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第1話 皇太子を愛する侯爵令嬢

皇太子を心から愛しているように見える侯爵令嬢ルイーズ。


けれど、その笑顔の裏には、三年前から抱え続けてきた秘密がありました。


一人の令嬢が、長い時間をかけて積み上げた復讐のお話です。

 シャンデリアの光が、磨き上げられた床に幾重にも落ちていた。

 皇宮の大広間には楽の音が流れ、色とりどりのドレスが緩やかに揺れている。


 その中央に近い場所で、ルイーズ・ブランフォードは皇太子シャールズの腕に手を添えていた。


 シャールズの銀髪が、シャンデリアの光を受けて硬質に輝いている。

 研いだ刃のような、艶のある銀だった。

 その隣で、ルイーズの金髪は蜂蜜を溶かしたように柔らかく光る。


 銀と金。


 宮廷の画家が何度も描きたがった組み合わせだった。


「今日も綺麗だ、ルイーズ」


 シャールズが囁くように言う。

 ルイーズは金色の髪を揺らして小さく俯き、頬を染めた。


「殿下ったら。皆様が見ておりますのに」

「見せているのだ。私の婚約者がどれほど美しいか」


 碧い瞳を上げ、はにかんだ笑みを返す。

 周囲の貴婦人たちが扇の陰で囁き合うのが分かった。


 皇太子妃となる日を待ち望む、幸せな侯爵令嬢。

 誰の目にもそう映るように、ルイーズは自分の表情を整えていた。


 視線だけは、シャールズの肩越しに広間を巡っている。


 軍装の男が一人、こちらへ近づいてきた。

 北部方面軍の参謀官だ。

 儀礼の挨拶を述べたあと、男は報告書を差し出した。


「殿下、北部駐屯地の補給台帳の件ですが、軍務卿が改めて確認を――と」


 シャールズは報告書を受け取り、数頁めくった。

 並んだ数字を一瞥すると、眉をわずかに寄せる。


「数字だけ持ってくるな。前年の備蓄残と輸送費も並べろ。そうでなければ増額が妥当かどうか判断できん」

「は、申し訳ございません」

「後にしろ。今は夜会だ」

「失礼いたしました」


 参謀官が下がる。

 シャールズはすぐにルイーズへ笑顔を向け直した。


「退屈だろう。踊ろうか」

「嬉しゅうございます」


 ルイーズは差し出された手を取り、微笑んだ。


 北部駐屯地の補給台帳。

 資料の不足を一目で見抜きながら、その話を夜会だからと後回しにしたことを、彼女は記憶の帳面に一行書き足した。


 ――お兄様が死んで、三年。


 三年前、兄フィリップは「任務中の事故」で命を落とした。


 ルイーズは、その死が事故ではなかったのではないかと疑っている。

 目の前で優雅にステップを踏むこの銀髪の男が、兄を殺させたのではないかと。


 しかし、まだ確かめられてはいない。


 だから笑う。

 今夜も、明日も。


 ◇


 兄は、正しい人だった。


 ルイーズが十五歳の年、フィリップは二十二歳で、皇太子付きの若手軍人として皇宮に詰めていた。


 真面目で、不正を見れば見過ごせない性分で、妹の目にはそれが少し危なっかしくもあり、誇らしくもあった。


 だが、ある頃から兄の様子が少しずつ変わり始めた。


 夜遅くまで書斎に籠もり、休暇で屋敷に戻っても食卓で口数が少なかった。

 ルイーズが心配して尋ねると、兄は困ったように笑った。


「少し厄介なものを見つけただけだ。片づいたら話すよ」


 それが、家族が聞いた最後の説明だった。


 半月後、兄は任務中の事故で死んだ。

 演習地への移動中、崖道で馬車が転落したと伝えられた。


 遺体は丁重に運ばれ、殉職者として皇太子直々の弔辞まで賜った。


 あまりにも突然だった。


 そして、フィリップは亡くなる少し前から何かを調べていた。


 少なくともルイーズは、強い違和感を抱いていた。


 事故の報告書が届いたのは、翌朝だった。

 あまりに早い。

 現場の検分も、随行者の聴取も、たった一夜で終わっている。


 遺品の中に兄の手帳があった。

 几帳面な兄は毎日のことを書き留めていたのに、最後の一月分の頁だけが刃物で切り取られていた。


 兄が「厄介なもの」と言った何かが、兄と一緒に消えている。


 十五歳のルイーズは、その夜、決めた。


 皇太子から離れるのではない。

 近づく。誰よりも近くへ。


 父に告げたとき、父は長いあいだ黙っていた。

 父もまた、息子の死に納得していなかったのだとルイーズは知った。


「駄目だ」


 最初の答えはそれだった。


「相手は皇太子だ。お前まで失うわけにはいかん」

「では、お兄様は事故で死んだのだと、そうお思いになりますの?」


 父は答えなかった。


 暖炉の火が爆ぜる音だけが響いた。


 ずいぶん経ってから、父は絞り出すように言った。


「……やるなら、絶対に一人で動くな。何かをする前に、必ず私に一言だけ告げろ。中身は聞かん」

