赤きサイクロン
登場人物紹介
田中貴史:主人公。三三歳、サラリーマン。桃華の教育係をしていた。酒には弱い。
花咲桃華:ヒロイン。二三歳。先輩の貴史をからかうのが好き。酒豪。
雑居ビルの薄暗い階段を上がり、ドアの前に立つ。
ドアには『Bar Cask』と書いてあった。
ごくりと唾を飲み込む。
――どうしようかな……
今更ながら、足がすくんできた。
――俺なんかが来ていい場所なのだろうか……
貴史は、とたんに不安になった。
だが――
『もしかして、バーが怖いんですか?』
挑発するような後輩の顔を思い出す。
――逃げられるかよ……
貴史は、先輩の威厳を示すべく、一歩を踏み出そうとしてた。
そもそも、バーに行くことが、先輩の威厳を示すことになるのだろうか、という疑問があるのだが……
*
数時間前。
「えー、田中センパイ、バーに行ったことないんですか?」
花咲桃華が口に手を当てて、笑っていた。
丁寧に切りそろえられたボブヘアが笑うたびにふわふわと揺れている。
桃華は、去年ウチの会社に入社した、貴史の後輩だった。
まだ年齢は二三歳だったと思うが、一〇歳上の先輩に対して遠慮というものが一切ない。
「わ、悪いかよ。別にいいじゃねえか。バーとか特に興味ないし」
貴史は、口をとがらせた。
「そうなんですか?」
桃華は、首をかしげて見せた。
「ああ」
今は、休憩スペースで小休憩していた。
先ほどまで、長めの打ち合わせをしていたので、さすがに疲れていた。
休憩スペースにある自販機で買ったコーヒーに口をつけ、
「別に酒が好きってわけでもないしな。そもそも飲みに行くことがないな」
これは本当のことだった。
別に下戸というわけではないが、たいした量は飲めない。
数杯飲めば気持ち悪くなってしまう。
そんな思いをするぐらいなら、さっさと家に帰ってゲームでもやっていた方がはるかにマシだった。
「そうですよ。センパイ、チームの飲み会、全然参加してくれないじゃないですか」
桃華は口をとがらせた。
なんだか不満そうだ。
――なにが気に入らないんだろう。別に俺なんかいてもいなくてもかわらないだろうに。
貴史は肩をすくめた。
「だって、メンバーのほとんどが飲める連中ばっかりだから、なかなか終わらなくて嫌なんだよ。――特に花咲」
「…………なんですか?」
桃華は白々しい顔で言った。
「お前が飲み始めると終わらねーんだよ」
「……そんなことないですよ」
気まずそうに目をそらす、桃華。
桃華は、入社二年目だというのに、所属している課で一番の酒豪だった。
特に、彼女の新人歓迎会での飲みっぷりは伝説だった。
「あの時は、さすがに反省しました。――センパイを連れ回し過ぎましたね」
「そーだよ。あの時はヤバかったぞ」
他の参加メンバーは、桃華の飲みっぷりについて行けず、最後まで残ったのは貴史だけだった。
酒に弱い貴史が、帰らなかったのは、桃華の教育係故の責任感だけだった。
翌日、二日酔いプラス寝不足で、ほとんど仕事にならず課長からカミナリが落ちたものだ。
「だから、わたしが飲みに誘っても来てくれないんですか?」
上目遣いで、こちらを見る。
なんだか、不安そうな顔をしている。
貴史は首を振った。
「ちげーよ。誰の誘いも受けてねーよ。そもそも、飲みに行く習慣がないんだから」
「良かった」
桃華は、安心していた。
「だからよ、居酒屋すらほとんどいかねーのに、もっとハードルが高いバーなんて行くわけねーだろ」
「そうですか? 結構いいですよ、バー」
「花咲は、バーによく行くのか?」
「……まあ、それなりには」
「まあ、酒好きの花咲なら、行かないって事はないか……」
「なんだか引っかかる言い方ですね……。それで、バーに行く気になりましたか?」
「……ならないな」
「……どうしてですか?」
