第2話 皇太子に愛された平民少女
第1話で、皇太子を破滅へ導いた平民少女メルティーナ。
今回は時間を少し遡り、彼女が何を失い、なぜ復讐を選んだのかを描きます。
同じ出来事を、今度はもう一人の少女の側から。
帝都の高級喫茶店は、午後の三時が一番混む。
メルティーナは硝子棚の前に立ち、焼き上がったばかりの菓子を指しながら、客の顔を順に見ていた。
結い上げたピンクブロンドの髪が、窓から差す光を受けて淡く色を変える。
陽が当たれば薔薇の花弁のような桃色、店の奥へ入れば柔らかな金。
客の中には、その髪の娘がいる店、と覚えて通ってくる者もいた。
「今日のは木苺です。奥様がこの前お気に召した杏のものより、少しだけ酸味が強くて」
「あら、強いのは苦手なのよ」
「でしたら、クリームを多めにお付けしますね。粉砂糖は控えめのほうがよろしいかと」
「それでいただこうかしら」
包みを渡し、釣り銭を数え、次の客へ笑いかける。
夕方になれば、店の奥の机で帳簿を開く。
売上と、受け取った代金と、仕入れの控え。
数字を三度追って、メルティーナは指を止めた。
「店長さん。一昨日の焼き菓子、十二箱と書いてありますけど、代金は十箱分です」
「ん? ああ、そうか。二箱は隣の花屋さんへ回したんだった」
「では、その分もここへ書いておきますね。月末に合わなくなりますから」
店長が感心したように唸る。
メルティーナは笑って羽根ペンを握り直した。
人の顔を見て、相手の望むものを差し出すのは得意だった。
数字を扱うのも好きだった。
両親の眠る故郷を離れた自分が、こうして帝都で働き、学び、自分の力で暮らしていける。
それが嬉しかった。
この頃のメルティーナは、笑うために何かを隠す必要などなかった。
◇
貴族の子女ばかりの学園に、平民の給費生は数えるほどしかいない。
第二皇子デービットが後援する特別給費制度。
学力で選抜される仕組みで、メルティーナはその試験を正面から通ってきた。
教科書の値段を聞いて青くなったこともある。
令息たちから「菓子屋の娘」と呼ばれて笑われたこともある。
そのたびに、笑い返して受け流した。
怒るより、そのほうが早く済む。
成績は首位を争うところにいる。
教師に当てられれば臆さず答えた。
それでも、学園にいる間は少し肩に力が入る。
話し方や歩き方には、いつもより気を遣っていた。
だから、授業を終えて門を出る時間が、一日で一番楽しみだった。
その日も、鉄門の外に彼が立っていた。
幼い頃から、同じ町で、ずっと一緒にいた青年。
飾り気のない上着。
休日に着る一張羅がそれしかない、と本人が笑っていた上着だ。
癖のある黒髪が、風で額に落ちている。
町にいた頃から、あの髪はいつも少し跳ねていた。
切っても三日で元に戻る、と本人は言い訳していたが、単に櫛を入れるのが面倒なだけだと、メルティーナは知っていた。
メルティーナは走り出しそうになるのを堪え、早足で近づいた。
走れば、学園の誰かに見られて何か言われる。
それが嫌なのではなく、この時間を誰にも邪魔されたくなかった。
「ポール!」
「おう、そんなに急がなくても逃げないって」
ポールは、昔と変わらない顔で笑った。
「メルティ」
その呼び方を聞いた瞬間、肩から力が抜ける。
彼だけが、昔からそう呼ぶ。
町で呼ばれていたときと同じ声で、同じ調子で。
学園の中で作っていたものが、全部いらなくなる。
「遅い。もっと早く来てよ」
「いや、俺が早く来たら、お前が授業中に窓の外ばっかり見るだろ」
「見ないってば」
そう言いながら、たぶん見る。
門の外でポールが待っていると思えば、授業中だって気になって仕方がない。
◇
歩きながら、ポールは新兵としての暮らしを話した。
朝が早いこと。
上官の癖。
同じ班の男が寝言で点呼を取ること。
不平は言うが、辞めたいとは一度も言わない。
「この前、行軍で最後まで隊列を崩さなかったの、俺ともう一人だけだった」
「すごいじゃない」
「まあな……でも、その一人に途中で荷物持ってもらってた」
「台無しだよ、それ」
メルティーナが笑うと、ポールも笑った。
自分の話もした。
帳簿の間違いを見つけたこと。
試験で満点を取ったのに、教師が「写したのでは」と言い出して、目の前で解き直して黙らせたこと。
「お前、そういうとこ昔から変わらないな」
「褒めてる?」
「褒めてる」
そんな他愛のないやり取りが、メルティーナには心地よかった。
「休暇が取れたら、今度は一緒に町へ帰ろう」
不意にそう言われて、メルティーナは頷いた。
両親の墓に、二人で花を供える。
そんな光景が、当たり前のように思い描けた。
そのあたりで、ポールが少し改まった。
足を止めて、上着の裾を意味もなく引っ張る。
彼が困ったときにする癖だった。