「はい、お父様」


 それが、父との唯一の約束になった。


 ◇


 シャールズとの婚約が調ったのは、兄の死から一年足らずのことだった。


 侯爵家の家格と、皇太子が妹の哀しみに寄り添ったという美談。


 それを整えるのに、ルイーズは十五歳の少女ができる限りの努力をした。

 婚約が調うまで、皇太子の前でだけ声が小さくなる令嬢を演じた。


 婚約から、二年余り。


 ルイーズは皇太子妃候補として皇宮に部屋を与えられ、シャールズの日常に触れる立場を得た。


 最初に追ったのは、兄が死ぬ直前に何を見ていたかだった。


 夜会で参謀官が口にした補給台帳。

 北部駐屯地では三年前から、冬季用の被服と燃料の調達額が前年の倍近くに跳ね上がっていた。

 だが駐屯地の兵員数は変わっていない。


 その台帳を管理していた経理官は、兄の死の翌月に南の辺境へ異動していた。


 栄転ではない。

 降格に等しい配置だった。


 異動した経理官の後任は、皇太子の縁戚だった。


 兄の随行者だった従卒は、事故直後には「馬が急に暴れた」と証言していたのに、半年後の再聴取では「崖の路肩が崩れていた」と言葉を変えていた。


 兄が最後の休暇で会っていたのは、退役した老軍医だった。

 兄はその老人に、軍の会計に詳しい者を紹介してほしいと頼んでいた。


 一つ一つは、それだけなら何の証拠にもならない。


 しかし並べていくと、輪郭が見えてくる。


 兄は軍費の私的流用に気づき、告発しようとしていたのではないか。

 そして、そのために死んだのではないか。


「シャールズ様、今日はお疲れのご様子ですわ。お茶を淹れさせてくださいませ」

「気が利くな、ルイーズ」


 昼間、ルイーズはそう言って微笑む。

 夜、蝋燭の下で経理の写しを照合する。


 もし、この疑いが正しかったとしても。

 たとえ皇太子妃という立場を得たとしても、正しいと叫ぶだけでは殺される。


 だから、ルイーズは叫ばない。

 証拠が揃うまで。逃げ道をすべて塞ぐまで。

 愛する婚約者を、演じ続ける。


 ◇


 妙なことが起こり始めたのは、婚約から一年半が過ぎた頃だった。


 三年前の北部駐屯地の物資受領簿。

 それは廃棄済みだと聞かされていた。

 ところが軍務省の書庫を訪ねたとき、係官は何の疑いもなくその綴りを持ってきた。


「保存期限が延長されておりましたので」


 誰が延長したのか、係官は知らなかった。


 次は人だった。

 南へ飛ばされた経理官は、辺境からさらに転属し、行方が知れなくなっていた。


 それが、帝都の慈善病院へ慰問に訪れた折、患者名簿の中にその名を見つけた。

 看護の記録には、匿名の篤志家による治療費の負担と記されていた。


 三度目は資料だった。

 皇太子直轄の軍務記録は、皇太子妃候補といえど閲覧できない。

 ルイーズはそれを承知で申請を出し、断られるつもりでいた。


 許可は三日で下りた。

 理由は「皇太子妃候補としての政務教育のため」とだけあった。


 一度なら偶然。

 二度なら幸運。

 三度目に閲覧室で綴りを開いたとき、ルイーズは頁をめくる手を止めた。


(誰かが、わたくしに調べさせている)


 自分の調査を知り、しかし止めるのではなく、道を開いている者がいる。


 証拠を作っているのではない。

 本物の証拠のある場所へ、通路を作っているだけだ。


 それは誰か。


 ルイーズは思考の中で、いくつかの顔を並べ、ひとつも消せなかった。


 ◇


 学園の中庭を横切るとき、いつも目に入る少女がいた。


 特別給費生のメルティーナ。


 貴族の子女ばかりの学園で、その髪は一目で分かった。


 ピンクブロンド――淡い薔薇の花弁を溶かしたような、柔らかな金色。

 陽の下では桃色が勝ち、回廊の陰では金が勝つ。


 ルイーズの金髪が磨いた真鍮なら、あの娘の髪は朝焼けだった。


 成績は首位を争うほどだった。

 教師に当てられれば臆さず答え、貴族の令息にからかわれても笑って受け流す。

 目立たないほうが難しい娘だった。


 以前、ルイーズは何度か、学園の門の外で彼女を見かけたことがある。


 迎えに来ているらしい若い男が一人いた。

 飾り気のない上着の、平民の青年。


 メルティーナはその青年を見つけると、走り出しそうなのを堪えるように早足になって、笑いながら何かを話しかけていた。


 恋人だろうか。

 ルイーズが思ったのは、その程度だった。

 他人の恋路に興味を持つ余裕はなかった。


 ところが数か月前から、青年の姿を見なくなった。

 同じ頃、メルティーナが数日、学園を休んだ。


 復学した彼女は、以前と同じように笑っていた。

 同じように答え、同じように受け流していた。


 それなのに。


 中庭ですれ違ったとき、ルイーズは足を止めかけた。


(……何か、変わりましたわね)


