第8話:泥酔の賢者、タヌキの導き
1.癒えぬ傷と静寂
山奥の古い家に戻ってから、数週間が過ぎた。
ルナは、トバリの傷口を焼き、薬草を塗り、ただひたすらに彼を現世に繋ぎ止めることに専念していた。かつてヤヨイを「直した」時のように、損得勘定で動いている自分に言い聞かせながら。だが、その指先は時折、自分でも驚くほど小さく震えていた。
トバリの呼吸がようやく安定し、死の淵から戻ってきたことを確信した夜。ルナは縁側に座り、月を見上げていた。
(あたしは……何をしていたんだぬ)
脳裏にこびりついたヤヨイの最期の絶叫。アガサに刻んだ屈辱。そして、圧倒的な鉄の巨人たちの暴力。
自分の持っていた「忍び」の技は、外の世界ではただの子供騙しに過ぎなかった。復讐を誓ったものの、その術が今の自分にはない。
「……にゃあ」
膝を抱え、小さく漏らした溜息は、夜の風に溶けて消えた。
2.招かれざる酔いどれ
「……おいおい、そんな湿気た顔してちゃ、福が逃げていくじゃよ。お嬢ちゃん」
不意に、背後から酒臭い風が吹いた。
ルナは瞬時にクナイを抜き放ち、音のした方へ振り向きざまに斬りかかった。
金属音が響く。だが、ルナの刃を受け止めたのは、クナイでも剣でもなかった。それは、無造作に突き出された、古びた酒瓢箪の底だった。
「ひゃはは! 元気がいいじゃ! だが、殺気がダダ漏れだじゃて」
そこにいたのは、奇妙な亜人の老人だった。
人間をベースにした亜人というよりは、極めてタヌキに近い姿をした獣人。ずんぐりとした体躯に、茶褐色のふさふさとした毛並み。愛嬌のある丸い耳と、隈取のような目の周りの模様が月明かりに照らされている。
そして何より目を引くのは、その背中に背負われた巨大な酒瓢箪だ。老人の腰から背中を優に覆い尽くすほどの大きさがあり、一体どれほどの酒が入っているのか見当もつかない。
「……誰だぬ、お前。パパ殿の知り合いか?」
「牙の野郎か? あんな堅物、ワシの飲み仲間にはなれんじゃ。ワシは通りすがりの隠居ジジイ……名は『源三』とでも呼ぶがいいじゃ」
源三と名乗った老タヌキは、巨大な瓢箪を揺らしながらグビリと酒を煽り、千鳥足でルナに近づいてきた。
3.スケベな品定め
「ほう……。近くで見ると、なかなかいいツラ構えだじゃ。将来はいいオンナになりそうじゃのう」
源三はルナの警戒を余所に、卑猥な手つきで彼女の身体を上から下までジロジロと眺め回した。
「おい、どこを見てるにゃ……! 殺すぬよ」
「ひゃっひゃっ、減るもんじゃなし。……だが、筋肉の付き方は悪くない。ただ、使い方が『里』の型に縛られすぎておる。それでは、あの中央の鉄人形どもの装甲は抜けんじゃよ」
ルナの動きが止まる。この老人は、自分たちがセントラルシティで敗れたことを知っているのか。
「お前……何者だぬ」
「ワシか? ワシはただのスケベなタヌキだじゃ。……だが、亜人が不当に踏みにじられるのは、どうにも酒の味が落ちていかんじゃ。特にお前さんのような『化け猫』の末裔が、無知ゆえに壊れるのは、忍びの歴史の損失だじゃ」
源三はそう言うと、縁側の床に腰を下ろし、ルナを真っ直ぐに見据えた。
4.亜人の守り手への道
「お嬢ちゃん、復讐したいんだろ? あの白っちょろい聖女や、ふんぞり返った枢機卿どもに」
「……当たり前だぬ。あたしは、あたしの『所有物』を奪った奴らを、一人残らず解体するにゃ」
ルナの瞳に、あの日以来の鋭い殺意が宿る。源三はその瞳を見て、満足げに鼻を鳴らした。
「いい目だ。計算ずくの優等生より、狂ったガキの方が教え甲斐があるじゃ。……よかろう。お前を鍛えてやるじゃ」
源三は背中の巨大な瓢箪を掲げ、月にかざした。
「単なる暗殺者ではない。亜人を、影から支配し守る……『亜人の守り手』としての術をな。影を武器にするのではない。お前自身が、世界の影そのものになるんじゃ」
ルナは、目の前の酔いどれタヌキが、これまでに会った誰よりも巨大な「影」を持っていることに気づいた。
「……代償は、高いぬよ?」
「ひゃっひゃっ! 代償なら、将来お前が絶世の美女になった時に、ワシの膝の上で酌でもしてもらうとしようかじゃ!」
こうして、焼け跡の残る原点の地で、ルナの新たな修行――「影を磨く」日々が幕を開けた。
それは、失ったヤヨイへの誓いであり、世界をその手で掌握するための、長い雌伏の始まりだった。
(第8話 完)