「あのさ、メルティ……一人前になったら、ちゃんと話したいことがある」
メルティーナは息を一つ吸った。
その先に何があるのか、本当は分かっている。
自分の答えも、もう決まっている。
けれど、こちらから言ってしまうのは、なんだか惜しかった。
ちゃんと、彼の口から聞きたかった。
「じゃあ、帰ってきたら聞く」
いつもの調子で返す。ポールが少しだけ安心したような顔をした。
「次の休暇、いつ?」
「三週間後。たぶん」
「たぶん、って何よ」
「軍って、そういうもんなんだよ」
じゃあまた、と手を振って別れた。
角を曲がる前に一度だけ振り返ると、彼はまだそこに立っていて、もう一度手を振った。
それが、いつもの別れ方だった。
◇
報せは、店の勝手口から届いた。
入隊時、帝都での連絡先として、ポールはこの店とメルティーナの名を届け出ていたらしい。
軍の使いだという男が、帽子を脱いで名前を確認し、書付を読み上げた。
訓練中の不慮の事故により死亡。
丁重に扱われ、殉職者として処遇される。
哀悼の意を表する。
メルティーナは、その文の意味が分からなかった。
言葉の一つ一つは分かる。
並べられると分からない。
ポール。
死亡。
その二つが、どうしても同じ文の中に入らない。
三週間後に休暇が来るはずだった。
三週間後に、彼が何か話すはずだった。
帰ってきたら聞く、と自分は答えた。
聞くはずだった言葉だけが、行き場をなくして残っている。
「……あの」
男を呼び止めようとして、何を聞けばいいのか分からなかった。
どの川ですか。
何時ですか。
誰が見ていましたか。
どれを聞いても、彼が帰ってくる話にはならない。
男は一礼して去った。
メルティーナは勝手口に立ったまま、手の中の書付を見ていた。
紙が少し湿っている。
自分の手が汗をかいていた。
その日から数日、学園を休んだ。
◇
帝都の軍施設の一室に、棺が置かれていた。
蓋は開けられていた。
ポールがいた。
顔にはほとんど傷がない。
眠っているように見える、と誰かが言った。
メルティーナは、そうは思わなかった。
眠っている彼を見たことはある。
町にいた頃、川辺で昼寝をして、蟻に噛まれて跳ね起きたことがある。
あのときの顔とは違う。
息をしていない顔は、眠っている顔とはまるで違うものだった。
黒髪だけが、いつもと同じように少し跳ねていた。
誰かが直そうとしたのか、櫛の跡が半端に残っている。
それがかえって、彼らしくなかった。
メルティーナは、彼の手に触れた。
冷たかった。
そして、握り返してこなかった。
それだけのことが、書付の文字よりもはっきりと、彼がもういないと告げた。
「……ポール」
呼んでも返事はない。
昔から、この呼び方をすれば必ず何か返してきた。
面倒くさそうな声でも、笑いながらでも、必ず。
額にかかった髪を、指で横へ流してやった。
生きていたら、やめろよ、と言って自分で崩したはずだった。
頬に手を添える。
そこも冷たい。
メルティーナは身を屈めた。
生きている間には、一度もしなかったことだった。
恋人ではなかったから。
まだその日ではないと思っていたから。
彼が帰ってきてから、きっと順番が来ると思っていたから。
最初で最後の口づけは、ただ冷たい感触だけを残した。
顔を上げて、しばらく棺の縁に手を置いていた。
泣き声は出さなかった。
廊下に人がいたからではない。
声を出すと、この時間が終わってしまう気がした。
遺体は後日、故郷へ送られることになった。
両親の墓のある土地へ。
彼も、あの町の風の中へ帰る。
それは正しい手配だと思った。
それでも、彼と一緒に帰るはずだった道を、彼だけが先に行くのだと思った。
◇
店の仕事を終えた夜、裏口に若い男が立っていた。
軍服ではない。
しかし立ち方で分かった。
「……メルティーナさん、ですか」
ポールの同期だという。
名乗ってから、彼はしばらく何も言えずにいた。
手が震えているのを隠そうとして、余計に目立っていた。
「俺が、助けられたやつです」
そこから先を、彼は途切れながら話した。
前の日から雨が降っていた。
川は水嵩を増して、色が変わっていた。
現場の教官は中止か延期を進言した。
水が引くまで待てば済む話だった。
だが、その日は視察があった。
「殿下が――皇太子殿下が、仰ったんです。実戦では天候など選べない、と」
訓練は強行された。
それだけではなく、渡河の際に張るはずだった安全のための索も、一部を外させたという。
軟弱だ、と。
「俺は、真ん中あたりで足を取られました。それから先はよく覚えていません。気がついたら岸にいて、ポールが……」
ポールは彼を助け、そのまま流された。
数刻後に、下流で見つかった。
「本当なら、死ぬのは俺だったんです」