 どこが、とは言えなかった。

 笑い方も声も変わらない。

 ただ、笑っている顔の奥に、以前はなかった静かな部屋があるような気がした。


 ルイーズはそれ以上考えなかった。

 自分にも、誰にも見せていない部屋があるからだった。


 ◇


 春の終わり、皇族主催の慈善行事が宮廷の庭園で開かれた。


 平民向け特別給費制度の成果を披露する場でもあり、給費生の代表として登壇したのがメルティーナだった。


 淡い桃色の髪を一つに結い、簡素な礼装で、彼女は貴族たちの前に立って給費制度への感謝を述べた。


 声は明るく、言葉に淀みがない。


 降壇した彼女は、行事の補助役として来賓の案内に回った。


「ほう」


 シャールズが呟いた。

 ルイーズは隣で、その視線の先を辿った。


 メルティーナが来賓の老伯爵に何か言われ、笑いながら答えている。

 老伯爵が声を立てて笑った。


「平民にしては堂々としたものですな」


 老伯爵が感心したように言った。

 シャールズがそれに頷き、声を上げる。


「――そこの給費生。こちらへ」


 呼ばれたメルティーナは、驚いた顔をしてから礼を取り、近づいてきた。


「皇太子殿下におかれましては」

「堅苦しい挨拶はいい。先ほどの話は自分で考えたのか」

「はい。原稿を読み上げると、かえって緊張してしまいますので」

「怖くはなかったか」

「怖かったです。でも、殿下まで難しいお顔をなさっていましたから。緊張しているのは私だけではないのだと、少し安心いたしました」


 シャールズが一瞬、目を見張り、それから声を立てて笑った。

 陽を浴びた銀髪が揺れる。


「面白い娘だ。名は」

「メルティーナと申します」


 ルイーズは、その会話を一歩下がった場所で聞いていた。


 シャールズが満足そうに何かを言い、メルティーナが恐縮したように笑い返す。


 ルイーズはほんの一瞬、目を伏せた。

 長い睫毛が影を落とし、扇を持つ手がわずかに下がる。


 シャールズがそれに気づいて、機嫌よく肩を叩いた。


「妬くな、ルイーズ。給費生と話しただけだ」

「……いいえ、そのような」


 小さく首を振る。それだけでよかった。


(どうぞ、お好きになさってくださいませ)


 ルイーズは、胸の内でだけ笑った。


 シャールズの関心が他へ向くなら、自分への注意はそれだけ薄くなる。

 夜に閲覧室へ通う回数が一度増えるだけでも、ありがたい。


 そのとき、庭園の向こうから、もう一つの銀色が近づいてきた。


 第二皇子デービット。


 兄と同じ銀髪。

 だが陽の下で並ぶと、同じ色には見えなかった。


 シャールズの銀が研ぎ澄まされた刃なら、デービットのそれは冬の月光だった。

 輝くのではなく、静かに冷えている。


 側室腹とはいえ皇帝の血を引く貴公子の顔立ちで、しかし兄と違って笑みは薄い。


「兄上。ルイーズ嬢」

「デービット。お前の給費生が兄を笑わせてくれたぞ」

「それは何よりです」


 シャールズが来賓に呼ばれて離れると、デービットがルイーズの隣に残った。

 二人で、来賓の間を回るメルティーナの後ろ姿を見る。


「優秀な生徒だろう?」

「殿下の給費制度で選ばれた方でしたわね」

「ああ。あの娘自身の実力だ」


 それだけ言って、デービットは軽く一礼し、別の来賓のほうへ歩いていった。


 ルイーズはその月色の背中を、少しだけ長く見送った。


 後援者が、自分の制度の生徒を誇る。

 それだけの会話だった。


 行事の終わり近く、シャールズの周りに軍務の高官が集まり、話題が北方の訓練の様子に移った。


 ルイーズは婚約者として隣に控え、給仕についていたメルティーナはすぐ後ろで盆を持っていた。


「そういえば北方の訓練で新兵が一人死んだそうだな。兵士なら訓練で死ぬこともある」


 シャールズは杯を傾けながら、そう言った。


「は、誠に」


 高官の一人が頭を下げた。

 話題はすぐ次へ移った。


 ルイーズはふと、後ろのメルティーナを見た。


 彼女は笑っていた。

 盆を水平に保ったまま、来賓に杯を勧める笑顔を崩していない。


 それが何故か、ルイーズの胸に小さな引っかかりを残した。

 何に引っかかったのかは分からなかった。


 次の来賓がやって来て、ルイーズは扇を開き、微笑んだ。


 ◇


 それから、シャールズがメルティーナと会う機会は目に見えて増えた。


 皇族の行事、宮廷の給費生関連の集まり、慈善活動の視察。


 メルティーナは給費生代表として、あるいは補助役として、自然にそこにいた。

 シャールズは彼女を見つけると必ず声をかけた。


 やがてシャールズは彼女を「メルティ」と呼ぶようになった。


「メルティは平民のくせに肝が据わっている。うちの侍従より余程ましだ」


 そんな話を、シャールズはルイーズにも平然と聞かせた。

 ルイーズは紅茶のカップを置き、少し拗ねた声を作った。


「最近、メルティーナさんのお話ばかりなさいますのね」

「なんだ、妬いているのか」

「……いいえ。ただ、殿下がお楽しそうで」

「お前も来ればいい。あの娘は面白い」

「ええ、いつか」


 微笑む。

 それでシャールズは満足する。


 その頃、調査は終わりに近づいていた。


 療養中の元経理官が、証言してもよいと言った。


 三年前、皇太子の名で北部駐屯地の物資を発注し、実際には届けない架空の取引が行われていたこと。

 その差額が、皇太子直轄の別会計へ流れていたこと。

 そして、その別会計から皇太子個人の支出へ資金が繰り返し振り替えられていたこと。


 老軍医は、証言後の身の安全が確保されるまで、預かっていた文書を渡そうとしなかった。


 ようやくその手筈が整い、ルイーズに一通の文書を差し出した。


 兄が軍務卿へ提出するために作成し、万一に備えて老軍医へ預けていた告発状の写しだった。

 日付は、兄が死ぬ三日前。


 告発状には、兄が翌週、軍務卿へ直接面会を求める旨が記されていた。


 命令書の日付は、告発状が作成された翌日だった。

 兄が死ぬ二日前に、予定外の任務が命じられていた。

 命令書の綴りは、廃棄を免れて軍務省の書庫に残っていた。


 ルイーズが手元に置いたのは正式な写しだった。

 急な変更の署名は、シャールズのものだった。


 さらに、軍務省に残っていた検分記録の控えには、馬車に人為的な細工の痕跡があったと記されていた。

 正式な報告書からは、その記述だけが消えている。


 兄に同行し、唯一生き残った従卒も、ようやく口を開いた。


 事故直後には「馬が突然暴れた」と証言していたが、それは皇太子側の人間から、最初は「馬が暴れた」、後には「路肩が崩れた」と証言するよう命じられてのことだったという。


