。
「おはようございます、リューネ補佐官」
役職つきでそう呼ばれるのも、昨日より自然に受け取れるようになってきた。
小さな変化だけれど、大きい。
「こちらは?」
木箱へ目をやると、彼女はあっさり答えた。
「昨日の式典で使った最終席次と、あなたが書き直した進行表の控えです。局の正式記録として残します」
私は少しだけ目を見開いた。
私が書いたものが、正式記録として残る。
その意味は思っていたより重い。
「正式記録に……」
「ええ」
クラウディア次席儀礼官は木箱の蓋を開けた。
中には、昨日の最終席次、神殿側の祝詞順、両家の系譜確認、婚約相手側ご母堂の控え確認、近衛の封緘記録まで揃えられている。
「昨日の式典は、結果だけで残しません」
「結果だけ?」
「《《無事に終わった》》で済ませると、次に同じ危うさが来たとき、また誰かが勘で支えることになるでしょう」
彼女は淡々と言った。
「だから、どこが危うく、どう直したかまで残します」
胸の奥が、静かに熱くなる。
そう。
それが欲しかった。
成功したから終わりではなく、成功した理由がちゃんと残ること。
誰かの頭の中だけに押し込められず、次に使える形になること。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
いつもの言い方だった。
でも、その声は少しだけ優しかった。
「それから、もう一つ」
クラウディア次席儀礼官は、木箱の横へ薄い黒表紙の帳面を置いた。
「今回の記録欠落と招待状差し替えに関する処理控えです」
「処理控え……」
「ええ」
彼女は淡々と言った。
「王女殿下関連の過去記録は、王妃宮と神殿側の写しから復元しました。本帳に戻っていなかった薄金札については、持ち出し印と返却印の照合を続けます」
「完全に失われたわけではなかったのですね」
「失わせません」
その一言は、いつものクラウディア次席儀礼官らしく、少し冷たく、けれど頼もしかった。
「王家儀礼局は、完璧ではありません。けれど、一つ抜けたら全部終わるような保管はしていないわ」
私は静かに頷いた。
それを聞いて、ようやく少し息ができた気がした。
私が拾ったのは、壊れきった王宮ではない。
欠けたところを、まだ直せる場所だった。
「取次女官ルビナは、調査が終わるまで取次任を外しました」
クラウディア次席儀礼官は続ける。
「リネット嬢付きの侍女は、王宮行事への接触を禁止。リューネ家には、王弟宮と王家儀礼局の連名で正式抗議を出しています」
「……そこまで」
「当然です」
彼女の声は、少しも揺れなかった。
「あなた一人が怒って終わる話ではありません。王女殿下の式典に触れた以上、記録と処理を残します」
私は木箱の縁へ指を置いた。
正式記録。
処理控え。
再発防止。
それらはどれも華やかではない。
でも、華やかな式典を次に守るのは、たぶんこういう紙なのだ。
「リューネ補佐官」
クラウディア次席儀礼官が、私の名を呼んだ。
「はい」
「あなたが昨日言ったことは正しいわ」
「昨日?」
「《《家族の中で処理しない》》ということ」
私は一瞬だけ黙った。
その言葉を改めて聞くと、少しだけ胸が痛む。
「家族を公に差し出したみたいで、まだ少し痛いです」
正直に言うと、クラウディア次席儀礼官は意外そうに目を細めた。
「痛くていいのよ」
「いいのですか」
「ええ」
彼女は黒表紙の帳面を指先で押さえた。
「痛くない人間は、私的なものを公へ切り分ける仕事には向きません。痛くても切るから、記録に意味があるの」
その言葉は、慰めではなかった。
だから、ちゃんと受け取れた。
「覚えておきます」
「忘れると、次に誰かが困るのでしょう?」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「困りますね」
そのとき、書記室の扉が軽やかに叩かれた。
入ってきたのは、王女殿下だった。
昨日の式典の主役とは思えないほど、今日は軽やかな顔をしている。
けれど、その背筋は昨日より少しだけ伸びて見えた。
「お邪魔しても?」
「王女殿下」
私たちは一斉に礼を取る。
王女殿下は手を軽く振った。
「今日はお礼に来ただけよ。そんなに固くならないで」
そう言って、彼女は私の机の前へ来た。
「昨日、すごかったわ」
「恐れ入ります」
「母上もレオンハルト叔父様も平然としていたけれど、わたくしは途中で絶対どこか崩れると思っていたの」
私は思わず目を瞬いた。
王女殿下は、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「だって、婚約相手側のご母堂は怖いし、神殿側は硬いし、わたくしは転びそうだったし」
「転びませんでした」
「ええ。転ばなかったわ」
王女殿下は、少しだけ誇らしげに言った。
「あなたが半拍作ってくれたから」
その言葉に、胸の奥がまたじんわり熱くなる。
見えていた。
あの半拍が、ちゃんと主役本人にも届いていた。
「お役に立てたなら何よりです」
「役だけではないわ」
王女殿下は、さらりと言った。
「あなたがいてくれて、わたくしは安心したの」
返事に詰まった。
役目として必要だと言われることには少し慣れてきた。
でも、安心したと言われるのは、まだ慣れない。
「……ありがとうございます」
「だから、もっと堂々としていて」
王女殿下は、昨日と同じように私の机を見る。
「その机、あなたのものでしょう?」
「はい」
今度は、昨日より早く答えられた。
「私の机です」
王女殿下は満足そうに頷いた。
「それならよかった」
彼女が去ったあと、書記室の空気は少しだけ柔らかくなった。
けれど、柔らかいだけでは終わらない。
机の上には、もう次の紙束が置かれていた。
「次は、建国祭ですね」
エミルが、少し遠い目で言った。