青年はそう言って、頭を下げた。
長いこと下げたままだった。
メルティーナは、自分の中に何も湧いてこないのを感じていた。
この人を責めたい気持ちが、どこにもない。
ポールは、そういう人だった。
目の前で誰かが流されていて、見捨てるということが、あの人にはできない。
だから助けた。
彼が彼だったから、この人は生きている。
それを恨めるはずがない。
「顔を上げてください」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「あなたを助けたのは、ポールが選んだことでしょう。あの人がそうしたんだから、それでいいんです」
青年が顔を上げた。
目が赤かった。
そして、もう一つ告げた。
「報告書からは、消えています」
「……何がですか」
「皇太子殿下が訓練を強行なさったことです。教官が中止を進言したことも、索を外させたことも。全部、不慮の事故ということになっています。責められているのは現場の教官です」
メルティーナは、裏口の戸枠に手を置いた。
ポールは殉職者として扱われる。
名誉を汚されたわけではない。
弔いの言葉も、きちんと並べられる。
けれど、なぜあの日、あの川を渡らなければならなかったのか。
その一点だけが、どこにも残らない。
死んだ人を悼む言葉と、死なせた責任を問うことは、まったく別のものなのだと、このとき初めて知った。
胸の奥で、冷たいものが固まっていく音がした。
悲しみは、どこへも行かない。
ただ、その隣に、別の形をしたものが並んで座った。
◇
数日後、メルティーナは学園へ戻った。
教師の問いには今までどおり答えた。
令息たちのからかいは笑って受け流した。
店では客に菓子を勧め、帳簿を合わせた。
周りには、以前と同じ娘に見えているはずだった。
けれど、自分では分かっている。
以前は、嬉しいから笑っていた。
今は、ここは笑うところだと判断してから、笑っている。
接客で身につけた技術だった。
相手が何を望んでいるかを見て、それを差し出す。
菓子でも、言葉でも、表情でも同じことだ。
中庭で、金髪の令嬢とすれ違った。
皇太子の婚約者だという侯爵令嬢。
磨いた真鍮のような、艶のある金髪。
噂では、皇太子を心から慕っているらしい。
彼女が一瞬こちらを見た気がしたが、メルティーナは会釈をして通り過ぎた。
自分が何を抱えているかは、誰にも見えていない。
それでいい、と思った。
◇
春の終わり、宮廷の庭園で皇族主催の慈善行事が開かれた。
給費制度の成果を披露する場で、給費生の代表として登壇したのがメルティーナだった。
学業成績と応対の評価で選ばれた、正規の役目だった。
桃色がかった髪を一つに結い、簡素な礼装で壇に立つ。
貴族たちの前で、制度への感謝を述べた。
声は明るく、言葉に淀みはない。
原稿は持たなかった。
読み上げると、かえって言葉が遠くなる。
降壇したあとは、補助役として来賓の案内に回った。
盆を持って庭園を回るうち、老伯爵に呼び止められた。
菓子の話から店の話になり、伯爵が声を立てて笑った。
そのとき、少し離れた場所からこちらを見ている男がいた。
銀髪。
陽の下で、研いだ刃のように光っている。
その隣に、あの金髪の令嬢が立っていた。
皇太子シャールズ。
名前は知っていた。
顔も、行事で遠くから見たことがある。
だが、こんなに近くで見るのは初めてだった。
「平民にしては堂々としたものですな」
老伯爵が感心したように言う。
銀髪の男が頷き、声を上げた。
「――そこの給費生。こちらへ」
心臓が、一度だけ大きく打った。
メルティーナは驚いた顔を作り、礼を取って近づいた。
体の芯が冷えていくのが分かる。
それを、どこにも出さない。
この男だ。
この男が、待てと言われて待たなかった。
この男が、索を外させた。
この男のせいで、ポールは帰ってこなかった。
そう思いながら、彼女は笑顔で頭を下げた。
「皇太子殿下におかれましては」
「堅苦しい挨拶はいい。先ほどの話は自分で考えたのか」
「はい。原稿を読み上げると、かえって緊張してしまいますので」
「怖くはなかったか」
「怖かったです。でも、殿下まで難しいお顔をなさっていましたから。緊張しているのは私だけではないのだと、少し安心いたしました」
シャールズが一瞬、目を見張り、それから声を立てて笑った。
銀髪が陽を受けて揺れる。
「面白い娘だ。名は」
「メルティーナと申します」
笑っている自分の頬の動きを、メルティーナは他人のもののように感じていた。
店で客に向ける顔と同じだ。相手が望むものを差し出しているだけ。
礼を崩さず、呼ばれた給費生として受け答えを続ける。
胸の奥にあるものまで、この男に見せる必要はなかった。
少し離れた場所で、銀色がもう一つ動いた。