 誰の指示だったのかまでは知らないと言うが、命じられて証言を変えたことだけは認めた。


 夜、皇宮の自室で、ルイーズは机の上に全てを並べた。


 台帳。

 証言。

 告発状。

 命令書の写し。

 検分記録の控え。

 従卒の供述。


 兄は事故で死んだのではない。

 兄は、正しいことをしようとして殺された。


 三年前から胸の底にあった疑いが、この夜、確信に変わった。


 ルイーズは長いあいだ、机の前に座っていた。

 それから蝋燭の火を見つめたまま、声を出さずに泣いた。


 頬を伝ったものを拭い、綴りを鍵のかかる箱に戻し、灯りを消した。


 翌朝、彼女はシャールズの朝食の席に、いつもの笑顔で現れた。


 後日、侯爵邸へ戻る機会に箱も持ち帰った。


 これだけは、皇宮に残しておけなかった。


 ◇


 証拠は揃った。

 それでも、ルイーズはまだ動かなかった。


 相手は皇太子で、皇帝の息子だ。

 軍費の流用も、証人の口封じも、皇帝が「若気の過ち」と言えば、そこで止まる。


 兄の死にしても、命令書の署名は「任務の指示」であり、崖から馬車を落とした手の証拠ではない。


 兄は、正しいことを正面から告発しようとして殺された。

 ならば、自分は同じやり方をしてはいけない。


 証拠を掲げて訴えるだけでは足りない。

 握り潰すことも、庇うこともできないほど、相手の逃げ道を塞いでから動く。


(あと一つ)


 ルイーズは窓の外の夕焼けを見ながら、思った。


(陛下でさえ庇えないほど、殿下ご自身が大きな罪を犯してくだされば)


 しかし、その罪まで自分の手で作り出すつもりはなかった。


 偽りの証拠を用意するつもりも、皇太子を罠に嵌めて、犯してもいない罪を着せるつもりもない。


 ルイーズが望んでいるのは、シャールズ自身が犯した罪によって裁かれることだった。

 待つ。


 二年余り待った女には、それができた。


 ◇


 シャールズが変わり始めたのは、夏に入ってからだった。


「最近、弟を持ち上げる者が増えたと思わないか?」


 ある夜、シャールズが唐突に言った。

 ルイーズは刺繍の針を止めた。


「デービット殿下を、ですか?」

「宰相の周りだ。あいつは帝位に興味がないと言っているが、興味がない者の周りに人は集まらん」

「殿下は皇太子であらせられますわ」

「……父上は私を疑っているのではないか」


 その言葉に、ルイーズは針を置いた。


「陛下が?」

「近頃、私の軍務の報告に細かく口を出す。以前はそんなことはなかった」

「陛下がご様子をお尋ねになるのは、いつものことではございませんの」

「確かめてからでは遅い。父上が決めてしまってからでは、何もかも手遅れだ」


 以前のシャールズなら、一笑に付した話だった。

 誰かが皇太子の悪口を言えば怒り、弟の名が出れば鼻で笑った。


 それが今は、疑いの種を自分から拾い上げている。

 銀髪を掻き上げる回数が増えたことに、ルイーズは気づいていた。


 そしてもう一つ。


 シャールズの機嫌が良くなるのは、メルティーナが傍にいるときだけだった。


 ある行事で、メルティーナがシャールズの少し後ろに控えていた。


 シャールズが何か言い、メルティーナが柔らかく笑って何かを答える。

 シャールズが頷き、それから急に口を結んで考え込む。

 その横顔は、宮廷の誰かの言葉を反芻しているようだった。


 ルイーズは離れた場所で、その様子を見ていた。


(あの娘、いったい何を吹き込んでおりますの?)


 初めて、メルティーナという娘に疑問を抱いた。


 平民の給費生が、皇太子の耳元で何を囁くのか。

 皇太子はなぜ、それを聞くのか。


 調べようと思えば、調べられた。

 二年余り、皇宮の裏側を歩き回った女には、平民の娘の身辺を探ることなど難しくもない。


 あるいは、シャールズに警告することもできた。

「あの方のお言葉を、あまりお気になさらないほうが」と、婚約者の立場で言えば済むことだった。


 だが、ルイーズはどちらもしなかった。


 夕暮れの回廊で、彼女は立ち止まり、庭の向こうで笑っている桃色の髪を見た。


(あの娘が何を考えているのかは分からない)


 風がルイーズの金髪を揺らした。


(ですが、殿下にとって良くないことをしているのなら――わたくしが止める理由もございませんわね)


