第24話 寺の坊主は、ありがたい顔で世俗を数える
村の泥は、城下へ戻ってもすぐには落ちぬ。
足の裏や草履の鼻緒に残るという話ではない。もちろん、それも残るのだが、もっと厄介なのは頭の方だ。朝、水路へ足を入れ、農村娘に「笑って済ませることを許さない」と言われ、寺の田へ妙に安定して流れる水を見せつけられたあとでは、城下の景色まで少し違って見える。
人の怒鳴り声が、ただの喧嘩に聞こえぬ。
荷の流れが、ただの商いに見えぬ。
寺の鐘の音まで、どこか勘定高く聞こえる。
「いかんな」
わしは城下へ戻る道すがら、ひとりごちた。
「耳まで疑い深くなっておる」
だが、それも仕方がないのかもしれぬ。寺の田へだけ水が安定して入る。武家屋敷から薬種屋へ包みが流れる。茶屋には商人と僧と武家の使いが別々の顔をして集まる。そういうものを見てしまえば、寺というものをただありがたく見ておる気にはなれぬ。
もちろん、寺はありがたい。
腹を空かせておれば粥をくれる。
旅の者に軒を貸すこともある。
死人が出れば経をあげ、病めば祈る。
だが、それだけでもあるまい。
「見ておくか」
そう思うた時には、足はもう寺の方へ向いていた。
城下の寺は、外から見れば静かなものである。門があり、石があり、堂があり、木々がある。人は頭を下げ、手を合わせ、時には寄進を置いていく。そのどれもが“正しい形”に見える。
だが、正しい形ほど、中に何を入れてもそれらしく見えるものだ。
わしは正面の門からではなく、少し脇の道から寺へ寄った。炊き出しをしていたあたりとは違い、昼下がりの寺は落ち着いておる。参る者も朝夕より少なく、掃き清められた土の上を風が通り、遠くで木魚とも桶ともつかぬ音が一つ二つする。
本堂の前を横切ると、見覚えのある坊主頭があった。
以前、炊き出しの時におった僧である。ふくよかで、目元だけが妙に細い。人当たりはよさそうだが、口元が少しだけ早い。こういう坊主は、ありがたい顔の裏で勘定もしておる。
「おお、腹の減った若いのではないか」
と、その僧がわしを見るなり言った。
「今日は炊き出しはないぞ」
「坊主どの、わしはいつも飯の話ばかりではない」
「では珍しい」
「ひどい」
「事実であろう」
「……否定しづらい」
僧はくくっと笑った。
よい。こういう男は、最初にこちらを“軽い若造”と見てくれた方が話しやすい。真面目な顔で近づけば、かえって向こうも構える。わしのような男は、軽く見られているうちが花である。
「今日は何用だ」
と、僧。
「礼詣りか」
「それも少し」
「少しか」
「先日、粥をいただいた。昨日は火事場で泥を浴びた。今日は田の水で足が冷えた。こうも世に世話になってばかりでは、少しは仏の顔も見ておかねばと思うて」
「口のまわる若いのだ」
「飯がかかると特に」
「そこは揺るがぬな」
僧は呆れたように言いつつも、追い払わなかった。むしろ「ならば水でも飲んでいけ」と、井戸端の桶を指した。
ありがたいことである。
だが、わしの目は水より先に、寺の奥へ向いていた。
昼の寺は静かだ。静かだが、人が動いていないわけではない。堂の脇から帳面を抱えた小僧が出てくる。庫裏の方では、米俵の口を確かめている男衆がいる。門前の掃除をしている者も、ただ掃いておるだけではなく、外から入ってくる者の顔をちゃんと見ておる。
「坊主どの」
と、わしは桶の水を一口飲んでから尋ねた。
「寺というのは、昼でも忙しいものじゃのう」
「忙しいとも」
と、僧は即答した。
「祈るだけで米は増えぬからな」
「おお、よいことを言う」
「ありがたみが薄れる言い方をするな」
「いや、わしは本気で感心した」
「感心するところか」
「する。坊主が“米は増えぬ”と言うのは、なかなか腹に沁みる」
僧はふっと笑ったが、その笑いは少し渋かった。
「寺はな」
と、彼は言う。
「経も読むが、米も数える。病人に薬も回すし、困った村の話も聞く。世俗と無縁ではいられぬ」
「なるほど」
「むしろ、世俗のまんなかにおることも多い」
「では、寺はだいぶ忙しいな」
「そうだ。おぬしのように、腹が減ったらどこへでも転がる若いのより、よほど忙しい」
「それはずいぶん言う」
「事実だ」
ほんに、今日の坊主はよう回る。
わしは感心したふりをしながら、堂の脇を通る小僧へ目を向けた。小僧は帳面を抱え、慣れた足で庫裏へ向かう。その帳面は、経の覚え書きのようには見えぬ。もっと厚く、よく使い込まれておる。人の出入りや、寄進や、米の量でも書いてあるのだろう。
「寺は、村からの寄進も多いのか」
と、わしは何でもないふうに尋ねる。
「年によりけりだ」
「田の出来で変わるか」
「変わる」
「では、水も大事じゃのう」
僧の目が、わずかに動いた。
「百姓にとってはな」
「寺にとってもではないか」
「……まあ、田があればな」
わずかに、である。
本当にわずかに、言葉の置き方が変わった。
寺に田がある。それ自体はおかしなことではない。寺社領だの寄進地だの、そういうものは世の中にいくらでもある。だが今日のわしには、その“ある”が妙に引っかかる。