「だって、なんか気まずいじゃん。バーのマスターから話しかけられても困るし」
基本、人見知りの貴史にとってバーのカウンターなど一番行きたくない場所だ。
声を掛けられても、ろくな受け答えもできず、気疲れしてしまうだろう。
そんなところに行こうとは思わない。
「……バーは、無理矢理話しかけてくるようなところじゃないですよ」
桃華は苦笑した。
「そうなのか?」
「少なくとも、わたしが知っているところはそうですね」
「へー」
「ちょっと興味が出ました」
「べ、別に、そんなことねーけど」
「でも、バーで静かに飲むのって良くないですか? 居酒屋とはまた違いますよ」
「……ふむ……」
桃華の言葉に、貴史は考え込む。
――確かに、バーで飲めるとかっこいいかも……
ふらりと来店し、カウンターでおしゃれなカクテルを飲み、グラスをくゆらせる。
見知らぬ美女が同じカウンターにいたりしたら、「あちらのお客様からです」みたいな感じで一杯ごちそうしてみたり――
うむ、なかなか悪くないシチュエーションだ。
「まあ、少しは、興味はある、かな」
「でしたら、近くにいい店がありますよ。カスクと言う店なんですが」
「へえ、そうなんだ」
桃華のその店の場所を聞くと、確かに、近い。
会社帰りに寄れそうでは、ある。
「行く気になりました?」
「…………行かない」
「なんでですか?」
「やっぱり、気疲れしそうだからやめるわ」
興味は引かれるが、やっぱり行く気は起きなかった。
どうせ疲れるだけだ。
だったら、家に帰ってゲームをやっていた方がいい。
現在、ストリート○ァイター6のランクマッチを頑張っているところなのだ。
どうしても苦手なキャラがいて、その対策を練らねばならなかった。
――本当に、いつもいつも吸い込んで来やがって……
「えー」
桃華が声を上げた。
「いい経験になると思いますから、行った方がいいと思いますよ」
貴史は首を振った。
「いいよいいよ。いつか、気が向いたら行くから」
「そういうのって、絶対行かないですよね。――センパイ、もしかして、恐いんですか?」
桃華が小さく笑みを浮かべて、言った。
――こいつ……後輩のくせに挑発してきやがる……
貴史は胸中で毒づくが、ヘンに反論すれば逆効果になりそうだ。
「…………そうだな。――じゃあ、そろそろ仕事に戻るか。行くぞ」
「あ、ちょっと待ってくださいよ。センパイ!」
桃華の声を無視し、貴史は歩き出した。
*
そして、今、である。
結局、来てしまった。
ここでドアを開けてしまったら、もう逃げられない。
だが、後輩に、バーが恐いと思われているなんて、我慢ならない。
一杯飲んだらさっさと出てしまえばいい。
そして、明日、さりげなく自慢をしてやろう。
勇気を振り絞り、ドアノブに手を掛ける。
からん、と繊細な真鍮の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
低く、よく通る声が聞こえた。
カウンターにいる男性バーテンダーから発せられた声だった。
黒のタキシードにパリッとしたシャツに蝶ネクタイをした、想像するバーテンダーの姿だった。
年齢は六〇過ぎぐらいだろうか。しっかりセットされた髪や髭は真っ白だった。
その柔和な表情は、まさに老紳士といった感じだ。
店内の照明は控えめで、とても良い雰囲気だった。
他に客はいなかった。
定時過ぎて、すぐ来たのでまだ午後六時半過ぎだ。
バーに行くには少々早い時間なのかもしれない。
「どうぞ、おかけになってください」
「は、はい……」
内心ドキドキしながら、席に着く。
「どうされますか?」
バーテンダーは、優しい声音で言った。
おそらく、こちらの緊張を察しているのだろう。
――よし、ドリンクを注文するぞ……
と、そこで貴史は気づいた。
――なにを頼めばいいんだ?
