第二章 準備
帝国の庇護下に入り、「ギオン帝国・アルト属州名誉侯爵」の爵位を与えられたジュリアン・アルト。かつての第一王子としての傲慢な面影は消え失せ、彼の双眸にはただ、生きながらえることへの諦念と、深い虚無だけが宿っていた。
王都の一等地に建てられた豪奢な館。そこは広大な庭園と、金銀で彩られた調度品に囲まれた、まさに「黄金の鳥籠」であった。
「ジュリアン侯爵。今宵の晩餐会には、ギオンの総督閣下もお見えになります。くれぐれも、不調法のないようにお願いいたしますぞ」
そう言って声をかけてきたのは、同じく帝国への臣従を誓い、現在は属州評議会の役職に就いている叔父のレイボルトであった。かつての王族としての誇りは、贅沢な絹の衣服と、肥え太った体躯のなかに完全に埋没している。
「分かっている、叔父上。私はただ、彼らの望む通りの『従順なアルトの象徴』を演じるだけだ」
ジュリアンは窓の外、帝国の兵士たちが巡回する街並みを見つめながら、力なく呟いた。
彼の心は、あの戦場でゲイン・ベン・ドーラ【大将】が戦死し、父である国王が処刑されたあの日から、一歩も前に進んでいない。今の自分は、ギオンの寛大さを宣伝するためだけに生かされている、中身のない剥製に過ぎないのだ。
その日の夜、館の大広間では、帝国の高官や寝返った旧アルト貴族たちが集う晩餐会が開かれていた。
きらびやかな照明の下、高価な酒と料理が運ばれ、優雅な音楽が流れる。しかし、その華やかさはすべて、外で飢えと弾圧に苦しむ民衆の犠牲の上に成り立つ、呪われた狂宴であった。
「いやはや、ジュリアン殿。貴殿がこうして帝国の秩序を受け入れてくださったおかげで、この地もようやく落ち着きを取り戻しつつある」
グラスを片手に近づいてきたのは、ギオン帝国軍の将校、ハインツ【大佐】であった。彼の階級章は、この一年でアルトの反乱分子をいくつも潰してきた功績によって、鈍く輝いている。
「ハインツ大佐閣下、我が身を救ってくださった皇帝陛下の慈悲には、日々感謝しております」
ジュリアンは顔に張り付いたような笑みを浮かべ、頭を下げた。
その様子を、会場の隅で見つめる一人の給仕がいた。衣服こそ給仕のものであるが、その鋭い眼光と、洗練された身のこなしは、およそ一人の使用人のものではなかった。
(……相変わらずだな、ジュリアン元王子。お前がその鳥籠の中で甘い汁を吸っている間にも、民は死に、血が流れているというのに)
給仕の正体は、かつてゲインの副官であり、現在は地下反乱組織の指導者の一人であるレオン・ヴァンス【中佐】であった。彼は帝国貴族の館に深く潜入し、帝国の動向を探るとともに、ある「計画」のためにこの場にいた。
レオンは注意深く周囲の会話に耳を傾け、ハインツ【大佐】が口にした情報を脳裏に刻み込んだ。
「……来週、フェルゼン平原の魔導兵器駐屯地に、本国からの新型物資が搬入される。あれさえ揃えば、アルト残党の掃討など一瞬で終わるはずだ」
(新型の物資……それだけは、何としても阻止せねばならん)
レオンは静かに一礼し、影に紛れるようにして大広間を後にした。
黄金の鳥籠のなかで踊る者たちが気づかぬうちに、暗闇のなかで研ぎ澄まされた刃が、じわじわとその喉元へと近づいていた。
王都から遠く離れた、霧深いガルディス山脈の古い鉱山跡。
そこは、帝国の厳しい監視の目を掻い潜り、祖国奪還を誓う者たちが集う反乱組織『氷下の茨』の秘密拠点であった。
かつての華やかな宮廷とは程遠い、湿っぽく薄暗い坑道。しかし、そこに集う者たちの瞳には、王都の貴族たちが失った、激しい闘志の炎が灯っていた。
「レオン中佐からの定期連絡です。王都の動き、および帝国の次なる兵站ルートが判明しました」
机の上に広げられた古びた地図を前に、一人の若者が声を張った。