第二皇子デービット。
兄と同じ銀髪なのに、まるで違って見える。
皇太子の銀髪が刃なら、こちらは冬の月の色をしていた。
兄弟が何か短く言葉を交わし、金髪の令嬢を交えて何か話している。
メルティーナは次の来賓に呼ばれ、そちらへ回った。
何を話していたのかは聞こえなかった。
◇
行事の終わり近く。
軍務の高官たちがシャールズを囲み、話題が北方の訓練の様子に移った。
メルティーナは盆を持ち、彼のすぐ後ろで給仕をしていた。
金髪の令嬢は彼の隣にいた。
シャールズが杯を傾けながら、こう言った。
「そういえば北方の訓練で新兵が一人死んだそうだな。兵士なら訓練で死ぬこともある」
「は、誠に」
高官の一人が頭を下げた。
話題はすぐ次へ移った。
メルティーナは、盆を水平に保っていた。
杯を勧める笑顔も崩さなかった。
指先の力の入れ方すら変えなかった。
内側でだけ、いくつものものが同時に戻ってきた。
学園の門の外で手を振った上着。
風で額に落ちていた黒髪。
三週間後、と言った声。
帰ってきたら聞く、と答えた自分。
握り返してこなかった手。
頬の冷たさ。
唇の冷たさ。
この男にとって、それは「新兵が一人」だった。
名前を口にすることさえない。
知ろうともしない。
訓練で死ぬこともある、という一言で片づけて、次の話題へ移っていける。
自分の一生を丸ごと変えてしまった出来事が、この男にとっては、杯を傾ける合間の一言に過ぎない。
(――この男に、必ず報いを受けさせる)
盆の縁を握る指に、力を入れないよう気をつけた。
そのとき、金髪の令嬢がふとこちらを振り返った。
メルティーナは笑ったままでいた。
令嬢は何も言わず、扇を開いて次の来賓のほうを向いた。
◇
その夜、店の屋根裏の寝床で、メルティーナは天井を見ていた。
訴えることはできる。
同期の証言がある。
教官も知っている。
けれど、それを握り潰した側に訴えて、何になるだろう。
報告書から一行を消せる人間が相手だ。
平民の娘が声を上げたところで、書付が一枚増えて、どこかの棚で埃をかぶるだけだ。
今ある罪では、この男は裁けない。
ただ、一つだけ手に入ったものがある。
あの男は、自分に興味を持った。
自分は、人の望むものを見抜いて差し出すことができる。
菓子でも、言葉でも、表情でも。
ならば。
今ある罪で裁けないのなら、誰にも庇えない罪を、あの男自身に犯させればいい。
偽の書付を作るつもりはなかった。
ありもしない罪を着せるつもりもない。
そんなものを作れば、あの男は「騙された」と言って逃げる道を手に入れてしまう。
使うのは、嘘と、言葉と、笑顔だけ。
どうやってそこまで運ぶのかは、まだ分からない。
分からないまま、メルティーナは目を閉じた。
◇
それから、宮廷へ上がる機会が増えた。
皇族の行事の補助。
給費制度に関わる集まり。
慈善活動の手伝い。
学業と応対の評価があるから、選ばれる理由は説明がつく。
つくのだが、あまりに続いた。
そんなある晩、店の裏口に、また同期の青年が立っていた。
前に会ったときとは服装が違う。
仕立てのいい上着を着ていた。
「……ご無沙汰しています」
「その恰好は……?」
「第二皇子殿下のもとに置いていただいています」
あの事故を調べている皇子がいる、と彼は言った。
報告書から消えた部分を知る者として保護され、今は側仕えの一員に加えられているという。
「第二皇子殿下は、あなたのことも気にかけておられます」
「私の何を」
「……そこまでは、伺っていません」
青年は、皇太子の周辺で誰が何を言っているか、次にどんな行事があるか、そうしたことをいくつか置いていった。
何をしろとは一言も言わなかった。
「あなたに何かを頼みに来たわけではありません――ただ、俺は」
彼はそこで言葉を切った。
「ポールが死んだままで、何も変わらないのが、我慢できないだけです」
メルティーナは礼を言って、彼を帰した。
戸を閉めてから、暗い厨房でしばらく立っていた。
自分は、誰かの手のひらの上にいる。
第二皇子は、こちらの憎しみに気づいているのだろう。
そう考えれば、都合よく開き続ける道にも説明がつく。
利用されている、と思った。
それでも構わなかった。
この男が自分を使うのなら、自分もこの男が開けた道を使う。
それでよかった。
◇
シャールズが彼女を「メルティ」と呼び始めたのは、夏に入る前だった。
「メルティ。今日は菓子の話をしろ。宮廷の料理長より、お前の店のほうがましだと聞いたぞ」
その呼び名が彼の口から出た瞬間、喉の奥に酸が上がった。
ポールが呼んでいた名前だった。
町にいた頃から、あの人だけがそう呼んだ。
その響きを、この男が使う。
メルティーナは、頬を上げた。
嬉しそうに。
少し照れたように。