 そう決めて、ルイーズは回廊を歩き出した。


 止めない。

 調べない。

 警告しない。


 皇太子を守る婚約者の役目まで、演じてやるつもりはなかった。

 それは、ルイーズ自身の選択だった。


 ◇


 皇帝が倒れたのは、秋の初めだった。

 持病の発作で、寝所から出られなくなった。


 政務は宰相と皇太子が分担し、宮廷は静かに緊張した。


 その七日目の朝。


 ルイーズは侯爵邸に戻っていた。

 父に「一言告げる」ためだった。


 証拠が揃ったこと、しかし、まだ出す時ではないこと。


 父は頷き、中身は聞かなかった。


 話を終えた直後、皇宮から侯爵家の家臣が息を切らして戻ってきた。


「宮城が、封鎖されております」

「誰が」

「皇太子殿下が。近衛の一部が中枢の門を閉じ、陛下の寝所のある棟へ他の者を通しておりません。殿下が直々に、命令書へ署名なさったと」


 父が立ち上がった。

 ルイーズは座ったままだった。


「殿下は、何を……?」

「陛下に、譲位を求めておいでだと……門の前で、殿下が仰ったそうです。『私こそ皇帝になるべきだ』と」


 沈黙が落ちた。


 ルイーズは、卓の上の紅茶をしばらく見ていた。

 やがて、ゆっくりと息を吐いた。


「…………何をしていますの、あの方」


 それは本心だった。


 二年余り。

 誰にも気づかれぬよう、一枚の写しを取るのに三月をかけ、一人の証人を見つけるのに半年をかけた。


 細心の注意を払って、皇太子の過去を積み上げてきた。


 その皇太子が、たった一夜で、自分から国家反逆という最大の罪を足した。


 呆れて、ものが言えなかった。


 だが、それは一瞬だった。


 ルイーズは立ち上がった。


(ですが――これ以上の機会はございませんわ)


「お父様」

「言え」

「今から、宮城の外郭へ参ります。証拠を出します」


 父はルイーズを見た。

 それから、家臣に向かって言った。


「馬車を出せ。護衛は全員つけろ」


 家臣が駆け出した。

 ルイーズは書庫へ向かい、鍵のかかる木箱を抱えて戻ってきた。


 ◇


 宮城の中枢は閉じていた。

 だが、皇太子が押さえたのはそこまでだった。


 近衛の全てが動いたわけではない。

 軍部も政府の官庁も、そのすべてが皇太子の掌握下に入ったわけではなかった。


 宮城の外郭に建つ政庁には、宰相、軍務卿、封鎖に従わなかった近衛の上層部、主だった重臣が集まり、鎮圧側の臨時本部を構えていると、家臣が道々で聞き込んできた。


 馬車は中枢の封鎖線を大きく迂回した。

 それでも二度、槍を持った近衛の一隊に止められた。


「ブランフォード侯爵家である」


 父が窓から顔を出し、それだけ言った。

 近衛はどちらの側なのか判然としない目で馬車を見た。


 侯爵家の護衛が黙って馬を寄せる。

 長い数秒の後、槍が下がった。


 ルイーズは膝の上の箱を両手で押さえていた。

 二年余りの全てが入っている。


 手が震えていることに気づいたのは、政庁の車寄せに着いてからだった。


 ルイーズは箱を抱えたまま馬車を降り、金髪を整え、震えを止めた。


 政庁の大広間は、鎧の音と怒鳴り声で満ちていた。


 宰相が地図の前で軍務卿と何か言い争っている。

 近衛の将官が伝令を怒鳴りつけている。


 侯爵家の護衛が道を開き、ルイーズは広間の中央まで進んだ。

 父はその二歩後ろで足を止めた。


 ざわめきが少し引いた。

 侯爵と、皇太子の婚約者。

 皆がその意味を測っていた。


 ルイーズは箱を抱え直し、宰相に向かって、ゆっくりと礼を取った。


「ブランフォード侯爵令嬢ルイーズより、皇太子殿下に関して提出したき証拠がございます」


 宰相の顔から、苛立ちが消えた。


「……証拠、と言われたか」

「はい。三年前から今日に至る、皇太子殿下の軍費の私的流用に関する帳簿の写しと証言。証拠隠滅と関係者への圧力の記録。兄フィリップ・ブランフォードに、死亡の二日前、予定外の任務を命じた命令書の写し。事故当時の検分記録の控え。そして、証言を変えるよう命じられていたと認めた従卒の供述にございます」


