初恋33
私が無事に“水上萌”となり、翔平君の妻としての毎日を楽しみ始めて一年と少しが過ぎた頃、私たち夫婦は新しい命を授かった。
翔平君と組んで進めていた自動販売機のデザインを納品し、ほっと落ち着いたと同時に判明したことに、私も翔平君も驚き、心から喜んだ。
妊娠中から元気に動いていた赤ちゃんは、奇跡的に“萌桃”がアマザンホテルで発売される日に生まれてきてくれた。
三千二百グラムの元気な男の子の産声に、翔平君は涙を流していた。
翔平君のご両親の切なる願いにより、出産は芸能人御用達の有名産婦人科で迎えた。
警備やマスコミ対策が万全な病院であれば、産後の入院中も孫の顔を見に来やすいと言われれば、断ることはできなかった。
身の丈に合っていない豪華な設備に恐縮しつつ、病院のロビーは以前翔平君がデザインしたと聞いて、その思わぬ縁を嬉しく思った。
翔平君のご両親は、私と翔平君が結婚したときのように、双方の事務所を通じて孫が誕生したことを公表し、合わせて息子夫婦への取材は自粛して欲しいとお願いしてくれた。
『こういうときに助けてもらえるからこそ、独立なんて考えられないのよね』
そう言ってにやりと笑う美乃里さんは、おばあさんとなっても相変わらず綺麗だ。
『翔平の成長は仕事のせいでなかなか見られなかったから、桃翔の成長はしつこいくらいに追いかけるって決めたわよ』
“萌桃”の発売日に生まれた奇跡にあやかってつけた“桃翔”という名前は家族からの評判もよくて私も気に入っている。
既に翔平君に似て男前に育ちそうな気配を漂わせながら、よく泣きよく眠り、そして母乳もよく飲んでくれる。
育児による睡眠不足はつらいけれど、実家で一か月を過ごして体力もどうにか回復し、翔平君と暮らす家へと戻って三か月が過ぎた。
そろそろ離乳食の勉強を始めようかと育児書を読むのもまた楽しい。
家族三人で送る生活のどの瞬間も幸せに震え、奇跡ってあるんだなと実感している。
長すぎる初恋を実らせて、家族が増えた。
今は産休中の仕事も、いずれ復帰して変わらず続けることができそうだ。
愛する人たちと歩む未来を思い描けばこれ以上の幸せはもうないと実感するけれど。
奇跡はそれだけでは終わらなかった。
“萌桃”の自動販売機のデザインが評価され、翔平君が以前獲った設計デザイン大賞の候補に私の名前が挙がったのだ。
ただ、受賞するであろうと言われている本命は私ではなく、翔平君の事務所で働いている女性だとも耳にしている。
『大賞獲るのは時の運』
飄々と笑い、私を励ますでも慰めるでもない別府所長の言葉に力は抜け、その『運』とやらにすべてお任せだ。
たとえ大賞受賞に至らずとも、候補に挙がっただけでこれからの励みになる。
ますます仕事で結果を出し、その名前を世間に知らしめている翔平君には追いつけないけれど、私も私なりに、同じ世界をこつこつと進んでいる。
翔平君に自慢してもらえる妻であり、同業者であり、そして。
恋人であり続けたいと思う。
腕の中で眠る桃翔をゆっくりと揺らしながら、その重さにほほ笑んでいると。
チャイムの音が部屋に響いた。
モニターを見れば、嬉しそうに表情を緩ませている翔平君の姿があった。
桃翔を抱っこするのを日々の楽しみにしているお父さんのお帰りだ。
いつもよりも早い帰宅に頬が緩んでしまうのは、私が今も翔平君に恋しているからで。
翔平君を迎えるために玄関に向かう途中、ときめいているのか胸の鼓動が大きく跳ねるのを感じる。
桃翔を抱っこしたまま、そっと玄関を開けて廊下の向こう側を見る。
エレベーターが開く音が聞こえたかと思うと、小走りに駆け寄ってくる翔平君の姿が見えた。
私に気付いて照れくさそうに笑うその顔と、腕の中ですやすや眠る愛しい息子の寝顔を交互に見ながら、この時間がずっと続けばいいのにと願う。
そして、気づくのだ。
切ない初恋が実れば、桃より甘い蜜な時間が待っていると。
【完】