特別な呼び方をもらった娘が、そうするであろう通りに。
ポールに呼ばれたときは、何もしなくても顔がそうなった。
今は、自分で動かしている。
「殿下にそう呼んでいただけるなんて、お店の者に自慢できませんわ。信じてもらえませんもの」
「では今度、私が店へ行ってやろうか」
「それは困ります。皆が腰を抜かします」
シャールズが満足そうに笑った。
少なくとも、こちらの嫌悪に気づいているようには見えなかった。
近づくほどに、失った人の記憶が、少しずつ汚れていく気がした。
◇
近くで見るシャールズは、愚か者ではなかった。
話の要点を掴むのは早い。
数字を出されれば、足りない項目をすぐ指摘する。
人の顔色を読むこともできる。
だから、根も葉もない作り話を吹き込んでも通らない。
そういう相手ではない。
メルティーナが見つけた弱点は、別のところにあった。
この男は、待てない。
自分が不利になるかもしれない、という宙ぶらりんの状態に耐えられない。
誰かが決めるのを待つくらいなら、間違っていても自分から動きたがる。
ならば、こちらがすることは一つ。
嘘をつくのではなく、事実を置く。
そして、彼自身に結論を作らせる。
ある日の茶の席で、メルティーナは何気なく言った。
「第二皇子殿下を推す方が、以前より増えているようですね」
それだけだった。
評価も、心配も付け加えない。
シャールズの手が一瞬止まり、それから何でもないふうに茶を置いた。
「弟は帝位に興味がないと言っている」
「まあ。ご立派ですこと」
メルティーナは微笑んで、菓子の皿を勧めた。
種は、置くだけでいい。
水をやるのは、この男自身だ。
◇
給費生としての面談があった日、部屋を出ようとしたメルティーナを、デービットが呼び止めた。
メルティーナは扉の前で足を止め、振り返った。
銀髪の第二皇子は、書類から顔を上げ、こちらを見ていた。
こういう機会は、二度は来ないと思った。
「私が何をしようとしているか、ご存じですか?」
「君が何をするかまでは知らない」
「……止めないのですか?」
「止める理由があるか?」
デービットは、それ以上何も言わず、また書類へ目を落とした。
メルティーナは礼をして部屋を出た。
共謀ではない。
約束も交わしていない。
命じられてもいない。
少なくとも、デービットに自分を止めるつもりがないことだけは分かった。
◇
夏。
シャールズの疑いは、こちらが押さなくても育っていった。
「宰相の周りに、弟を持ち上げる者が増えていると思わないか?」
「殿下のご苦労を、皆様はご存じないのですね」
否定はしない。
慰めもする。
ただし、不安そのものは取り除かない。
すっかり安心させてしまえば、この男は動かない。
逆に、露骨に煽れば警戒される。
慰めながら、疑いだけを残す。
ある行事の合間、シャールズが皇帝の話をした。
近頃、軍務の報告に細かく口を出されるのだと。
「陛下は……以前ほど殿下を信頼なさっていないのでしょうか?」
メルティーナは、いかにも心配そうに、小さな声でそう言った。
断定はしない。疑問の形にしておく。
シャールズは黙り、それから頷いた。
そのまま、しばらく考え込んでいる。
少し離れた回廊から、金髪の令嬢がこちらを見ているのが視界の端に入った。
婚約者として、面白くはないだろう。
皇太子が平民の娘を傍に置いて、菓子の話や愚痴を聞かせているのだから。
メルティーナは、この令嬢のことが少し不思議だった。
なぜ、調べに来ないのだろう。
皇太子を慕っているなら、自分のような娘を追い払う方法はいくらでもあるはずだ。
けれど令嬢は、拗ねたような顔をして扇を開くだけで、それ以上は何もしなかった。
考えても仕方がないので、メルティーナは考えるのをやめた。
◇
秋の初め、皇帝が倒れた。
持病の発作だという。
寝所から出られなくなり、政務は宰相と皇太子が分担することになった。
皇太子として仕事を任されたのだから、少しは落ち着くかと思った。
しかし、逆だった。
シャールズは、病状の行方を気にした。
誰が寝所へ入ったかを気にした。
宰相が弟と何を話したかを気にした。
待つ時間が長くなるほど、この男は不安定になる。
「殿下ほどの方が、なぜ御自分の地位を他人に決められなければならないのでしょう?」
メルティーナは、あるとき静かにそう言った。
これも問いの形にしておいた。
シャールズは答えなかった。
答えないまま、目だけが動いていた。
◇
皇帝が倒れて七日目の早朝。
まだ暗いうちに、宮廷から使いが来た。
殿下がお呼びだ、と。
通された部屋で、シャールズは一人だった。
一晩眠っていない顔をしていた。
銀髪が乱れ、それを何度も掻き上げている。
「メルティ。父上は私を廃するおつもりかもしれん」
「まさか……そのようなこと」