 広間が静まった。

 ルイーズは箱の鍵を開け、一つずつ卓に並べた。


 台帳。

 療養中の元経理官の署名入り証言。

 老軍医の証言。

 告発状の写し。

 命令書の写し。

 検分記録の控え。

 従卒の供述書。


 軍務卿が命令書の写しを手に取り、署名を見て、宰相に渡した。

 宰相は長いあいだ、その紙を見ていた。


「原本は軍務省の書庫に、綴り番号もそのまま残っております」


 ルイーズが付け加えた。


 軍務卿は控えていた書記官に、原本の確保と照合を命じた。

 署名入りの供述書についても、証言者の所在を確認させる。


「これらは、全て本物か」

「軍務記録の写しと、兄および関係者が残した文書です。原本の所在と、作成者は確認してございます。わたくしが作り上げた罪は、一つもございませんわ」


 父は後ろで、一言も口を挟まなかった。

 宰相が顔を上げた。


「侯爵令嬢。これを出せば、貴女の婚約は終わる」

「承知しております」

「皇太子殿下は、貴女を裏切り者と呼ぶだろう」

「ええ」


 ルイーズは微笑んだ。

 皇太子の前で二年余り見せてきたのと、同じ笑みだった。


「わたくしは兄の妹ですもの」


 宰相は資料を一通り見終えると、低く言った。


「今回の騒ぎだけを収めて終わりにはできぬ。三年前の事故処理も、正式に調べ直す」


 その日の夕刻、近衛の主力が中枢の門を破った。


 シャールズは寝所の前で捕らえられた。


 銀髪を振り乱し、彼は叫んだという。

 罠だ、騙された、弟の陰謀だと。


 だが命令書の署名は彼のものだった。

 近衛を動かしたのは彼自身の口だった。


 誰も文書を偽造していない。

 誰も彼に剣を持たせていない。


 そして、その同じ日に、彼の三年前が卓の上に並べられていた。


 現在の反逆と、過去の不正と、一人の青年の死。全てが一本の線で結ばれた。


 病床の皇帝は、宰相の報告を聞き終えると、目を閉じたまま言ったそうだ。


「もはや、庇えぬ」


 その一言が、政庁に届いたのは夜半だった。

 ルイーズは父と並んで、それを聞いた。


 ◇


 証拠提出者として、ルイーズは事件の調べの経過を宰相から知らされる立場にあった。


 その中に、政変への関与を疑われて拘束されたメルティーナの名があった。


 シャールズの疑心を煽っていたのは、彼女だった。


 彼女は尋問で、自分がシャールズへ何を吹き込んだかを隠さなかったという。


 弟が支持を集めている。

 陛下は殿下を信じていない。

 殿下ほどの方が、なぜ他人に運命を決められねばならないのか。


 偽の文書は一枚もなかった。

 偽の命令も、偽の証拠も。


 彼女が使ったのは、言葉と、笑顔と、皇太子が聞きたがっていることを聞かせる演技だけだった。


 最後に彼女が言ったという言葉が、聴取の記録に残っていた。


「皇帝になってしまえば、誰にも殿下を裁けません」


 反逆しろとは言っていない。

 兵を動かせとも言っていない。


 それでも、彼がそう決断するよう仕向けていたことを、彼女は否定しなかった。


 ルイーズは記録の写しを読み、長いあいだ黙っていた。


 平民の給費生が、なぜ皇太子を破滅させようとしたのか。

 ルイーズに開示された記録には、その理由までは記されていなかった。


(わたくしと同じですの?)


 その問いだけが、胸に残った。


 彼女は今、皇宮の地下牢にいた。


 ◇


 牢は湿っていた。

 石の床に、鉄格子。


 その向こうで、メルティーナは壁に背を預けて座っていた。


 薄暗い中でも、彼女の髪だけは分かった。

 桃色がかった金の髪が、乱れもせず肩に落ちている。


 ルイーズが看守の灯りを受けて立つと、金髪と桃色の髪が、格子を挟んで向かい合った。


 メルティーナが顔を上げた。

 以前と同じ、静かな部屋のある目だった。


 ルイーズは口を開いた。


「あなたのおかげで、わたくしも兄の仇を討つことができました。お礼を申し上げます」


 メルティーナの表情は、動かなかった。


「勘違いしないで。私はあなたのためでも、お兄様のためでもないわ。私は、あの人の仇を取っただけ」

「ええ。わたくしも、あなたのために復讐したわけではありませんもの」


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 ルイーズの脳裏に、学園の門の外で見た、飾り気のない上着の青年の顔が浮かんだ。

 走り出しそうなのを堪えて早足になっていた、この娘の姿も。


(あの方のことなのでしょうか)


 尋ねようとして、やめた。


(わたくしが知るべきことではございませんわね)