その言い方に、私は思わず苦笑した。
王女殿下の婚約披露式典が終わったばかりなのに、王宮の暦は休んでくれない。
「ええ」
私は頷く。
「だから、今回の処理控えは無駄にしません」
「建国祭にも使うのですか」
「使います」
私は黒表紙の帳面を閉じた。
「今回見えたのは、悪意だけではありません。記録が人の頭に残り、紙へ戻らない怖さも見えました」
クラウディア次席儀礼官が、静かにこちらを見る。
「建国祭はもっと人が多い。三つの会場がつながる。誰か一人の頭の中だけで回していたら、必ずどこかで止まります」
私は一拍置いた。
「だから次は、誰が何を知っているかではなく、誰が何を渡せるかを紙にします」
エミルが息を呑む。
マルタ女官は、少しだけ笑った。
「あなた、本当に休まないわね」
「休みたいです」
私は正直に答えた。
「でも、忘れると次に誰かが困りますから」
クラウディア次席儀礼官の口元が、ほんの少しだけ動いた。
たぶん、笑ったのだと思う。
「では、困らない形にしましょう」
彼女は言った。
「建国祭からは、記録を人の頭ではなく、工程板へ移します」
その日の仕事は、穏やかではなかった。
けれど、昨日までのような危うい張り詰め方ではない。
何を残し、何を移し、何を次へ渡すか。
そのための忙しさだった。
夕方、ようやく書記室の人が少なくなったころ、レオンハルト殿下が私の机の前へ来た。
いつものように、足音は静かだった。
「補佐官殿」
「はい」
返事をしてから、少しだけ胸が引っかかった。
補佐官殿。
正しい呼び方だ。
役目としては、何も間違っていない。
でも昨日、王妃殿下に名前を呼ばれ、王女殿下に机を認められ、クラウディア次席儀礼官に記録を残すと言われた今、その呼び方だけでは少し足りない気がした。
私は自分の机へ手を置いた。
木の感触が、指先に戻ってくる。
この机は、もう借り物ではない。
「殿下」
私は顔を上げた。
「一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「聞こう」
やはり短い。
でも、その短さが今は心地よかった。
「仕事の場では、補佐官で構いません」
私は言葉を選ぶ。
「記録にも、命令にも、そう残るべきです」
「そうだな」
「ですが」
一拍置く。
思ったより、心臓が速かった。
「役目の代わりではなく、私の名前で呼んでください」
レオンハルト殿下の灰色の目が、静かにこちらを見た。
驚いてはいない。
たぶん、この人は私がいつかそう言うことを分かっていたのだろう。
「エルシェナ」
すぐに、彼は呼んだ。
あまりにも自然だった。
胸の奥が、熱くなる。
たった名前だけだ。
でも、ずっと欲しかったものだった。
「……はい」
声が少し小さくなった。
それでも、ちゃんと返事はできた。
「これでいいか」
「はい」
私は頷く。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
彼は少しだけ目を細めた。
「あなたは、最初からエルシェナだ」
「それでも」
私は机の端をそっと撫でる。
「そう呼ばれるまで、自分でも少し信じられなかったのだと思います」
レオンハルト殿下は黙って聞いていた。
急かさない。
慰めもしない。
ただ、私が言葉を置く場所を空けてくれる。
「婚約者の役目でもなく、妹の代わりを埋める姉でもなく、便利な娘でもなく」
一つずつ、切り離すように言う。
「私は、エルシェナ・リューネです」
口にした瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
当たり前の名なのに。
それを自分で認めるまで、ずいぶん遠回りをした気がする。
「そうだ」
レオンハルト殿下は言った。
「そして王家儀礼局補佐官でもある」
「はい」
「どちらも、あなたの名だ」
その言い方が、この人らしかった。
私情だけに寄せない。
仕事だけにも閉じ込めない。
両方を、ちゃんと並べて置いてくれる。
「では、エルシェナ」
改めて呼ばれて、私はまた少しだけ頬が熱くなった。
「はい」
「明日から建国祭の準備に入る」
「……はい」
「休むなら今夜だ」
「休めるでしょうか」
「休め」
命令のように言われて、思わず笑ってしまった。
この人は本当に、必要なことしか言わない。
でも、その必要なことの中に、時々ひどく優しいものを混ぜてくる。
「努力します」
「努力ではなく実行だ」
「承知しました」
返事をすると、レオンハルト殿下の口元がほんの少しだけ動いた。
あの、見えにくい笑い方だった。
彼が去ったあと、私は机の上の木箱をもう一度見た。
正式記録。
処理控え。
次の工程板の白紙。
どれも、私の前にある。
役目はある。
名前もある。
その二つが、ようやく同じ場所に並んだ。
王女殿下の婚約披露式典は終わった。
でも、王宮の仕事は終わらない。
次は建国祭。
三つの会場、複数の流れ、誰か一人の頭の中に押し込められてきた段取り。
きっと、また面倒なものが出てくる。
それでも、今の私は一人で抱えるつもりはなかった。
私の名前で。
私の机で。
そして、人へ渡せる形で。
そうやって次の仕事へ進めるなら、きっと私はもう、誰かの代わりではない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第二部はここで一区切りです。
次の第三部では、建国祭を舞台に、エルシェナが“自分だけが支える”のではなく、“人を動かして回る形を作る”話になります。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
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