彼の名はセシル・ルグラン【一等兵】。一年一ヶ月前、イスタール砦の戦いでトマス軍曹に命を救われた、あの気弱だった新兵の面影はどこにもない。今や彼の身体は引き締まり、幾多のゲリラ戦を潜り抜けてきた男の顔つきになっていた。彼の背中には、トマス【軍曹】から受け継いだ折れた槍の穂先を加工した、一振りの短剣が常に帯びられている。
「よくやった、セシル。これで次の標的が決まったわね」
部屋の奥から歩み出てきたのは、簡素な革鎧に身を包み、長い髪を一つに束ねた女性——リアンナ・アルトであった。かつての第一王女としての麗しきドレスを脱ぎ捨て、反乱軍の象徴、そして一人の戦士として生きることを選んだ彼女の瞳は、過酷な現実によって氷のように研ぎ澄まされていた。
「リアンナ殿下。ハインツ大佐が漏らした情報によれば、標的はフェルゼン平原の第三中継基地です。ここには、帝国の最新鋭の魔導結晶が運び込まれる予定です。もしこれを奪取、あるいは破壊できれば、帝国の戦力を大きく削ることができます」
セシルの言葉に、集まった戦士たちがざわめいた。
フェルゼン平原。それは、彼らにとって最も苦い敗北の記憶が眠る場所であり、アーサー【団長】やロラン【副団長】をはじめとする、数万の同胞が命を散らした呪われた地であった。
「あそこへ再び戻るのね……」
リアンナは地図の上の「フェルゼン」の文字を指先でなぞった。彼女の胸に、かつて兄ジュリアンが目の前で連れ去られ、父が処刑された瞬間の痛みが蘇る。しかし、彼女はもう泣かなかった。
「皆、聞いて。私たちはあの日、すべてを失った。国も、家も、多くの大切な仲間たちも。しかし、ゲイン大将が命を懸けて守ってくれたこの命がある限り、アルトの魂は死なない。ギオンの狼たちに、私たちがまだ生きていることを、その喉元を食い破る準備ができていることを教えてあげるのよ!」
「おおおっ!!」
坑道内に、低く、しかし熱い地鳴りのような歓声が響いた。
彼らの階級は、今や帝国の法の下では「大逆罪人」でしかない。しかし、この地下坑道のなかでは、彼らはまぎれもない「アルト王国軍」の誇り高き将兵であった。
組織の再編により、生き残ったベテランの兵士たちが中心となり、独自の即席階級が作られていた。セシルは今や、若手ゲリラ部隊の指揮を執る【三曹】としての役割を任されるまでに成長していた。
「セシル、今回の作戦はお前が先鋒を務めろ。王都のレオン中佐とも現地で合流する手筈になっている」
「はっ、リアンナ殿下! この命に代えても、必ずや魔導物資を破壊してみせます!」
セシルは深く敬礼し、自身の部隊へと向かった。
彼の率いる部隊には、かつて二等兵だった若者や、新しく加わった市民志願兵たちがいる。彼らにとって、セシルは「イスタールとフェルゼンを生き延びた英雄」であった。ゲイン・ベン・ドーラがかつて背負ったものの重さを、セシルは今、自分自身の小さな肩に感じていた。
作戦当日。フェルゼン平原は、冬の冷たい夜気と深い霧に包まれていた。
かつて数万の兵が激突し、血の海となった平原は、今や不気味なほどの静寂を保っている。帝国の第三中継基地は、高い木柵と魔導警戒灯によって固められ、近づく者を拒絶するようにそびえ立っていた。
「霧が出てきたな……。あの時と同じだ」
草むらに身を潜めながら、セシル【三曹】は呟いた。彼の隣には、王都から秘密裏に脱出し、合流を果たしたレオン【中佐】が息を潜めている。
「油断するな、セシル。帝国の警戒網は、かつての砦戦の時よりも遥かに厳重だ。指揮を執っているのは、あのヴォルグ大将の直系である、ブラッド・ザイラー【中佐】だ。容赦のない男として知られている」
レオンの言葉通り、基地の周囲には、ギオン帝国軍の「一等兵」や「上等兵」たちが隙のない陣形で巡回しており、見張り塔の上からは、常に魔導探知の光が周囲を照射していた。
「時間を合わせるぞ。リアンナ殿下の本隊が東側から陽動を仕掛ける。その隙に、我々中央突破班が物資貯蔵庫へ侵入し、魔導結晶を爆破する」
レオンが懐中時計を確認した、その瞬間。
ドガァァァン!!
