8-2《囀る収穫の竜》は壊れる
広場に到るまでの路地はひとに埋めつくされていた。
群衆はなんの騒ぎかと顔をつきあわせては、落ちてきた竜をみて、恐怖の絶叫をあげた。都は大混乱に陥る。それでも群衆が逃げださず、却って広場にひとが増え続けているのは聖騎士隊が竜を取りかこんでいるからだ。彼らは教会に揺るぎない信頼を寄せている。聖騎士隊ならば、邪悪なる竜を殺してくれるに違いないと。
竜はいまにも壊れそうなほどに嘆き、かん高い悲鳴をあげていた。
鍵盤から竪琴、喇叭まで。ありとあらゆる楽器を集めて、叩き壊していくような。それがほんとうは麗しき音楽を奏でるためのものだったということが、なによりもむごたらしい事実となりうる、崩壊の調べ。けれども、聴いているだけでも胸がひきしぼられるような竜の哀哭にも、誰もこころを傾けはしなかった。
竜の双眸から続ける涙のわけを考えもせず。
まして竜がその腕で抱き締めている、令嬢のことなど。
群衆のなかにはヌヴェル男爵がいた。
彼はいまにも命の灯を絶やしそうな実の娘をみて、ひどく動揺していた。だが令嬢の胸にあいた銃創からなにかを察し、すぐに素知らぬふりを決めこんだ。
人だかりから急いで離れていく鼠のような背とすれ違い、メリュは叫びたいきもちになったが、いまするべきことは親ともいえぬ親を責めることではないと振りきる。
竜はまさにいま、嘆きに落ちようとしているのだ。
戦争ではない。幾百の喪失でもなければ、火の群れたような憎悪でもなかった。たったひとりの命が奪われたというただそれだけを嘆いて、竜は壊れかけている。
竜が令嬢を愛していたことはもはや、疑いようもなかった。
竜にかばわれたおかげで、令嬢はかろうじてか細い息を繋いでいたが、瞳は昏く、光を喪いかけている。令嬢は震える指を伸ばして、竜の嘴に触れた。
「ごめんなさい」
わがままをいって。
「あなたのともだちになれて、幸せ、だったわ。ありがとう……」
令嬢の綺麗な手がちからを喪って、花が散るように地に落ちる。
ばちりとなにかが弾けた。
令嬢の魂が剥がれた音かとおもった。されどもそうではなかった。
竜の翼がぶわりと膨らみ、青い稲妻がほとばしる。噴水のまわりに植えられていた薔薇が一瞬にして燃えあがった。
尋常ではない竜の様子に、聖騎士隊は続々と毀竜の矢を放った。だが幾十の矢が刺さり、銀の血潮が流れだしても、竜は物ともしない。彼らの武器は竜を傷つけることはできても、殺すことはできないのだ。
天地が激しく瞬いた。
緞帳を裂き、青き稲妻が時計塔を貫いた。
竜の怒りだと誰からともなく叫んで、群衆がいっせいに逃げだす。
硬く絡みあっていたひとの壁が急激に崩れ、我さきに竜から遠ざかろうと殺到する。
竜に絡みつく電は、青から紫に変わっていた。竜は身震いをして、電の花をまき散らす。あれは、竜の涙だ。紫に瞬く涙が、石畳を焼き焦がす。
「《囀る収穫の竜》だ……」
老いた紳士が喉を震わせた。
群衆は逃げ惑いながら、棄てたはずの伝承を思いだしていたに違いない。
都を取りかこむ荒野に棲むのは雷電の竜だったと。
かつては、竜のもたらす稲妻が荒野に繁る麦に豊穣たる実りを授けてくれたのだ。戦争の時に麦は焼きつくされて、荒野には実りのない葦だけが残された。教会の時計塔がとがっているのは落雷から都を護り、それをもたらす竜を遠ざけるためだ。
怒涛のような人海を乗り越えて、メリュは竜のもとに進む。
貴族の群れは聖騎士隊の徽章を掲げた娘を振りかえり、縋りつくように声をあげた。
「ああ、聖騎士さま、竜がッ……どうか、竜を殺してください」
ごうと胸が焼けついた。身勝手な懇願に嫌悪が、湧きあがる。
彼らは無神経に騒ぎ続ける。「どうか救済を」「助けてくれ、竜に殺される」「竜を成敗して」「神の奇蹟をおみせください」「助けて」「神のご加護が」「竜の息の根をとめて」
喚きたくなる。竜はただ、嘆いているのだと。
されどもメリュは燃えあがる嘆きをかみ砕く。
これまでもずっと、そうだった。竜を殺してくれと縋りつかれるたびに彼女は激情を呑みこみ続けてきた。喉はとうに焼けただれている。それでも、はきだすことはできなかった。
彼女が竜を敬愛し、竜にこころを寄せるかぎり。
「――――……っ」
メリュは救済をもとめる腕を振りほどいて、前線に赴いた。竜を取りかこんでいた騎士隊は竜殺しの聖女の登場に道を拓く。メリュは静かに竜とむきあった。
「《囀る収穫の竜》よ――」
いつのまにか、月は暗雲に喰われていた。
暗い空を斬り裂いて、青紫の稲光が拡がる。麦に恵みをもたらしてきた雷がいまは嘆きのために振るわれようとしている。
それが竜の望みならば、構わない。いっそ構わないとメリュはおもった。
だがそうではない。
竜は、報復を望んでは、くれないのだ。
