8-6《竜殺し》に捧ぐ憐みの賛歌(キリエ)
星の帳を震わせて、透きとおる歌声が地平線に響き渡る。
見渡すかぎり、菫の咲く丘だった。丘の頂には幾百もの墓標がならんでいる。杭を組んだだけの墓標に銃や剣が立て掛けてある。
かつてここでは戦争があった。そう遠くはない昔だ。繁栄せよとたからかに叫ばれて、どれほどの犠牲が積みあがったのか。争って、殺しあって、なにが得られたのか。
誇らかに咲き群れる紫菫と墓標の群に埋もれるようにして、竜が息絶えていた。
はなびらの鱗に覆われた竜だ。翼は蝶を模っており、薄紫を基調とした華やかな紋様が浮かびあがっていた。真横に伸びた角からは数えきれないほどの紫菫が咲き綻んでいた。死に絶えてもなお、麗しき竜だ。
銀糸の髪をなびかせた娘は竜に寄り添い、歌い続けていた。
娘が握るは細工の施された槍。竜の血潮にまみれた槍だ。娘は竜を殺すものだった。竜を殺して、その嘆きを終わらせる――故に、娘の賛歌はこんなにもやすらかに響くのだ。
娘は静寂を端からほどきながら、五線譜を織りなすように歌いあげる。
娘の歌に涙を流すように、星がひとつ。空の端からこぼれ落ちた。
風が吹き渡り、竜の鱗が舞いあがる。
花嵐だ。季節を終えた花が散るように竜は骸も残さずに還る。
「ねえ、メリュ」
歌が終わり、影に身を寄せていた青年が娘に声を掛けた。
メリュは緩やかに振りかえる。異郷の香りを漂わせた衣装のすそをふわりと風に躍らせて。彼女は微笑んでいたが、紫水晶のような瞳には傷ましいほどの嘆きを湛えていた。
「僕はおまえに殺されてはあげないよ」
脈絡もなく、彼はそういった。
娘に嘆きを訴え、死を望んだ竜の終焉を眺めながら。
「おまえが幾百、幾千の竜を殺そうとも」
黄昏の瞳がまるく満ちた。
「約束するよ。だっておまえは」
ラグスは息を飲んで、言葉をいったんとめた。
娘の頬にほろりと。
星のような雫がこぼれたからだ。
「あ」
涙だった。
傷つけられても、嘆きに焼かれても。
濡れることのなかった紫の瞳に、熱い雫が満ちていた。戸惑いながら頬に触れ、濡れていることを確かめると、メリュは唇を震わせた。
「違い、ます。その、かなしくは、なくて」
嬉しかった。嬉しかったのだ。胸にふわりと、やさしい熱がともるほどに。
それなのになぜ、いまになって、涙がこぼれるのか。
「潰えたものだとばかり、おもっていたのに」
ラグスは息をつき、メリュの下睫毛を濡らす涙に触れた。
ひとつ、ふたつとすくいあげながら、彼はなぐさめるように続ける。
「おまえは嫌だったはずだ。竜を殺すのが。ほんとうはずっと、嫌だったんだよ。けれども、それは、言葉にはできない望みだった。おまえだけだったからだ。竜の望みを遂げられるのは竜に愛され、竜を愛し続けてきたものだけだから」
せかいが竜を要らぬと決めたいま、竜の嘆きを終わらせられるものは彼女をおいて、他にはいなかった。それは、悲しいことだ。
「だからおまえは微笑んで、みずからの望みをひとつ、飲みくだしたんだ」
墓標もなく葬るように、といいかけて、彼はいやと言い換えた。
「他でもないおまえが、竜の墓標にして、棺なんだ」
どういうことかとメリュが視線を投げる。
「おまえのからだに刻まれた詞は竜の諱だよ。《輝く鉱脈の竜》も《青き豊穣の竜》もひとのつけた通称だ。けれどもこれは、竜が産まれたときにもっていた旧い詞だよ。名前は強い。そこには魂が残る。だから死後も竜の嘆きが残り、おまえを蝕むんだ」
「報い、ではなかったのですね」
メリュがぎゅと細い腕を巻きつけて、みずからのからだを抱き締めた。棺に蓋をするみたいに。けれども、ひとは墓標ではなく、棺でもない。死を収めるにはひとはか弱く、ちいさすぎる。それでも娘はそうあろうとした。愛する竜のために。
「僕が、おまえの望みを遂げてあげよう」
ひとに落ちた竜は、冴え冴えと微笑みかけた。
辰砂のような双眸が透きとおる。憐れむように。それゆえに愛おしむように。
「僕は、僕だけは、竜殺しにも殺せない竜になってやろう。そうすれば、おまえは、すこしばかりは報われるでしょう?」
メリュが声をあげて、勢いよく、ラグスに抱きついた。
胸に濡れた頬を埋めて、彼女は泣き続けた。
母親がわりの竜が息絶えたその時に潰えたはずの涙が、こんなにも熱くよみがえる。嘆きばかりが募るなかで流れたそれは、嘆きの涙ではなかった。それがどれほどに嬉しいことか。
吹き渡る風が、涙を巻きあげた。落ちた星をあるべきところに還すように。
かつて、ひとは竜とともにあった。
だが、ふたつの理は別たれてしまい、ふたたびに繋がることはない。
竜がいなくとも、せかいは変わらずに廻り続ける。竜の恩恵が絶え、竜の愛が潰えても。それが、とても、かなしいことだとも知らずに。
されどもいま、竜とともにある娘がいる。娘とともにいる竜がある。
それは、やすらかな報復であり。
細やかな、ともすればなぐさめのような祝福だった。
その祝福だけをよすがに。
娘は、これからも竜を殺し続けるだろう。敬愛と哀悼を槍に乗せて。
彼女が竜を愛するかぎり。竜が彼女を愛するかぎり。
彼女の踏んだ途には嘆きが積みあがり、水銀の涙が降りしきるだろう。
それでも道連れがいれば。ひとりの身にあまる嘆きでも、ともにわけあえるものがいれば。こころを壊さずに歩き続けることができる。
竜の黄昏を、彼女の愛がしめやかに終わらせるまで。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
ふたりの旅路はまだまだ続きますが、
これは「救い」に到る物語ではなく竜殺しの娘が「報われる」までの物語のため、
これにてひとまず舞台は幕を降ろします。
また新たな物語で皆様がたとお逢いできることを祈っております。
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