東側の城壁で、凄まじい爆発音が響き渡った。リアンナ【王女】率いる陽動部隊が、魔導砲を撃ち込んだのだ。
「敵襲! 東門だ! 全員、迎撃に回れ!」
基地内に帝国の警戒アラートが鳴り響き、巡回していた兵士たちが一斉に東側へと走り出す。
「今だ、行け!」
セシル【三曹】が鋭く合図を送り、草むらから飛び出した。彼に続くのは、黒い外套を身にまとった二十人の精鋭たち。彼らは音もなく木柵を飛び越え、基地の心臓部へと突き進んでいく。
「何者だ!」
貯蔵庫の前を守っていた帝国のハンス【二曹】が武器を構えたが、セシルの放った投剣が彼の喉元を正確に貫いた。声も上げずに倒れる帝国兵。セシルは一瞬の躊躇もなくその死体を片付け、貯蔵庫の重い扉を開け放った。
内部には、不気味な青い光を放つ、巨大な魔導結晶の箱がいくつも並んでいた。これが本国に運ばれ、新型の魔導砲に使用されれば、反乱軍の拠点など一吹きで消し飛ぶだろう。
「急げ! 爆破用の魔法陣を設置しろ!」
セシルの指示で、部下たちが手際よく作業を進める。しかし、その時、背後の扉が乱暴に蹴り開けられた。
「やはり、ネズミどもが迷い込んできたか」
冷徹な声と共に現れたのは、黒い重装甲に身を包み、大剣を肩に担いだ男——ブラッド・ザイラー【中佐】であった。彼の後ろには、数名の一曹や軍曹といった帝国の手練れたちが控えている。
「アルトの残党め。貴様らの浅薄な計略など、すべてヴォルグ閣下の掌の上だ。ここで一匹残らず処刑してくれる」
ブラッド【中佐】が不敵な笑みを浮かべ、大剣を振り下ろした。凄まじい剣圧が貯蔵庫の床を砕き、セシルたちを襲う。
「くっ! お前たちは爆破作業を続けろ! ここは俺が食い止める!」
セシル【三曹】はトマス軍曹の形見の短剣と、奪った帝国の剣を交差し、ブラッドの一撃を受け止めた。激しい金属音が響き、セシルの両腕に強烈な衝撃が走る。
「ほう、若い割にはいい筋をしている。だが、我がザイラー家に伝わる剣技の前には、ただの悪足掻きだ!」
ブラッド【中佐】の猛攻が始まる。大剣から放たれる圧倒的な力の前に、セシルは防戦一方に追い込まれていく。かつてゲイン【大将】が戦ったギオンの将校たちの強さを、セシルは今、身をもって知っていた。
しかし、今のセシルには、かつてのように逃げ出すという選択肢はなかった。彼の後ろには、祖国の未来が、そして散っていった仲間たちの魂がかかっているのだ。
「俺は……もう絶対に退かない!!」
セシルは咆哮し、ブラッドの懐へと飛び込んだ。一瞬の隙を突き、短剣でブラッドの装甲の継ぎ目を狙う。刃は浅くではあるが、ブラッドの脇腹を切り裂いた。
「ぐっ……! 生意気な小蠅が!」
ブラッド【中佐】の顔に怒りの色が走り、大剣がセシルの肩を深く切り裂いた。鮮血が飛び散り、セシルが床に膝をつく。
「終わりだ、アルトの犬め」
ブラッドがとどめの一撃を振り上げた、その時。
「そこまでよ、帝国の将校!」
貯蔵庫の窓を破り、一本の矢がブラッドの目をかすめて通り過ぎた。現れたのは、陽動を終え、中央へと駆けつけたリアンナ【王女】であった。彼女の手には、かつて近衛兵が使っていた魔導弓が握られていた。
「リアンナ殿下……!」
「セシル、下がりなさい! 爆破の準備は完了したわ!」
レオン【中佐】が叫び、導火線に火を放つ。青い魔導結晶が、臨界点を迎えて異常な輝きを放ち始めていた。
「しまっ……! 総員、退避せよ!」