竜が望むことはひとつ。
項垂れていた頭をあげ、竜の視線がメリュの姿を捉える。黄金の眸は言葉もなく訴えてきた。
どうか、息の根をとめてくれないか――と。
「それでも……あなたが、嘆くのならば」
メリュは渇いた喉を震わせた。地にひきずりかけていた槍をもたげ、その矛さきを竜にむけようとして――どうしても、できなかった。
「……なんで……」
扱い慣れたはずの斧槍が、驚くほどに重かった。腕が折れていても、腹が裂けていても、胸が絶望に焼けついていても、その重さにだけは、たえられるはずだったのに。
竜を殺すのならば、いまだ。いまを逃がせば、どれだけのものが犠牲になるか。竜が如何ほどの嘆きに曝されることになるか。想像がつかないわけではないのに、腕が動かなかった。
ねえ、おまえはなんで竜を殺すんだ――懐かしい響きをともなった言葉が、ふと鼓膜に甦る。
彼女は、はっと竜の双眸を見返す。嘆きの涙に覆われた鏡のなかにはまだ、息絶えた令嬢の姿が映っていた。暖かさを残す細いからだを、竜はいまだに抱き締め続けている。
「あなたはまだ」
竜はかんぜんには壊れてはいないのだ。壊れそうになりながらもまだ。
槍を握り続けていた指を、ほんの数秒だけ緩めて、再度握りなおす。
メリュは竜の最後の望みを遂げているだけだ。
それは竜のためですらないと、彼女は常々考えている。竜のためというならば、もうちょっとくらいは、救いと希望があるべきだろう。
けれどもいま、なにかひとつだけ、かの竜のためにできることがあるとすれば。
「あなたはまだ、嘆きの焔に絡め取られてはいない……愛したひとのなきがらを連れて、どうか、お逃げなさい」
竜がぴくりと、翼の端を震わせた。
「退路はわたしが拓きます」
まわるように真後ろを振りかえり、メリュは竜に突きつけるはずだった槍を騎士隊にむけた。
竜殺しの聖女が敵にまわるとは想像だにしていなかったのか、騎士たちは驚愕している。
「彼女をどうか、美しいところに葬ってあげて」
竜が、羽搏いた。
凄まじい旋風が巻きあがる。
竜の腕にはしっかりと、息絶えた令嬢が抱えられていた。
「竜を捕らえろッ」
翼に蓄えられていた雷電がまき散らされ、竜のまわりに青い華が咲き誇った。雷の残滓が、放たれた矢を焼き落とす。毀竜の剣を掲げた騎士隊が竜に殺到するのを、メリュが槍を振りまわして食いとめた。
そのすきに竜は高く舞いあがった。
青い翼がたおやかにしなる。
雲に紛れ、遠ざかっていく竜を振り仰ぎ、メリュは張りつめていた唇の端をほどいた。救いでは、ない。救いではないけれど。
緩やかになぜおろされた肩を――ぱあんと。
銃弾が、貫いた。
血しぶきが散る。
「失望しましたよ、聖女さま」
騎士の隊列が割れ、銃を構えたミカウスが現れる。
「貴女はもっと敏い御方だと思っていたのですが」
燃えあがるような痛みが後からきた。
槍にしがみついて、メリュはなんとか崩れ落ちずにたえた。だがそれを嘲笑うように、続けて右脚、わき腹を撃たれた。あまりの激痛にメリュは地に跪き、項垂れる。
純白の鎧を纏った聖騎士は穏やかな表情を崩さず、涼やかにたたずんでいる。
彼は試していたのだ。彼女が竜とひとを秤にかけて、どちらを選択するのか。教会の掲げる正義に従えるのかどうか。いや、そんなに複雑なことではない、もっと単純に。扱いやすい、武器なのかどうか、だ。
「ざんねんながら、わたしはひどく、愚かだそうですよ」
ともに旅をした相棒いわく。
メリュは無理やりに頬をもちあげ、ミカウスを睨みつけた。
硝煙にふうと息を吹きかけ、彼は頽れた聖女をうっとりと見くだす。これまでとは真逆だ。
「ふむ、ほんとうに惜しい。貴女のことはそれなりに気にいっておりましたので。ですが、竜を逃がすような異教徒は、教会の戒律のもと、裁かねばなりません。捕縛し、機構協会にひき渡すといたしましょう。あらゆる拷問を施して、罪を濯いでくれるはずです」
嗜虐の微笑にぞくりと背筋が凍る。
「なぜ貴女だけが竜を殺すことができるのか。その謎が解明されれば、またひとつ、人類は大幅に躍進できる。人類の繁栄に貢献したとなれば、貴女の罪も許されるはずです。それまで貴女がひとのかたちをとどめていれば、の話ですが」
ミカウスは娘の腹に狙いをさだめ。
「懺悔は後ほど」
銃が吼えた。
メリュはなかば諦めながらも凄絶な微笑みを湛えて、さらなる痛みに構えた。だが予想していた衝撃はなかった。かわりに強い風が髪を巻きあげる。
驚いて仰瞻すれば、視界を覆いつくす黒き翼。
「竜……――」
娘を護るように。
おそろしく綺麗な竜が、舞い降りた。
お読みいただき、ありがとうございます。
続きは28日20時に投稿致します。
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