「弟を立てようとする者が増えている。宰相も、軍務卿も、近頃は私の顔をまともに見ん」
彼は立ち上がり、窓辺へ行き、また戻ってきた。
「このまま待っていれば、手遅れになる。決められてからでは、何もできん」
メルティーナは、両手を前で重ねたまま、彼を見上げた。
胸の内は静かだった。
この男の中では、答えはもう半分出ている。
結論を選び、口にするのはシャールズ自身だ。
自分がするのは、出口の在り処を示すことだけ。
「皇帝になってしまえば、誰にも殿下を裁けません」
シャールズが、動きを止めた。
メルティーナはその横顔を見つめたまま、口を閉ざした。
もう、言葉を足す必要はなかった。
どこへ進むかを決めるのは、この男自身だった。
沈黙が長く続いた。
シャールズは彼女を見ていなかった。
どこも見ていなかった。
「……下がれ」
メルティーナは礼をして、部屋を出た。
扉が閉まる音を背中で聞いた。
長い廊下を歩き、衛兵に会釈をし、門を抜けて、宮城の外へ出た。
空が白み始めていた。
彼女にできることは、ここまでだった。
◇
店へ戻り、前掛けを締めて、いつものように仕込みを手伝った。
昼前に、通りが騒がしくなった。
客が持ち込んだ話は、次々に形を変えて広がっていった。
皇太子殿下が近衛の一部を動かし、宮城を封鎖したらしい。
メルティーナは、菓子を並べる手を止めなかった。
客に釣り銭を渡し、包みを結び、笑って見送った。
(本当に、やった)
胸の中で、それだけを思った。
喜びとも呼べない、奇妙に静かな感覚だった。
自分は、扉の前まで連れていった。
けれど、その扉を開けて、向こう側へ足を踏み出したのは、あの男自身だ。
これで、あの男は逃げられない。
――本当に、逃げられないだろうか。
もし、このまま宮城を押さえきってしまったら。
もし、病床の陛下が譲位を承知してしまったら。
そのときは、あの男は皇帝になる。
そうなれば、誰にもあの男を裁けない。
自分がそう言ったのだから。
メルティーナは、包装紙を折る手元を見つめていた。
ここから先は、自分の手の届くところにない。
◇
夕刻、また通りが騒がしくなった。
近衛の主力が中枢の門を破ったらしい。
ほどなくして、皇太子が捕らえられたとの声も広がった。
メルティーナは、店の表で箒を持ったまま、その話を聞いていた。
終わった。
そう理解した瞬間、体から力が抜けそうになって、箒の柄を握り直した。
その夜のうちに、店へ人が来た。
政変への関与を疑われている、と告げられた。
店長が何か言いかけたので、メルティーナは首を振った。
「ご迷惑をおかけしました。帳簿は、机の上に揃えてあります」
前掛けを外して畳み、椅子の背に掛けた。
それが、あの店でした最後の仕事になった。
◇
取り調べの部屋は、窓のない石の部屋だった。
尋問官が皇太子との関わりを一つずつ確かめていく。
行事での接触、呼ばれた回数、話した内容。
メルティーナは隠さなかった。
「騙しました」
尋問官の羽根ペンが止まった。
「……何と」
「皇太子殿下を騙しました。殿下がお喜びになる顔をして、お望みの言葉を差し上げました。私は殿下をお慕いしてなどおりません」
部屋がしばらく静かになった。
「確認する。皇太子殿下は御自身の署名で近衛を動かし、陛下に譲位を迫った。門前で『私こそ皇帝になるべきだ』と口にしたことにも、複数の証言がある」
尋問官は書類へ目を落とした。
「そのうえで聞く。お前は殿下に兵を動かすよう唆したのか」
「兵を動かせとは言っていません」
そこで一度、息を継いだ。
「ですが、殿下がそう考えるよう仕向けたことは否定しません」
尋問官が顔を上げた。
メルティーナは、まっすぐにその目を見返した。
自分がしたことから逃げるつもりはない。
けれど、あの男が自分で決めたことまで、こちらが引き受けてやるつもりもない。
それを引き受けてしまえば、あの男は「騙された男」になる。
それだけは、させない。
尋問官が書類をめくり、別の問いを重ねた。
「皇太子殿下の過去を告発した者がいる。軍費の処理と、三年前の事件について証拠が出ている。お前はそちらと連絡を取っていたか」
メルティーナは、初めて聞く話に戸惑った。
「三年前……いいえ。存じません。誰かと連絡など、取っておりません」
「本当だな」
「はい」
尋問官はそれ以上追及せず、書類を揃えた。
誰が証拠を出したのかは、教えられなかった。
連れられて地下へ降りながら、メルティーナはその一言を反芻していた。
証拠が提出されている。
三年前。
自分がしたのは、あの男に新しい罪を犯させることだけだ。
過去の帳簿や、三年前のことなど、調べたことも、調べる手段を持ったこともない。
(私以外にも、この男を追っていた誰かがいたの……?)