ブラッド【中佐】が顔色を変えて叫ぶが、すでに遅かった。
「アルトの光は、決して消えない!!」
リアンナの叫びと共に、セシルたちは貯蔵庫から外へと飛び出した。次の瞬間、背後で天地を覆すような大爆発が巻き起こった。
青き業火が天を突き刺し、帝国の第三中継基地の半分が一瞬にして木っ端微塵に吹き飛んだ。新型の魔導結晶はすべて誘爆し、帝国の兵站計画は完全に灰燼に帰したのである。
爆発の余韻が残る平原を、セシルたちは夜陰に紛れて駆け抜けていた。
肩の傷から血を流しながらも、セシルの表情には、かつてない確かな手応えが宿っていた。
「やった……俺たち、帝国に一矢報いたんだ……」
部下の若い兵士が、涙を流しながら笑った。
かつてはただ蹂躙されるだけだった彼らが、今や帝国の重要な基地を一つ、完全に壊滅させたのだ。これは、アルト属州の歴史において、最大の反乱成功事例となるだろう。
「まだ戦いは始まったばかりよ」
リアンナ【王女】は歩みを止め、遠く離れた王都ルミナスの方角を見つめた。
夜空の向こうで、赤く燃える基地の煙が風に流されていく。その光景は、王都の黄金の鳥籠の中で眠る兄ジュリアンや、帝国の総督たちの目にも届いているはずだ。
「地下の茨が、ついに地上へと芽を吹いた。これから、ギオンの連中は本当の恐怖を知ることになるわ」
レオン【中佐】もまた、静かに頷いた。彼の眼鏡の奥の瞳には、次なる戦略の構想がすでに描かれていた。
「今回の勝利で、各地に散らばっている旧王国の不満分子や、地方の隠れ残党たちが一斉に立ち上がるはずです。我々の『氷下の茨』は、これより単なるゲリラ組織から、帝国を覆すための『解放軍』へと進化せねばなりません」
彼らの進む道は、未だ険しく、絶望に満ちているかもしれない。帝国の総司令官ヴォルグ【大将】や、あの先鋒部隊長ジン【少佐】といった怪物たちが、今度は本気で彼らを潰しにくるだろう。
しかし、セシルは自分の胸元にある、トマス軍曹の形見の短剣に手を当て、確信していた。
自分たちの血のなかには、あのゲイン・ベン・ドーラ【大将】が最期に見せた、不屈の「アルトの盾」の精神が流れている。それが途切れない限り、この戦争の本当の終わりは、まだ誰も知らないのだ。
深い霧の向こうから、かすかに新しい夜明けの光が差し込み始めていた。
それは、灰のなかから蘇った不死鳥たちが、再び大空へと羽ばたくための、反撃の始まりを告げる光であった。
帝国の庇護下に入り、「ギオン帝国・アルト属州名誉侯爵」の爵位を与えられたジュリアン・アルト。かつての第一王子としての傲慢な面影は消え失せ、彼の双眸にはただ、生きながらえることへの諦念と、深い虚無だけが宿っていた。
王都の一等地に建てられた豪奢な館。そこは広大な庭園と、金銀で彩られた調度品に囲まれた、まさに「黄金の鳥籠」であった。
「ジュリアン侯爵。今宵の晩餐会には、ギオンの総督閣下もお見えになります。くれぐれも、不調法のないようにお願いいたしますぞ」
そう言って声をかけてきたのは、同じく帝国への臣従を誓い、現在は属州評議会の役職に就いている叔父のレイボルトであった。かつての王族としての誇りは、贅沢な絹の衣服と、肥え太った体躯のなかに完全に埋没している。
「分かっている、叔父上。私はただ、彼らの望む通りの『従順なアルトの象徴』を演じるだけだ」
ジュリアンは窓の外、帝国の兵士たちが巡回する街並みを見つめながら、力なく呟いた。