 メルティーナは壁に頭を預け、目を閉じた。


 ルイーズは踵を返した。


 それ以上、二人の間に言葉はなかった。


 ただ、同じ男を許さなかった女が二人、石の壁の内と外で一度だけ向き合った。

 それだけだった。


 ◇


 翌朝、宰相付きの官吏が青い顔で知らせに来た。


 メルティーナが、牢の中で自ら命を絶っていた。

 検分でも、第三者が手を加えた形跡はないと確認された。


 遺書が一枚、残されていた。

 ルイーズはそれを宰相の執務室で見せられた。


 文面は短かった。

 自分は騙された被害者ではない。

 自分の意思で皇太子を騙した。

 利用されたのではなく、自分も利用した。

 誰かに命じられたのではない。

 全て自分が選んだことだ。


 署名は、メルティーナ。


 あの人、と彼女が呼んだ相手が誰であるのか、遺書には一言も書かれていなかった。


 ルイーズは紙を宰相に返した。

 何か言おうとして、言葉が見つからなかった。


 ◇


 それから数日後、シャールズから面会の申し入れがあった。


 宰相の許可を得て訪れた貴族牢は、メルティーナが入れられていた地下牢とは、まるで違っていた。


 床には絨毯が敷かれ、窓辺には肘掛け椅子がある。

 卓には茶器まで揃っていた。

 ただ、窓には鉄格子があり、扉の鍵は外からしか開けられない。


 立ち会うデービットとともに室内へ入ると、シャールズは読んでいた書類を卓へ置いた。


 扉の脇には、警備の騎士が一人残った。


「やっと来たか、ルイーズ」


 その声には、いつものように待たされた苛立ちがあった。


「父上には話してくれたのだろうな?」

「何をでしょう」

「私に反逆の意思などなかったということだ。お前から説明すれば、父上も落ち着いてお考えになる」


 ルイーズは卓を挟んだところで足を止めた。

 隣に立ったデービットが、静かに口を開く。


「陛下に譲位をお迫りになったと伺っていますが」

「父上は病気だ。私が代わりに務めるのが当然だろう。政務を滞らせておくわけにはいかん」

「その政務は、すでに宰相と分担しておられました」

「いちいち宰相と話し合っていては遅い。だから、私一人で決められるようにしようとしたのだ」


 シャールズは、なぜそんなことまで説明しなければならないのかと言いたげに眉を寄せた。


「近衛を動かしたのも、余計な者が口を挟んで混乱を起こさぬためだ。それを門まで破って……あれでは、私が父上を害そうとしたようではないか」

「兵に寝所への道を塞がせたのは、兄上です」

「だから、混乱を避けるためだと言っている」


 シャールズは苛立たしげに銀髪を掻き上げた。

 それから、話を切り替えるようにルイーズを見た。


「それで、お前まで何をしている。宰相へ妙な書類を出したそうだな」

「殿下の軍費の使途と、兄の死に関する資料ですわ」

「あんなものを今さら持ち出せば、話がややこしくなる。取り下げなさい」

「取り下げません」


 返事を待っていたはずのシャールズが、一拍遅れて目を上げた。


「……ルイーズ?」

「原本の照合も、関係者への聴取も進んでおります。わたくしが黙れば済む話ではございません」

「ならば、お前の思い違いだったと言えばよい。宰相には私からも説明する」

「何が思い違いなのでしょう?」

「軍費のことなら、いずれ私が皇帝になったときに必要な付き合いもある。私個人のためと、国のためと、そう簡単に分けられるものではない」


 ルイーズは、卓の上の茶器へ一度だけ視線を落とした。

 白い陶器の縁に、細い金の線が走っている。


「では、お兄様のことは?」


 シャールズが小さく息を吐いた。


「フィリップは、能力のある男だった」


 それを聞いて、ルイーズは顔を上げた。


「ただ、物事を大きくしすぎるところがあった。軍務卿へ持ち込む前に、私へ相談すればよかったのだ。そうすれば、あんなことにはならなかった」

「お兄様が黙っていればよかった、と仰るのですか?」

「黙れとは言っていない。順序を守ればよかったと言っている。私に仕える軍人が、私を飛び越えて告発しようなどとすれば、どうなるかくらい分かるだろう」


 ルイーズは指先を重ねた。

 兄の手帳から切り取られた頁の跡を思い出す。

 あの切り口を、何度なぞったことだろう。


「殿下は、お兄様が亡くなったことを、悔やんでおられますの?」

「惜しい男だったとは思っている。だから殉職として丁重に弔わせた。私が弔辞まで出したのを忘れたのか」


 シャールズはそこで、少し声を和らげた。


「お前のことも気にかけてやっただろう。皇太子妃になるのだぞ。ブランフォード家にとっても、悪い話ではなかったはずだ」


 ルイーズは唇を開きかけ、閉じた。

 隣で衣擦れがした。

 デービットが半歩、卓へ近づいていた。


「兄上。婚約は、フィリップの死への償いにはなりません」

「償いなどという話をしているのではない。あの家を蔑ろにはしていないと言っている」


 シャールズは、またルイーズへ向き直った。


「お前も、先のことを考えなさい。兄を失ったのは気の毒だが、私まで失ってどうする」


 その言い方は、どこかで聞いたことがあった。

 寒い日に薄着をしていれば風邪を引く、と注意するような声だった。


 ルイーズは、ゆっくりと息を吐いた。


「わたくしが何のために、殿下の傍にいたとお思いですか?」

「私を慕っていたからだろう」


 返事は早かった。


「お兄様の死を、確かめるためです」

「今は腹を立てているのだろうが――」

「婚約したときからですわ」


 シャールズの口が止まった。

 ルイーズはその顔を見たまま、続けた。


「お兄様が何を調べ、なぜ死ななければならなかったのか。その答えに辿り着くために、殿下の婚約者になりました」


 茶器の置かれた卓を挟んで、しばらく沈黙が続いた。

 やがてシャールズは、困ったように眉尻を下げた。


「……メルティのことなら、もう気にする必要はない」


 ルイーズは瞬きをした。


「何のお話ですの?」

「あの娘のことを話すと、お前は寂しそうにしていた。そこは私も悪かった。だが、もう死んだのだろう。これ以上、お前を煩わせることはない」


 湿った石の壁と、乱れもせず肩へ落ちていた桃色の髪。

 それが、ルイーズの脳裏をよぎった。


「……わたくしたちは、殿下を取り合っていたのではございません」

「私は、お前を選ぶと言っているのだ」


 シャールズは、ようやく話が片づいたとでもいうように椅子から立ち上がった。


「そう意地を張るな。私も、今度はもう少しお前に気を配る。それでよいだろう」


 差し出された手を、ルイーズは見た。

 夜会で何度も取った手だった。


 彼女は動かなかった。


「そのお約束は、必要ございません」


 シャールズの手が宙に残った。

 それを下ろし、今度は弟を見る。


「デービット。お前からも何か言え」

「何を申し上げればよろしいのですか?」

「このままでは誰のためにもならん。私をここから出し、宰相との間を取り持て。お前は帝位に興味がないのだろう」