バーで頼むとすると、ウィスキーとかカクテルだろうか。
だが、正直、ウィスキーは得意ではない。
だとするとカクテルとなるだろうが、どう注文して良いかわからなかった。
だったら、素直に訊け、と言われるかも知れないが、小さなプライドが邪魔をしていた。
――そうだ!
貴史は、唯一知っているカクテルの名前を思い出した。
一本指を立てて、格好いい表情――のつもり――で言う。
「スクリューパイルドライバーでお願いします」
言った後、すぐに間違いに気づいた。
正しくは、スクリュードライバーだった。
それでは、赤きサイクロンを異名を持つキャラクターの必殺技ではないか。
ランクマッチでいつもボコボコにされているので、印象に残っていたのが原因だった。
「………………かしこまりました」
馬鹿にされるかと思ったが、老バーテンダーは、静かに礼をすると、カクテルを作り始めた。
――ヤバ……
貴史は、名状しがたい恥ずかしさに、いたたまれなくなるが、必死に顔には出さないようにする。
――素直に、オススメのカクテルを相談すれば良かった……
格好付けて、注文したのが仇になった。
老バーテンダーがカクテルを作っている。
無駄のない動きで、鮮やかさはないが老練さを感じさせた。
カクテルと言えば、シェーカーでシャカシャカするものと思っていたのだが、氷の入ったグラスに直接入れてスプーンでかき混ぜているだけだった。
スクリュードライバーは、そういうのはやらないようだ。
あとで調べたのだが、カクテルも種類によってシェーカーを使うものとグラスで直接混ぜる――ステアと言うらしい――ものがあるとのことだ。
「どうぞ」
老バーテンダーが、貴史の目の前にグラスを置く。
まったく音がしなかった。
グラスには黄色の液体が入っていた。
さらにグラス内にカットされたオレンジが入っていた。
――そういえば、スクリュードライバーって名前だけで、どういうものか、知らなかったな。
にわかにもほどがあるが、事実だった。
「ウォッカとオレンジジュースのカクテルです。飲みやすくて美味しいですよね」
明らかに戸惑っている貴史を見かねてか、老バーテンダーが説明してくれた。
老バーテンダーの「美味しいですよね」と言う言葉に、貴史へのさりげない配慮を感じさせる。
手に取ったグラスを傾け、口をつける。
濃厚なオレンジの甘みと酸味が良い。
あまり、酒を飲んでいる感じがしなかった。
――これ、飲み過ぎてヤバいことになる酒じゃないか?
酒に弱い自分には良くなさそうだ。
それでも、この一杯ぐらいなら、なんとかなりそうだ。
さっさと、飲んで今日のところは、早く帰ろう。
一度、落ち着いてからリベンジしよう。
恥はかいたが、この『カスク』という店はなかなか良いと思う。
次回は、老バーテンダーと小粋な会話をしたいものだ。
ペースを上げ、カクテルを飲みきる。
自分の顔が赤くなっているのを感じる。
貴史は、酒に弱いのですぐに顔に出てしまうのだ。
「大丈夫ですか?」
老バーテンダーが気遣うように言う。
「大丈夫です。でも、今日はこれくらいにしときます。――会計お願いします」
「かしこまりました」
老バーテンダーは、小さく一礼するとカウンターの隅で、紙にペンを走らせる。
そして、その紙を二つ折りの小さな黒いレザーのホルダーに挟むと、貴史の前にそっと置いた。
ホルダーを開くと、達筆な字で金額が書いてあった。
――そんなに高くないんだな……
高額なチャージ料とか取られるかと思ったが、そんなことはなかった。
チャージ料自体はあるが、適正価格で、今日は一杯しか飲んでいないので二〇〇〇円もかかっていなかった。
これなら、また来てもいいかもしれない。
実際、この老バーテンダーと話みたいと思った。
なんどか通えばできるようになるだろうか。
貴史は、支払いをした。
「ありがとうございました」