彼の心は、あの戦場でゲイン・ベン・ドーラ【大将】が戦死し、父である国王が処刑されたあの日から、一歩も前に進んでいない。今の自分は、ギオンの寛大さを宣伝するためだけに生かされている、中身のない剥製に過ぎないのだ。
その日の夜、館の大広間では、帝国の高官や寝返った旧アルト貴族たちが集う晩餐会が開かれていた。
きらびやかな照明の下、高価な酒と料理が運ばれ、優雅な音楽が流れる。しかし、その華やかさはすべて、外で飢えと弾圧に苦しむ民衆の犠牲の上に成り立つ、呪われた狂宴であった。
「いやはや、ジュリアン殿。貴殿がこうして帝国の秩序を受け入れてくださったおかげで、この地もようやく落ち着きを取り戻しつつある」
グラスを片手に近づいてきたのは、ギオン帝国軍の将校、ハインツ【大佐】であった。彼の階級章は、この一年でアルトの反乱分子をいくつも潰してきた功績によって、鈍く輝いている。
「ハインツ大佐閣下、我が身を救ってくださった皇帝陛下の慈悲には、日々感謝しております」
ジュリアンは顔に張り付いたような笑みを浮かべ、頭を下げた。
その様子を、会場の隅で見つめる一人の給仕がいた。衣服こそ給仕のものであるが、その鋭い眼光と、洗練された身のこなしは、およそ一人の使用人のものではなかった。
(……相変わらずだな、ジュリアン元王子。お前がその鳥籠の中で甘い汁を吸っている間にも、民は死に、血が流れているというのに)
給仕の正体は、かつてゲインの副官であり、現在は地下反乱組織の指導者の一人であるレオン・ヴァンス【中佐】であった。彼は帝国貴族の館に深く潜入し、帝国の動向を探るとともに、ある「計画」のためにこの場にいた。
レオンは注意深く周囲の会話に耳を傾け、ハインツ【大佐】が口にした情報を脳裏に刻み込んだ。
「……来週、フェルゼン平原の魔導兵器駐屯地に、本国からの新型物資が搬入される。あれさえ揃えば、アルト残党の掃討など一瞬で終わるはずだ」
(新型の物資……それだけは、何としても阻止せねばならん)
レオンは静かに一礼し、影に紛れるようにして大広間を後にした。
黄金の鳥籠のなかで踊る者たちが気づかぬうちに、暗闇のなかで研ぎ澄まされた刃が、じわじわとその喉元へと近づいていた。
第二章:凍土のなかの潜流
王都から遠く離れた、霧深いガルディス山脈の古い鉱山跡。
そこは、帝国の厳しい監視の目を掻い潜り、祖国奪還を誓う者たちが集う反乱組織『氷下の茨』の秘密拠点であった。
かつての華やかな宮廷とは程遠い、湿っぽく薄暗い坑道。しかし、そこに集う者たちの瞳には、王都の貴族たちが失った、激しい闘志の炎が灯っていた。
「レオン中佐からの定期連絡です。王都の動き、および帝国の次なる兵站ルートが判明しました」
机の上に広げられた古びた地図を前に、一人の若者が声を張った。
彼の名はセシル・ルグラン【一等兵】。一年一ヶ月前、イスタール砦の戦いでトマス軍曹に命を救われた、あの気弱だった新兵の面影はどこにもない。今や彼の身体は引き締まり、幾多のゲリラ戦を潜り抜けてきた男の顔つきになっていた。彼の背中には、トマス【軍曹】から受け継いだ折れた槍の穂先を加工した、一振りの短剣が常に帯びられている。
「よくやった、セシル。これで次の標的が決まったわね」
部屋の奥から歩み出てきたのは、簡素な革鎧に身を包み、長い髪を一つに束ねた女性——リアンナ・アルトであった。かつての第一王女としての麗しきドレスを脱ぎ捨て、反乱軍の象徴、そして一人の戦士として生きることを選んだ彼女の瞳は、過酷な現実によって氷のように研ぎ澄まされていた。
