視界の広がるあの場所で - 38(完)
(何年、経ったんだろう)
ただ想うままにこの場所を訪れ、話しあい、悩んだ頃。
今の私は、あれから、ずいぶんと変わってしまった。
夫と子供の帰りを待ち、自分の仕事もこなさなきゃいけない、慌ただしい自分。
それを意識すると、けれど、ノスタルジーより先に。
……子供の顔と夕食の準備が、頭に浮かぶ。
「あっ、そうだ」
挨拶をすませたら、すぐに帰ろうかと想っていた。
ただ、せっかくこの場所に来たのだから、と考えなおす。
「子供用に一冊、なにか買っていってもいいですか」
手ぶらで帰るのも悪いと想い、お願いする。
夫に似たのか、子供は早くから本を読むことに興味を持ち始めていた。
「ええ、もちろんです」
彼女と共に、児童書のコーナーへ。
あまりこちらには来たことがないから、少し新鮮だった。
本棚に眼を通して、何冊か手にとり、めくっていく。
そのなかで、私の眼を惹いた本があった。
「あ、これ……懐かしいな」
一冊の、ちょっと古めかしいカバー。
私が子供の頃、学の家で一緒に読んだ、数少ない絵本の一つ。
「子供の頃、よく読んだな……」
二人の夫婦が、いろいろな危機を乗り越える話。
たまに頼りなくなる夫を、支える妻の活躍が、とてもかっこよく見えた。
――もう、夫の本棚に、この本はなかったと想う。
夫の本棚には、しばらく、会社で使う実用書ばかりが並んでいる。
だから私は、彼女に向かって、この本を差し出した。
「これ、貰えますか」
「……ふふっ」
すると、口元を押さえて、彼女は微笑んだ。
「あ、あれ、なにか可笑しいですか?」
どうして笑われたのか気になって、そう聞いてしまう。
「いえ、その……嬉しくて」
「嬉しい、ですか」
「ええ。その本を選んで、懐かしいと想っていただけたことが……とっても、嬉しいです」
彼女が浮かべる満面の笑みに、私のなかの疑問も息を潜めた。
この本を、彼女もとても好きなのだろう。
そう想うだけで、私も嬉しくなったからだった。
「じゃあ、この本を……私の子も、楽しんでくれるといいな」
「ええ。その続きは、もう、ここでは買えませんけれど……」
申し訳なさそうに、そう言う彼女。
「でも、続きが欲しいと言うなら、読ませますよ」
励ますように、自分に言い聞かせるように、私はそう口にする。
だって、本はまだ、ここにあるから。
この場所が、たとえなくなっても……いつか、また、巡りあえると信じたいから。
「それが、ここでなくても。……だって、読めないなんて、悲しいじゃないですか」
――彼女とまた、出会えたように。
本も人も、惹かれあうと信じたい。
「……そうですね。ぜひ、そうしていただけると、嬉しいです」
――そうして購入した、最後の本。
それを夫に見せ、複雑な笑みを浮かべた理由を聞いたのは、少し後のこと。
夫と、その本との出会いが、どこだったのか。
この時の私は、想像することもできなかった。
――唯一、懐かしそうに表紙を見つめる、彼女だけはわかっていたのだろうけれど。
「ありがとうございました」
彼女に会計をしてもらい、店を出る。
「すみません、見送ってもらって」
「いえ」
最後に、彼女の個人的な携帯番号を聞いて、登録する。
当時はまだ、こうして携帯の番号を交換するだなんて、想像もできなかった。
あと、まさか教えてもらえるとは想わなかったので、嬉しさを隠すのにも必死だった。
「あまり出れないかもしれませんけれど」
「こちらこそ、無理を言ってすみません」
想ったより、長い時間いたみたい。
空を見ると、紅い色が広がり始めていた。
忙しない私の背中に、彼女は、静かに言った。
「……お幸せに」
染み込むような、彼女の声。
私は、伝わるようにゆっくりと、その言葉に答える。
「はい。ずっと、あなたのおかげで……幸せです」
――彼女は、学だった夫と、どんな話をするのだろう。
でも私は、あえて、知ろうとは想わない。
それは、わたしが出会った憧れの人と……違う女性の、横顔だから。
「……また会う時は、違う場所で」
そう、別れ際に呟いて。
母として過ごす家へ、車を走らせる。
そして、車中で看板を見送りながら、自分の陰が薄れていくのを感じた。
――私は、前へ向かって、走り出す。
淡い少女時代の想いへ、別れを告げながら。