答えの出ないまま、鉄の扉が閉まった。
◇
牢は湿っていた。
石の床と、鉄格子。
座っていると、壁の冷たさが背中から入ってくる。
牢へ移されてから一日が過ぎた夜、灯りが近づいてきた。
格子の向こうに立ったのは、金髪の令嬢だった。
看守の灯りを受けて、その髪が磨いた真鍮のように光っている。
桃色がかった自分の髪と、格子を挟んで向かい合う形になった。
皇太子の婚約者。皇太子を心から慕っていたはずの人。
メルティーナは顔を上げた。
令嬢が口を開いた。
「あなたのおかげで、わたくしも兄の仇を討つことができました。お礼を申し上げます」
三年前の一件。証拠を提出した誰か。
(……この人だったのね)
そう考えれば、すべてが繋がるように思えた。
そして、この人も――兄の仇を討つために、あの男の傍にいたのだ。
あの嫉妬も、拗ねたような顔も、全部そうだったのか。
メルティーナは、表情を動かさなかった。
今さら驚いてみせる必要も、感心してみせる必要もない。
「勘違いしないで。私はあなたのためでも、お兄様のためでもないわ。私は、あの人の仇を取っただけ」
あの人、と言ったとき、胸の中にははっきりとポールがいた。
学園の門の外の上着。
風で額に落ちた黒髪。
メルティ、と呼ぶ声。
帰ってきたら聞く、と答えたあの日。
けれど、その名前は口に出さない。
この令嬢に教えるものではない。
誰にも渡すつもりはない。
「ええ。わたくしも、あなたのために復讐したわけではありませんもの」
令嬢はそう言って、少し黙った。
何を考えているのかは分からなかった。
分かろうとも思わなかった。
自分たちは同じことをしたわけではない。
この人は、自分とはまったく別のところで、あの男の過去を追っていたのだろう。
自分は、言葉と笑顔で、あの男が自分から一線を越えるよう仕向けた。
身分も、方法も、失ったものも違う。
似ているのは、ただ一点だけだ。
あの男を、どうしても許せなかったということ。
メルティーナは壁に頭を預け、目を閉じた。
足音が遠ざかっていった。
握手もしなかった。
名も呼び合わなかった。
慰めも、労いもなかった。
それでよかった。
◇
同じ夜、もう一度、灯りが近づいてきた。
今度は銀髪だった。
冬の月のような色の髪が、格子の外で止まる。
メルティーナは座ったまま彼を見上げ、それから言った。
「全部、利用なさったのでしょう?」
デービットは、言い訳をしなかった。
「利用した」
それだけだった。
自分も、あの令嬢も、そしてあの男が重ねた罪も、この男は目的のために使った。
使われた側が今こうして格子の内側にいて、使った側が外に立っている。
それでも、この男は逃げも隠れもせずに来た。
「ただし、私は君に復讐を命じてはいない。兄上に反逆を命じてもいない」
「そうですね」
「私は兄上が自分で選べる道を残しただけだ」
メルティーナは、少しだけ笑った。
それは、この男が自分のためにする説明だ。
使われたことを恨む気持ちがないわけではない。
けれど、あの男を憎んだのも、笑って近づいたのも、最後の一言を口にしたのも、全部自分が決めたことだった。
そこまで人のせいにはしない。
「殿下のために復讐したわけではありません」
「知っている」
しばらく、どちらも黙っていた。
やがてデービットが言った。
「君は裁きを受ける。それは変わらない。だが、死罪を避ける道はある。減刑、あるいは国外への追放。私が働きかけられる範囲でなら、動く」
「……どうして」
「君の助命を願っている者がいる」
誰か、とは聞かなかった。
本当なら死ぬのは俺だった、と震える手で頭を下げた青年の顔が浮かんだ。
まだ、あの青年はポールのことを背負っている。
メルティーナは、すぐには答えられなかった。
デービットも、答えを迫らなかった。
「……考えておきます」
そう言うのが精一杯だった。
銀髪が格子の前から消え、灯りが遠ざかった。
◇
一人になった。
石の床に座って、膝を抱える。
生きる道は示された。
願ってくれる人もいる。
何もないわけではない。
それなのに、その先の自分を、どうしても思い描けなかった。
国を出て、名前を変えて、どこかの町で菓子を焼いて、帳簿を合わせて、客に笑いかける。
その光景の中に、誰もいない。
学園の門の外に立つ上着がない。
メルティ、と呼ぶ声がない。