「リアンナ殿下。ハインツ大佐が漏らした情報によれば、標的はフェルゼン平原の第三中継基地です。ここには、帝国の最新鋭の魔導結晶が運び込まれる予定です。もしこれを奪取、あるいは破壊できれば、帝国の戦力を大きく削ることができます」
セシルの言葉に、集まった戦士たちがざわめいた。
フェルゼン平原。それは、彼らにとって最も苦い敗北の記憶が眠る場所であり、アーサー【団長】やロラン【副団長】をはじめとする、数万の同胞が命を散らした呪われた地であった。
「あそこへ再び戻るのね……」
リアンナは地図の上の「フェルゼン」の文字を指先でなぞった。彼女の胸に、かつて兄ジュリアンが目の前で連れ去られ、父が処刑された瞬間の痛みが蘇る。しかし、彼女はもう泣かなかった。
「皆、聞いて。私たちはあの日、すべてを失った。国も、家も、多くの大切な仲間たちも。しかし、ゲイン大将が命を懸けて守ってくれたこの命がある限り、アルトの魂は死なない。ギオンの狼たちに、私たちがまだ生きていることを、その喉元を食い破る準備ができていることを教えてあげるのよ!」
「おおおっ!!」
坑道内に、低く、しかし熱い地鳴りのような歓声が響いた。
彼らの階級は、今や帝国の法の下では「大逆罪人」でしかない。しかし、この地下坑道のなかでは、彼らはまぎれもない「アルト王国軍」の誇り高き将兵であった。
組織の再編により、生き残ったベテランの兵士たちが中心となり、独自の即席階級が作られていた。セシルは今や、若手ゲリラ部隊の指揮を執る【三曹】としての役割を任されるまでに成長していた。
「セシル、今回の作戦はお前が先鋒を務めろ。王都のレオン中佐とも現地で合流する手筈になっている」
「はっ、リアンナ殿下! この命に代えても、必ずや魔導物資を破壊してみせます!」
セシルは深く敬礼し、自身の部隊へと向かった。
彼の率いる部隊には、かつて二等兵だった若者や、新しく加わった市民志願兵たちがいる。彼らにとって、セシルは「イスタールとフェルゼンを生き延びた英雄」であった。ゲイン・ベン・ドーラがかつて背負ったものの重さを、セシルは今、自分自身の小さな肩に感じていた。
第三章:断絶の境界線
作戦当日。フェルゼン平原は、冬の冷たい夜気と深い霧に包まれていた。
かつて数万の兵が激突し、血の海となった平原は、今や不気味なほどの静寂を保っている。帝国の第三中継基地は、高い木柵と魔導警戒灯によって固められ、近づく者を拒絶するようにそびえ立っていた。
「霧が出てきたな……。あの時と同じだ」
草むらに身を潜めながら、セシル【三曹】は呟いた。彼の隣には、王都から秘密裏に脱出し、合流を果たしたレオン【中佐】が息を潜めている。
「油断するな、セシル。帝国の警戒網は、かつての砦戦の時よりも遥かに厳重だ。指揮を執っているのは、あのヴォルグ大将の直系である、ブラッド・ザイラー【中佐】だ。容赦のない男として知られている」
レオンの言葉通り、基地の周囲には、ギオン帝国軍の「一等兵」や「上等兵」たちが隙のない陣形で巡回しており、見張り塔の上からは、常に魔導探知の光が周囲を照射していた。
「時間を合わせるぞ。リアンナ殿下の本隊が東側から陽動を仕掛ける。その隙に、我々中央突破班が物資貯蔵庫へ侵入し、魔導結晶を爆破する」
レオンが懐中時計を確認した、その瞬間。
ドガァァァン!!
