36話 鉄鋼国 バルガへ
空が白み始める前の、深い藍色の静寂。アルトは背負い袋の紐を強く締め直し、苔の生えた廃屋の扉をそっと開けた。
眠りに就いているテオや村人たちに、別れは告げない。声をかければ、また「普通の人間」としての未練が芽生えてしまう。
(もし僕がここに戻ってきて、彼らと一緒に土を耕し、名前で呼び合って暮らせたら……。どれだけ幸せだろう)
ふと頭をよぎった空想。レベルのない、ただのアルトとして生きる平穏。だが、アルトはその思いを強引に振り切り、闇の中へと踏み出した。
「……もう、戻らない」
背後で閉まった扉の音は、かつてフェルゼンの門が閉じた時よりも重く、アルトの心に響いた。彼は一度も振り返ることなく、国境にそびえ立つ鋼鉄の巨壁へと向かった。
鉄鋼国・バルガ。
その国境は、自然の地形ではなく、文字通り巨大な「鋼の壁」によって仕切られていた。高さ数十メートルに及ぶ壁の麓には、資材搬入用の小さな搬入口が点在している。
アルトは最強の影から伝わる「視覚情報の共有」を使い、巡回する兵士の死角を正確に突いた。重厚な鋼鉄の扉の隙間――本来なら厳重に施錠されているはずだが、影が鍵穴の内側から物理的に干渉し、無音で解錠する。
見張りの兵士が欠伸をした瞬間、アルトは滑り込むように壁の内側へと侵入した。
「――っ!?」
足を踏み入れた瞬間、凄まじい「熱」がアルトの全身を突き抜けた。
外の冷涼な空気とは正反対の、肺を焼くような乾燥した熱風。見上げれば、巨大な煙突から吐き出される黒煙が空を覆い、街のいたるところで蒸気の噴き出す音が鳴り響いている。
(これが工業国バルガ……。まるで巨大な炉の中にいるみたいだ)
街並みはフェルゼンのような情緒とは無縁だった。機能性だけを追求した無骨な金属製の建物がひしめき合い、規則的な槌音が鼓動のように街全体を震わせている。
アルトは自身の姿を隠すため、すぐに建物の間の薄暗い裏路地へと身を潜めた。
ここからが「侵攻」の第一歩だ。まずはこの国の構造、そして聖王都エリュシオンがどこまで入り込んでいるかを探らなければならない。
「……おいで、分隊。力を貸して」
アルトが短く命じると、彼の足元から三つの影が音もなく這い出した。
《影の分隊》Lv22。
フェルゼンの結界から解き放たれ、本来の濃度を取り戻した彼らは、主の命令を待つ猟犬のように低く跪く。
「三手に分かれて、この国の中心部と……あの里から連れて行かれた人たちの居場所を探って。見つかりそうになったら、躊躇わずに闇に消えていい。絶対に深追いはしないで」
分隊たちは声を出さず、ただ恭しく頭を下げると、それぞれが壁や地面の影へと溶け込み、熱気に満ちたバルガの街へと散っていった。
鉄鋼国バルガの裏路地は、不快な熱気と油の臭いに満ちていた。
建物の隙間から吹き込む風は、肺を焼くような熱を帯び、湿り気を帯びた不快な感触で肌にまとわりつく。
アルトは、苔がこびりついた冷たい石壁に背を預け、静かに目を閉じた。
視覚を遮断した彼の脳裏には、今、三体の「影の分隊」が捉えたリアルタイムの光景が、鮮烈な濁流となって流れ込んでいた。
「……これが、この国の正体か」
アルトの唇が、怒りと悲しみの入り混じった微かな震えを見せる。
分隊の一体が潜入した広大な工房区。そこは、数え切れないほどの鍛冶場が迷路のように連なり、昼夜を問わず重々しい槌音が地鳴りのように響き渡る地獄絵図だった。
吹き出す炎はオレンジ色を超えて白銀に輝き、美しい火花が闇を彩る。しかし、その輝きを支えているのは、あまりにも醜悪な人の「歪み」であった。
中心部に近づくほど、その光景は凄惨さを増していく。
豪華な絹の服に身を包み、冷徹な笑みを浮かべる雇用主たち。その足元で、泥にまみれ、真っ赤に熱された鋼を打つ労働者の集団がいた。彼らの肌は火傷で焼けただれ、瞳からは生気が失われている。
彼らの頭上に浮かぶ数字は、例外なく**《Lv1》から《Lv3》**。
彼らはもはや人間とは見なされていない。ただ武具に魔力を流し込み、強力な「魔具」を生産するための「使い捨ての電池」として、死ぬまで打ち続けることを強要されていたのだ。
さらに、王城の深部へ潜り込んだもう一体の分隊が、決定的な場面を捉えた。
