第7話:虚像の終焉、影の脱出
1.瞳の深淵
ただ引き込まれるように、アガサはルナの目に引き込まれていた。
それは、凄惨な拷問に耐え、ただ一度きりの反撃の好機を狙い続けていたルナが、ようやく手繰り寄せた瞬間。里の秘伝ですら到達し得ない、ルナの血に眠る本能が呼び覚ました「瞳術・底なしの影」だ。
これまで無策を装い、辱めを受け流してきたのは、すべてこの至近距離でアガサの視線を固定するため。赤く充血した黄金の双眸がアガサの視神経をジャックし、彼女の脳内に「ルナの殺意」という名の猛毒を直接流し込んでいく。
回る景色。歪む景色。
アガサが必死に築き上げてきた「神への信仰」という名の精神防御が、ルナの放つ剥き出しの悪意に侵食され、内側から粉々に粉砕されていく。
これは良心の呵責ではない。忍びとしての練度を遥かに超越した、生物学的な「格」の圧力が、アガサの自我の維持限界を強制的に突破させたのだ。
(あ、あぁ……。私は、何を……)
熱い鉄の棒。裂けた服。蹂躙した少女。
それを行っていた「自分」という存在が、ルナの瞳に映る化け物の影に呑み込まれ、霧散していく。
アガサの脳内から色彩が消え、言葉が消え、最後に残ったのは、名前すら思い出せないほどの圧倒的な「虚無」だけだった。
(私……。……だれだっけ)
自己の境界が曖昧になり、碧眼から光が消え、ただ人形のようなうつろな瞳が残った。
2.影の命令
「……自由にしろぬ」
地這うような、しかし抗いがたい魔力を含んだルナの低い声が、アガサの耳元で響いた。
精神を破壊されたアガサは、逆らうという概念そのものを喪失し、その言葉に従った。
うつろな表情のまま、おぼつかない手足で、晒し台の鍵へ手を伸ばす。
ガチャン。
拘束が解け、ルナの身体が自由になる。
と同時に、ルナの動きは「捕食者」へと戻った。
「にゃッ!!」
着地とほぼ同時。ルナはバネのように跳ね上がり、アガサの背後を取った。
細い、しかし鋼のように強靭な腕をアガサの細い首に回し、一気に頸動脈を絞め上げる。
「……っ、……ぅ……」
アガサは抵抗らしい抵抗もできず、白目を剥いて力なく崩れ落ちた。
ルナは冷徹にその身体を床に転がすと、すぐさま隣の磔台へ向かい、トバリの鎖をクナイで断ち切った。
3.決死の運搬
「トバリ、起きるぬ! 死ぬのはまだ早いにゃ!」
トバリの巨体を肩に担ぎ、ルナは駆け出した。
全身の傷が悲鳴を上げ、内臓が焼け付くように痛むが、アドレナリンがそれをねじ伏せる。
道中の記憶は、ほとんどない。
ただ、迫りくる機械兵の駆動音と、回廊に響く怒号から逃れるように、闇から闇へと飛び移った。
ヤヨイを開失した喪失感を、今は殺意と生存本能で蓋をする。
セントラルシティの巨大な外壁を、影のようにすり抜ける。
背負ったトバリの体温だけが、今のルナにとって唯一の、この世との繋ぎ止めだった。
4.帰還、あるいは原点の地
辿り着いたのは、焼け払われた「里」ではなかった。
そこからさらに山を分け入り、深い緑に隠されるようにして佇む、古びた一軒の家。
里が形成される前。ルナが「化け猫」として育てられ、父と母、連合の監視役であったトバリと共に、世俗を断って暮らしていた頃の家だ。
「……着いたぬ」
ルナは力尽きるようにして、トバリをかつての自分の部屋の、埃を被った畳の上に横たえた。
トバリの呼吸を確認する。浅いが、まだ止まってはいない。
ルナは安堵すると同時に、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
窓から差し込む、冷たい月明かり。
かつて自分が「世界で一番賢い」と自惚れていた頃に見ていた景色と同じはずなのに、今はひどく疎ましく感じられた。
(世界を知らない……知らなすぎるぬ、あたしは)
ヤヨイという「モノ」を失い、自分のプライドもズタズタに引き裂かれた。
里の中で最強だと粋がり、損得だの計算だのと賢しらぶっていた自分。
その実、巨大な牙を持つ本物の怪物たちの前では、ただの無力な子猫に過ぎなかった。
(……愚かだぬ。あたしは……)
初めて、自分の小ささを知った。
初めて、自分の無知に恐怖した。
ルナは震える手で自身の膝を抱き、闇の中で一人、声を殺して震えた。
「……笑ってろにゃ。……次は、あたしが本当の『死』を見せてやるぬ……」
薄れゆく意識の淵で、ルナは再び殺意の火を灯した。
それは、これまでのような稚拙な驕りではない。
どん底を知り、己の愚かさを認めた者だけが抱く、静かで重い、真の復讐の決意だった。
(新章 第7話 完)