東側の城壁で、凄まじい爆発音が響き渡った。リアンナ【王女】率いる陽動部隊が、魔導砲を撃ち込んだのだ。
「敵襲! 東門だ! 全員、迎撃に回れ!」
基地内に帝国の警戒アラートが鳴り響き、巡回していた兵士たちが一斉に東側へと走り出す。
「今だ、行け!」
セシル【三曹】が鋭く合図を送り、草むらから飛び出した。彼に続くのは、黒い外套を身にまとった二十人の精鋭たち。彼らは音もなく木柵を飛び越え、基地の心臓部へと突き進んでいく。
「何者だ!」
貯蔵庫の前を守っていた帝国のハンス【二曹】が武器を構えたが、セシルの放った投剣が彼の喉元を正確に貫いた。声も上げずに倒れる帝国兵。セシルは一瞬の躊躇もなくその死体を片付け、貯蔵庫の重い扉を開け放った。
内部には、不気味な青い光を放つ、巨大な魔導結晶の箱がいくつも並んでいた。これが本国に運ばれ、新型の魔導砲に使用されれば、反乱軍の拠点など一吹きで消し飛ぶだろう。
「急げ! 爆破用の魔法陣を設置しろ!」
セシルの指示で、部下たちが手際よく作業を進める。しかし、その時、背後の扉が乱暴に蹴り開けられた。
「やはり、ネズミどもが迷い込んできたか」
冷徹な声と共に現れたのは、黒い重装甲に身を包み、大剣を肩に担いだ男——ブラッド・ザイラー【中佐】であった。彼の後ろには、数名の一曹や軍曹といった帝国の手練れたちが控えている。
「アルトの残党め。貴様らの浅薄な計略など、すべてヴォルグ閣下の掌の上だ。ここで一匹残らず処刑してくれる」
ブラッド【中佐】が不敵な笑みを浮かべ、大剣を振り下ろした。凄まじい剣圧が貯蔵庫の床を砕き、セシルたちを襲う。
「くっ! お前たちは爆破作業を続けろ! ここは俺が食い止める!」
セシル【三曹】はトマス軍曹の形見の短剣と、奪った帝国の剣を交差し、ブラッドの一撃を受け止めた。激しい金属音が響き、セシルの両腕に強烈な衝撃が走る。
「ほう、若い割にはいい筋をしている。だが、我がザイラー家に伝わる剣技の前には、ただの悪足掻きだ!」
ブラッド【中佐】の猛攻が始まる。大剣から放たれる圧倒的な力の前に、セシルは防戦一方に追い込まれていく。かつてゲイン【大将】が戦ったギオンの将校たちの強さを、セシルは今、身をもって知っていた。
しかし、今のセシルには、かつてのように逃げ出すという選択肢はなかった。彼の後ろには、祖国の未来が、そして散っていった仲間たちの魂がかかっているのだ。
「俺は……もう絶対に退かない!!」
セシルは咆哮し、ブラッドの懐へと飛び込んだ。一瞬の隙を突き、短剣でブラッドの装甲の継ぎ目を狙う。刃は浅くではあるが、ブラッドの脇腹を切り裂いた。
「ぐっ……! 生意気な小蠅が!」
ブラッド【中佐】の顔に怒りの色が走り、大剣がセシルの肩を深く切り裂いた。鮮血が飛び散り、セシルが床に膝をつく。
「終わりだ、アルトの犬め」
ブラッドがとどめの一撃を振り上げた、その時。
「そこまでよ、帝国の将校!」