三週間後、と言って手を振る人がいない。
同じ故郷へ、あの人はもう先に帰ってしまった。
帰ってきたら聞く、と自分は言った。
けれど、帰ってこなかった。
だから、聞けなかった。
それだけのことが、どうしても越えられない。
メルティーナは、看守に頼んで紙と筆を借りた。
書くことは決まっていた。
私は騙された被害者ではありません。
自分の意思で、皇太子殿下を騙しました。
利用されたのではなく、私も利用しました。
誰かに命じられたのでもありません。
全部、私が選んだことです。
それだけを書いて、名を記した。
ポールのことは書かなかった。
あの人のことは、誰にも読ませるものではない。
裁きの記録に残るものでもない。
紙を折り、膝の上に置いた。
もう、迷いはなかった。
最後に思い出したのは、あの日の別れ際だった。
角を曲がる前に振り返ったら、まだそこに立っていて、もう一度手を振った。
それが、最後に見た彼だった。
メルティーナは、自分で選んだ最後を受け入れた。
その姿を思い浮かべたところで、意識が途切れた。
◇
次に目を開いたとき、石の壁はなかった。
冷たさもなかった。
どこまでも白い。
上も下も、境目が見えない。
その白の中で、黒い髪だけが、はっきりと目についた。
飾り気のない上着。
額に落ちた、少し跳ねた黒髪。
メルティーナは、動けなかった。
死ねば会えると思って、あれを選んだわけではない。
そんな期待はどこにもなかった。
ただ、その先が思い描けなかっただけだ。
だから、目の前にいるものが信じられなかった。
「……バカだなあ。何も死ぬことないのに」
その声だった。
面倒くさそうで、少し笑っていて、昔から何度も名前を呼んでくれた、あの声。
喉の奥が詰まった。
店でも、宮廷でも、牢でも出さなかったものが、堰を切った。
「……あなたがいないのに、これ以上生きていたくなかった」
ポールは、困ったような顔をした。
怒鳴りもしないし、責めもしない。
ただ、悲しそうだった。
「俺は、生きててほしかったよ」
メルティーナは首を振った。
そして、話した。
人を騙したこと。
憎い男に笑いかけたこと。
笑顔も言葉も、復讐のための武器にしたこと。
「だから、私はあなたと同じところには行けないと思う」
言ってしまってから、俯いた。
「でも……最後にあなたに会えて、嬉しい」
しばらく、返事がなかった。
顔を上げると、ポールが上着の裾を引っ張っていた。困ったときの、あの癖だった。
「じゃあ俺も一緒に行く」
「……え」
「お前が行くとこに行く」
「私、地獄かもしれないよ」
「だったら、そこまで付いていく」
ポールが、一歩近づいた。
「もう一人にしない」
そして、手を差し出した。
メルティーナは、その手を見た。
棺の中で触れた手を思い出した。
冷たくて、いくら握っても何も返ってこなかった手。
おそるおそる、指を伸ばす。
触れた。
そして、握り返された。
呼べば返事があり、握れば握り返してくる。
たったそれだけのことに、膝から力が抜けそうになった。
空いた手で、彼の額に落ちた黒髪を横へ流してやる。
やめろよ、と彼が笑って、自分でそれを崩した。
失われたものが戻ったわけではない。
三週間後の休暇も、二人で帰るはずだった故郷も、これから重ねるはずだった年月も、全部どこかへ行ったままだ。
それでも、今は、握った手が温かい。
メルティーナは、涙を拭って顔を上げた。
どうしても聞いておきたいことが、一つだけ残っていた。
「……あの日、帰ってきたら何を言うつもりだったの?」
「今さら聞く?」
「今だから聞くの」
ポールが、少し照れたように目を逸らした。
それから、観念したように言った。
「結婚してほしいって言うつもりだった」
メルティーナは、泣きながら笑った。
「……遅いよ、馬鹿」
手を引かれて、歩き出す。
白い場所に、道があるのかどうかも分からない。
その先が天国なのか、そうでないのかも分からない。
ただ、今度は一人ではなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
別々の理由で、別々の方法を選んだ二人の復讐が、同じ皇太子のもとで重なる物語でした。
ルイーズとデービット、メルティーナとポール――それぞれの結末まで楽しんでいただけましたら幸いです。