老バーテンダーの落ち着いた声が心地よい。
「ま、また来ます」
「是非、お越しください」
そして、貴史は店を出る。
ドアを開け閉めしたので、また、真鍮の鈴が鳴る。
心地よい音だった。
きっとこういう音もこだわっているのだろう。
あの老バーテンダーならやっているはずだ。
「……おっと……」
酔ったせいで足下がおぼつかない。
気をつけて階段を下りる。
外へ出ると、夜のざわめきを感じる。
先ほどまでの落ち着いた環境とのギャップを感じる。
だが、それも、悪くない。
貴史は、ゆっくりとした足取りで、家路についた。
*
翌日。
出社し、席に着く。
結局、昨日は一杯しか飲んでいないので、二日酔いにはなっていない。
――さて……
ノートパソコンの電源を付け、仕事の準備でもしようかと思っていたところ。
「おはようございます、センパイ」
桃華も出社してきた。
「おはよう、花咲」
貴史は挨拶を返す。
「……………………」
桃華はなぜか自席に座らず、立ったままこちらをじっと見ていた。
そして、意味深な視線をこちらに向ける。
「ん? どうした?」
「あの、センパイ」
と、桃華が近づいてきた。
「な、なんだよ……」
突然の接近に慌てる。
桃華は、貴史の耳元で、一言。
「スクリューパイルドライバー、美味しかったですか?」
「――――!」
心臓が止まるかと思った。
「ちょ、お前、なんでそれ……」
「あの店、わたしのお祖父ちゃんが経営しているんです」
「え? え?」
あのイカした老バーテンダーが、桃華の祖父?
そんなバカな。
「たまに、わたしも店を手伝ってるんですよね」
「で、でもお前、いなかっただろ?」
「突然、センパイが来店したんで、カウンター下に隠れてたんですよ。確かに、センパイに来てもらいたかったんで、『カスク』の名前を出しましたが、今日来るとは思いませんでしたよ」
「………………」
言葉が出てこず、口をぱくぱくしてしまう。
――あれを、全部聞かれてたってこと?
「いきなり、ヘンなこと言うから吹き出しそうで困りました」
桃華が笑いがこらえられないのか口元を手で隠している。
「あれ? センパイ、顔が赤いですよ。もしかして、お酒飲んでます」
「飲むかっ!」
貴史は、赤面しながら叫んだ。
もはや、威厳を保つどころではなかった。
そんな貴史を見て、桃華は笑顔で言った。
「また、『カスク』に来てくださいね。――大好きなセンパイにサービスしますから」
「はいはい。気が向いたらな」
相変わらずからかってくる後輩に、肩をすくめながら、そう答えるのだった。
*
「はいはい。気が向いたらな」
気のない答えに、桃華は内心落胆していた。
――センパイ、こんなにもアピールしているのになんで、気づかないんだろう。
桃華は、本当に大好きな先輩に相手にされていないことに嘆息する。
桃華は、田中先輩のことが好きだった。
あの新人歓迎会で言ってもらった言葉が、今も忘れていない。
あの時から、桃華の気持ちは変わっていない。
だが、これは桃華も悪いところがある。
もっと素直にアプローチすれば良いのだから。
でも――
――センパイってからかうと可愛いんだよね……
困り顔なんか見てしまうとゾクゾクしてしまうのである。
完全に自業自得だった。
この物語は、オーセンティック・バー『カスク』を舞台に花咲桃華の想いが、田中貴史に届くまでの物語――かも、しれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
別作品の『義妹できました』の執筆に苦労していたので、気分転換として書いてみました。
当初は短編として、完結させようかと思いましたが、書いてみたら続きを書いてみたくなったので、一応、連載作品にしています。
ふたりのこと、気に入ってもらえたら、幸いです。