「ええ」

「なら、話は早い」

「私が帝位を望むかどうかと、兄上をここからお出しするかどうかは、別の話です」


 シャールズの表情が険しくなった。


「お前まで、兄を見捨てるのか」

「兄上は先ほどから、ご自分を助ける話しかなさっていません」

「当たり前だ。私がこんなところにいては、何も片づかないだろう」


 デービットは答えなかった。

 ルイーズにも、もう尋ねたいことはなかった。


「お話は伺いました。失礼いたします」

「待て。まだ何も決まっていない」

「殿下の処遇を決めるために、参ったのではございませんので」


 ルイーズが一礼すると、デービットも扉へ向き直った。

 騎士が外へ声をかけ、鍵の開く音がした。


「ルイーズ!」


 呼ばれても、足を止めなかった。


「少し落ち着きなさい。機嫌が直ったら、また来るといい」


 廊下へ出たルイーズの背後で、扉が閉じた。

 続いて、鍵が回る。


 ルイーズは顔を上げた。

 もう、あの男に見せる笑顔を整える必要はなかった。


 ◇


 冬になる前に、全ての処理が終わった。


 ルイーズが提出した資料を端緒に、事故処理に関与した者たちへの再聴取が行われた。


 供述と関係記録を辿った結果、事故工作を命じた指示系統がシャールズまで遡れることが確認された。


 それによって、シャールズの指示による殺害と隠蔽が裏付けられた。


 シャールズは皇太子位を剥奪された。


国家への反逆、軍費の私的流用、フィリップ殺害とその隠蔽。

 重ねた罪によって死刑が言い渡され、その冬のうちに刑は執行された。


 そして、もう一つ。


 三年前、「任務中の事故」と記録されたフィリップ・ブランフォードの死は、皇太子の不正隠蔽に伴う殺害事件として、正式に認定された。


 公文書の一行が書き換えられる。

 それだけのことだった。


 兄の名誉は、最初から損なわれてはいなかった。

 殉職者として弔われ、皇太子の弔辞まで受けていた。


 ただ、「事故だった」という嘘が、そこに三年間あった。


 その嘘が消えた。


 通知の文書を受け取ったとき、ルイーズは侯爵邸の書斎にいた。

 父が向かいに座っていた。


 ルイーズは文書を二度読み、それを机に置き、膝の上で両手を重ねた。


「お父様」

「ああ」

「お兄様は、事故で死んだのではありませんでした」

「……ああ」


 父が目元を押さえた。

 ルイーズは泣かなかった。


 あの夜、蝋燭の前で、もう泣いてしまっていた。


 代わりに、兄の手帳を書棚から取り出した。切り取られた頁の跡を指でなぞる。


 二年余り、皇太子の婚約者として笑い続けた。


 そのすべては、兄の死を「事故」ではなく「殺害」と記録させるためだった。


 復讐は、終わった。


 ◇


 シャールズに代わって、第二皇子デービットが皇太子となった。


 ルイーズとデービットの婚約が調ったのは、それから数週間後だった。


 政治の都合というものだった。

 ルイーズも、この縁談を受けると答えた。


 皇太子妃候補として皇宮に部屋を持ち、今回の事件で功があった侯爵令嬢。

 新皇太子の婚約者として、これほど据わりの良い相手はいない。


 婚約者として初めての私的な茶席は、皇宮の小さな温室で設けられた。


 冬の陽が硝子越しに差し、デービットの銀髪に白く反射していた。


 兄と同じ銀色。

 だがこの男の髪は、あの日の庭園と同じく、輝くのではなく静かに冷えて見えた。


 ルイーズの金髪もまた、同じ陽を受けて淡く光っていた。


 しばらくは、当たり障りのない話をした。

 皇帝の病状。

 宮廷の人事。


 ルイーズは紅茶を一口飲み、カップを置いた。


 保存期限を延長されていた受領簿。

 匿名の篤志家に治療費を払われていた元経理官。

 三日で下りた閲覧許可。


 そして、給費制度の後援者として庭園に立っていた、この銀髪の男。


「わたくしの調査を手助けしていたのは、殿下でしたのね」


 デービットは紅茶の湯気を眺めたまま、少し間を置いた。


「否定はしない」


 それだけ言った。

 理由も、経緯も、口にしなかった。

 ルイーズも、それ以上は聞かなかった。


 温室の緑を見ながら、ふと思い出したように言った。


「そういえば……メルティーナさんは?」


 遺体は帝都の外れの罪人墓地へ送られる手筈だったと、ルイーズは聞かされていた。


「故郷へ返した」


 デービットは静かに答えた。


「両親の墓のある土地だそうだ。彼女が生前、大切にしていたらしい青年も、同じ土地に眠っていると聞いた」


 ルイーズはカップの縁に指を添えたまま、動きを止めた。


 学園の門の外の、飾り気のない上着。


 それが誰なのか、デービットは言わなかった。

 ルイーズも尋ねなかった。


 ただ、この男は、獄中で死んだ少女の遺体を故郷へ返した。


(冷酷なのか、お優しいのか、よく分からない方ですこと)


 人を盤の上の駒のように動かせる男。

 自分に道を作り、あの娘にも――どのような形でかは分からないが――関わっていたのではないか。


 そして結果として、実の兄を皇太子の座から降ろした男。


 それでいて、死んだ少女を故郷へ返す男。


 だからこそ、信用しすぎてはいけない。


 ルイーズは紅茶を飲み干し、カップを置いて、微笑んだ。


「やはり殿下は、あまり信用できませんわね」


 デービットが、初めてはっきりと口の端を上げた。


「奇遇だな。私も君をそれほど信用していない」


 ルイーズは眉を上げた。


「あら」

「兄上を二年余り欺いて、証拠を集め続けた女だぞ。どうして無条件で信用できる?」


 それはそうだった。

 冬の陽の下で、金と銀の髪が並んでいた。

 ルイーズは、くすりと笑った。


「どうやら殿下とは、長いお付き合いになりそうですわね」

「その言い方では、まるで災難が長引くように聞こえるな」

「違いまして?」


 デービットは一瞬黙り、それから肩を竦めた。


「否定できないのが腹立たしいところだ」


 ルイーズは扇の陰で笑った。


 愛し合っているわけではない。

 互いを全面的に信じているわけでもない。


 それでも、国の未来を共に背負う相手としては、案外悪くない。


 この奇妙な婚約の行き着く先を、ルイーズはまだ知らない。

皇太子を破滅へ導いた、もう一人の少女メルティーナ。

彼女がなぜ笑顔で皇太子へ近づいたのか――その始まりから描きます。

次回、第2話「皇太子に愛された平民少女」

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― 新着の感想 ―
些末なところにひっかかって申し訳ないのですが、『皇太子の遠縁』という表現に違和感が。皇太子が自分に都合のいい人間を捻じ込んだのだと言いたいのだと思うのですが、彼は養子ではないので、「皇太子の遠縁」は「…
別々の事件のそれぞれの共犯者のようなラストが痺れます…!
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