バルガの王と、金色の刺繍が施された豪奢な法衣を纏う「エリュシオンの外交官」が、薄暗い密談室で向き合っていた。
「……神勅の件、承知しております。Lv0の少年を見つけ次第、我が国の鋼の檻にぶち込みましょう。代価として、聖王都が独占している『神聖鋼』の配合レシピを頂けるのであれば、安い御用だ」
バルガ王が、貪欲な笑みを浮かべて太い指を鳴らす。外交官は、紅茶の香りを楽しみながら冷淡に言葉を返した。
「よろしい。低レベルのゴミ共をいくら潰そうと、神は咎めません。むしろ世界の浄化に寄与する善行と言えるでしょう」
その瞬間、影の気配を察知した高レベルの護衛騎士が、鋭い眼光で部屋の隅を睨みつけた。
「……何者だ! 影に潜む不浄め!」
騎士の放った鋭い剣閃が空を裂く。だが、それよりも早く、アルトの意思を受けた分隊は黒い霧となって霧散し、次元を越えて主の元へと帰還した。
路地の奥で、アルトがゆっくりと目を開いた。
その瞳に宿っていた、かつての少年の面影は消え失せている。そこに湛えられているのは、怒りを超越した先にある、絶対的な無感情の闇。
「……影、聞いたね。この国に、情けはいらない」
アルトの足元で、漆黒の魔力がドロリと広がる。影の中から、重厚で威厳に満ちた最強の影の声が響いた。
『――御意、主よ。理を説く段階は過ぎ去りました。これよりは、彼らが最も信頼する「力」によって、その傲慢を粉砕いたしましょう』
アルトは静かな足取りで路地を抜け、表の大通りへと姿を現した。
そこは、新造されたばかりの魔具の剣を腰に吊るし、自らのレベルを誇示するように闊歩するバルガ軍の精鋭たちで溢れていた。彼らは、重い鉄を運ぶ低レベルの労働者を、まるで見えない障害物であるかのように家畜同然に蹴散らしている。
「おい、そこをどけ! Lv0のガキが、死にたいのか!」
一人の騎士が、アルトの不遜な態度に眉を吊り上げ、太い腕を伸ばしてフードを掴もうとした。
だが、その指先がアルトの髪に触れることは、永遠に無かった。
「……終わりだ」
アルトの影が、突如として大通り全体を飲み込むほど巨大な「深淵の穴」と化す。
そこから現れたのは、直視することすらためらうほどの圧力を放つ死の概念そのもの。――最強の影が、その全貌を現した。
影は、腰に佩いた虚無の太刀の柄に、ゆっくりと手をかけた。
その瞬間、沸騰していたバルガの熱風が、恐怖に凍りついたかのように停止した。大気が重く沈み、万物がひれ伏すような圧倒的な圧力が空間を支配する。
『主の御命に。……世界よ、深淵に跪け』
影奥義・《次元断・零式》
最強の影が動いたと思った瞬間には、全てが終息していた。
抜刀の音さえも置き去りにする、超高密度の闇の閃光。
それはただの剣筋ではなかった。空間そのものを「影の刃」として認識させ、斬撃の範囲内にある「存在という理」を消滅させる絶技。
「な……が、は……っ!?」
騎士たちが驚愕に顔を歪める時間さえなかった。
凄まじい衝撃波が、バルガの街を真っ二つに突き抜ける。鋼鉄で補強された強固な鍛冶場も、傲慢な笑みを浮かべていた軍隊の大群も、彼らが誇った魔具の重装甲も。
まるで水面に浮かぶ薄い氷をカミソリで切り裂くように、一瞬で、鮮やかに、分断された。
一拍置いて、耳を劈くような大爆鳴が轟いた。
鋼鉄の建物が、自重を支えきれずに地滑りのように崩落していく。軍勢の半分以上が、自分が何をされたのかすら理解できぬまま、魂ごと消滅した。
街の中心を横切るように走る、深さ数メートルに及ぶ漆黒の「断絶」。
レベルという数字に胡坐をかき、弱者を踏みにじってきた強者たちは、その圧倒的な「死」を前にして、初めて自分がどれほど矮小で、脆い存在であったかを悟った。彼らの瞳に宿る光は、ただの恐怖に取って代わられた。
崩落する瓦礫の山から巻き上がる煤煙が、アルトの背後を不気味に飾る。
アルトはゆっくりと、折れた騎士の剣を踏み越えて歩き出した。
その足元で、最強の影が満足げに、血のように紅い瞳を妖しく輝かせている。
「影、次へ行こう。……王を、あの玉座から引きずり下ろすんだ」
かつての熱風は消え去り、今度は絶望の冷気が街を吹き抜ける。
Lv0の少年による、世界の理を壊す「侵攻」。
それは今、鋼鉄の国という巨大な礎を粉砕することから、決定的に幕を開けた。