貯蔵庫の窓を破り、一本の矢がブラッドの目をかすめて通り過ぎた。現れたのは、陽動を終え、中央へと駆けつけたリアンナ【王女】であった。彼女の手には、かつて近衛兵が使っていた魔導弓が握られていた。
「リアンナ殿下……!」
「セシル、下がりなさい! 爆破の準備は完了したわ!」
レオン【中佐】が叫び、導火線に火を放つ。青い魔導結晶が、臨界点を迎えて異常な輝きを放ち始めていた。
「しまっ……! 総員、退避せよ!」
ブラッド【中佐】が顔色を変えて叫ぶが、すでに遅かった。
「アルトの光は、決して消えない!!」
リアンナの叫びと共に、セシルたちは貯蔵庫から外へと飛び出した。次の瞬間、背後で天地を覆すような大爆発が巻き起こった。
青き業火が天を突き刺し、帝国の第三中継基地の半分が一瞬にして木っ端微塵に吹き飛んだ。新型の魔導結晶はすべて誘爆し、帝国の兵站計画は完全に灰燼に帰したのである。
第四章:茨の行進
爆発の余韻が残る平原を、セシルたちは夜陰に紛れて駆け抜けていた。
肩の傷から血を流しながらも、セシルの表情には、かつてない確かな手応えが宿っていた。
「やった……俺たち、帝国に一矢報いたんだ……」
部下の若い兵士が、涙を流しながら笑った。
かつてはただ蹂躙されるだけだった彼らが、今や帝国の重要な基地を一つ、完全に壊滅させたのだ。これは、アルト属州の歴史において、最大の反乱成功事例となるだろう。
「まだ戦いは始まったばかりよ」
リアンナ【王女】は歩みを止め、遠く離れた王都ルミナスの方角を見つめた。
夜空の向こうで、赤く燃える基地の煙が風に流されていく。その光景は、王都の黄金の鳥籠の中で眠る兄ジュリアンや、帝国の総督たちの目にも届いているはずだ。
「地下の茨が、ついに地上へと芽を吹いた。これから、ギオンの連中は本当の恐怖を知ることになるわ」
レオン【中佐】もまた、静かに頷いた。彼の眼鏡の奥の瞳には、次なる戦略の構想がすでに描かれていた。
「今回の勝利で、各地に散らばっている旧王国の不満分子や、地方の隠れ残党たちが一斉に立ち上がるはずです。我々の『氷下の茨』は、これより単なるゲリラ組織から、帝国を覆すための『解放軍』へと進化せねばなりません」
彼らの進む道は、未だ険しく、絶望に満ちているかもしれない。帝国の総司令官ヴォルグ【大将】や、あの先鋒部隊長ジン【少佐】といった怪物たちが、今度は本気で彼らを潰しにくるだろう。
しかし、セシルは自分の胸元にある、トマス軍曹の形見の短剣に手を当て、確信していた。
自分たちの血のなかには、あのゲイン・ベン・ドーラ【大将】が最期に見せた、不屈の「アルトの盾」の精神が流れている。それが途切れない限り、この戦争の本当の終わりは、まだ誰も知らないのだ。
深い霧の向こうから、かすかに新しい夜明けの光が差し込み始めていた。
それは、灰のなかから蘇った不死鳥たちが、再び大空へと羽ばたくための、反撃の始まりを告げる光であった。