「寺の田はどのあたりに」
と、わしはさらに軽く聞いてみた。
「おぬし、今日は妙に田の話をするな」
「朝、水路でもめておるのを見たのでな」
「ほう」
「寺の田ばかり、水がよう乗ると言うておった」
僧の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
だが、それも一瞬だ。すぐにまた、あの“人当たりのよい坊主”の顔へ戻る。
「村の者は、困るとすぐそう言う」
「寺のせいだと」
「そうだ。だが水は、寺の言うことばかり聞いて流れるわけではない」
「もっともじゃ」
もっともだが、それだけでもない顔をしておる。
わしは水をもう一口飲み、あえてそこで話を切った。ここで突っつきすぎれば、向こうも構える。僧というものは、静かな顔をしている時ほど、こちらをよう見ておる。猫目ほどあからさまではないが、別の種類の目だ。
その時、庫裏の方から別の僧が出てきた。
この前、薬種屋へ向かった僧ではない。だが、やはり町慣れした足をしておる。裾の運びが軽く、堂の方へ行くふりをしながら、途中で門前の男へ何かを渡した。小さな紙か、帳面の切れか。男はすぐ懐へ入れ、何事もなかったように門の外へ出ていく。
「……」
わしは何でもない顔でそれを見た。
堂々とやるのが、かえって見えにくい。
人は、隠れてこそこそやるものばかりを怪しむ。だが本当に慣れた者は、見えておるところで、何でもない顔をしてやる。寺という場所は、その“何でもない顔”がよく似合う。
「坊主どの」
と、わしは言った。
「何だ」
「寺では、薬種も扱うのか」
「扱うこともある」
「どこから」
「薬種屋からだ」
「どこの」
「そこまで聞くか」
「腹が減ると気になる」
「薬種で腹は膨れぬ」
「たしかに」
「では、その理屈は使えぬ」
「惜しい」
僧は小さく笑い、そこでふいに別の方へ目をやった。
わしもつられて見る。
門の外から、武家屋敷づきの女房らしき者が入ってきた。身なりは地味だが、着物の質が違う。町の女ではなく、武家の内を知る足である。堂へ参るふうに頭を下げたが、そのまま本堂へは向かわず、庫裏の脇へ消えた。
「ほう」
今度は本当に声が出た。
寺と武家。
それだけなら珍しくはない。祈祷、寄進、礼、何でも理由は立つ。だが、今の女房の足は、手を合わせに来た者の足ではない。人に見られてもよい顔で入り、見られたくない用向きで脇へ消えた足だ。
僧がちらりとこちらを見た。
「若いの」
「何じゃ」
「人の寺を、あまり面白そうに見るな」
「面白いのだから仕方ない」
「本音が過ぎる」
「いかんか」
「いかん」
「では、ありがたそうに見ればよいか」
「もっといかん」
「難しいのう、坊主どの」
「難しいのは、おぬしの顔だ」
そう言われて、わしは苦笑した。
だが、もう十分であった。
今日ここへ来て分かったことがある。
寺は、ただ祈るだけの場所ではない。
米も数え、顔も見て、紙も渡し、時には武家の女房まで静かに受け入れる。
そして、それを“ありがたい顔”のままでやる。
「寺の坊主は、ありがたい顔で世俗を数える、か」
ぽつりとそう漏らすと、僧が眉を上げた。
「今、何と言うた」
「いや」
「聞こえたぞ」
「褒めたのじゃ」
「褒めておらぬな」
「半分は」
「半分でも足りぬ」
僧は呆れたように言い、それから桶を指した。
「もう水はよいだろう。帰れ」
「追い払うのか」
「その方が、おぬしも長生きできる」
「おや、それは猫目や農村娘と同じことを言う」
「誰だ、それは」
「目つきの悪い娘と、土の娘じゃ」
「おぬし、本当に碌でもない縁ばかり拾うな」
「近頃よう言われる」
「言われて改めぬのか」
「難しい」
「だろうな」
その“だろうな”には、妙な納得があった。
寺の坊主も、結局は人を見る。町娘も見る。農村娘も見る。猫目も、巫女も、簾の向こうの声の主も、皆それぞれの流儀でこちらを見ておる。
そしてわしは、そのたびに少しずつ違う顔を照らされておる気がした。
わしは桶を戻し、一礼した。
「世話になった」
「腹が減ったら、また来い」
と、僧。
「ただし、余計な目を連れてくるな」
「……努力はしよう」
「その返しは、だいたい努力せぬ顔だ」
「よう見ておる」
「坊主だからな」
それは関係あるのかと聞きかけて、やめた。坊主の理屈には、たまに聞いても仕方のないものが混じる。
寺を出て、日の当たる道へ戻る。
城下のざわめきが、また耳へ戻ってきた。だが今はもう、ただのざわめきとは聞こえぬ。米の数、薬の流れ、武家の顔、寺の帳面。そういうものが、人の声の奥でごそごそと動いておる気がする。
「……やれやれ」
空を見上げる。
飯の種を探しておっただけの若造が、いつの間にやら、寺の顔の裏まで気にするようになっておる。
これは少し、よくない。
よくないが、面白いのもまた事実だった。
そしてその面白さが、どうやらわしを、もっと城下の奥へ押していくらしい。




