第56話
サビはミリーを背負ったまま、地下通路の奥へ進んだ。
背後からは、ファングアントの甲殻が砕ける音が続いている。
鋸刃剣が振るわれるたび、地下全体が低く震えた。
最初は遠ざかっていた。
だが、しばらく進んだところで、サビは足を僅かに緩めた。
また、響いた。先ほどより近い。
ファングアントの鳴き声。
何かが壁へ叩きつけられる轟音。
サビは歯を食いしばった。
(もう抜けてきたのか)
巨剣槍だけを軽量化し、逆手で引きずるように運ぶ。
ミリーの重さは変えない。
一歩進むたび、肩へ回された腕が揺れる。
背中から伝わる体温と浅い呼吸を確かめながら、足を止めずに進んだ。
回復薬で痛みは遠のいている。
それでも、身体がまともに戻ったわけではない。
脚へ力を入れるたび、膝が僅かに揺れた。
呼吸も浅い。
このままミリーを背負って走り続けても、追いつかれる。
背後で再び、鋸刃剣の音が響いた。
近い。
サビは前を見る。
通路の先から、白い光が差し込んでいた。
足を速める。
狭い通路を抜けると、急に天井が高くなった。
旧時代の車両や大型資材を方向転換させるための広場らしい。
周囲を太い柱と崩れた壁に囲まれた、円形に近い空間。
上階の床と天井が大きく抜け落ち、数階分の高さを通して灰色の空が見えている。
雨水が細く降り注ぎ、瓦礫の窪みに浅い水溜まりを作っていた。
サビは広場へ入ると、素早く周囲を見回した。
正面。
壁際に瓦礫が積み上がっている。
上まで続いているが、ミリーを背負ったまま登れる高さではない。
右。通路は崩落して塞がれている。
左。さらに地下へ続く暗い通路。
そして背後。自分たちが通ってきた道。
金属を引きずる音が、微かに聞こえた。
(間に合わねえ)
これ以上逃げても、背中から斬られるだけだ。
サビは広場の端へ向かった。
崩れた柱と壁の間に、奥まった窪みがある。
正面には大きな床材が斜めに倒れ、通路側から直接は見えにくい。
隠しきれるとは思わない。
それでも、戦いの真ん中へ寝かせておくよりはましだった。
サビはそこで腰を落とした。
ミリーの腕を肩から外し、ゆっくりと背中から下ろす。
頭を打たないよう首の後ろへ手を入れ、壁際へ横たえた。
「ミリー」
呼びかけても、瞼は動かない。
胸元は僅かに上下しており、呼吸はある。
サビは手早く、手足に残っていた拘束具を引き剥がした。
腰の小袋へ手を入れる。
残っていた回復薬は一本だけだった。
栓を抜き、ミリーの口元へ運ぶ。
「飲め」
返事はない。
顎を支え、少しずつ薬を流し込む。
喉が僅かに動いた。
半分ほど飲ませたところで止める。
その時。
広場の入口から、重い音が響いた。
金属が石の床を、擦る音が響く。
サビの手が止まった。
もう一度。今度は、はっきりと聞こえた。
足音も続く。
一歩。また一歩。
サビは残った薬瓶をミリーの傍らへ置き、立ち上がった。
視界が僅かに揺れる。
それでも兜のバイザーを下ろして巨剣槍を持ち上げ、ミリーの前へ出た。
暗い通路の奥。
最初に見えたのは、欠けた鋸刃剣だった。
刃の隙間には、黒い甲殻と肉片が挟まっている。
続いて、赤い鎧は大きく砕けていた。
左脇から腹にかけて深い傷。
肩や脚にも、ファングアントの牙と爪の跡が残っている。
逆立った髪は血と泥で固まり、顔も赤黒く汚れていた。
バーグだった。
広場へ入ると、鋸刃剣の先端を床から持ち上げる。
笑っていない。怒鳴りもしない。
以前のような、相手を見下したにやけ面も消えていた。
ただ、サビだけを見ている。
憤怒以外のものが、すべて顔から抜け落ちたようだった。
やがて視線だけが、サビの背後へ動く。
壁際に横たわるミリーを見つけた。
「おい」
掠れた低い声が広場へ響く。
「その女から離れろ」
サビは巨剣槍を構えた。
「てめえは殺す」
バーグが鋸刃剣を持ち上げる。
「だが、そいつは生け捕りだ」
バーグは鋸刃剣を下げたまま、そこで足を止めた。
ミリーを巻き込むつもりはないらしい。
サビを殺すことと、ミリーを持ち帰ること。
その2つを、まだ別の仕事として扱っている。
サビは巨剣槍を構えたまま、ゆっくりと後退する。
すでにミリーは崩れた壁の窪みへ寝かせている。
さらに大きな瓦礫を1つ、身体の前へ動かした。
直撃を防げるほどではない。
だが、広場の中央からは姿が見えにくくなる。
バーグは動かなかった。
サビが再び前へ出るのを待っている。
サビはミリーの呼吸を一度だけ確認した。
それから、巨剣槍の穂先をバーグへ向ける。
バーグも右手で鋸刃剣を持ち上げた。
刃から甲殻の破片が落ち、水溜まりへ沈む。
広場に雨水の落ちる音だけが続いた。
バーグの身体から、魔力が立ち上がる。
先ほどまでのように全身を覆う、荒々しい強化ではない。
踏み出す右脚へ。
鋸刃剣を握る腕へ。
必要な箇所だけへ、濃い魔力が集まっていく。
サビは巨剣槍を握り直した。
回復薬で痛みは遠のいている。
だが、それだけではなかった。
心臓が速い。
身体は熱を持ち、雨粒が瓦礫へ落ちる音まで妙にはっきりと聞こえる。
視界も、魔力の感覚も、普段より鋭い。
バーグの身体を巡る魔力が、これまでより細かく見えていた。
右脚へ流れる。肩へ集まる。刃へ移る。
身体が動くより僅かに先に、魔力だけが動いている。
そして、自分の巨剣槍も先ほどまでとは違った。
力を入れて振り回さない。
軽くした刃を動かし、必要な瞬間にだけ重さを戻す。
それだけなら、傷んだ腕や肩へ掛かる負荷は少ない。
魔力の余裕はない。
だが、今の身体でも、巨剣槍を動かすこと自体はできる。
(……まだ戦える)
バーグも無傷ではない。
それでも、正面から技量を競えば勝てない。
なら。
サビは、バーグの身体ではなく、その内側を巡る魔力だけを見る。
水溜まりへ雨粒が落ち、小さな波紋が広がった。
バーグの右脚へ、魔力が集中する。
サビがそれを捉えた直後、石の床が砕けた。
バーグの巨体が一気に間合いを潰す。
サビは巨剣槍を軽量化し、迫る鋸刃剣へ刃を差し込んだ。
金属同士が激突する。
だが、先ほどまでとは違った。
鋸刃剣へ込められた魔力は、接触の瞬間だけ膨れ上がり、刃が離れるとすぐに消える。
サビが押し返そうと巨剣槍の重さを戻す頃には、バーグはすでに横へ回っていた。
次に魔力が集まったのは左脚。
サビはそちらへ身体を向ける。
直後、バーグが水溜まりを蹴り上げながら踏み込んだ。
鋸刃剣が横薙ぎに迫る。
サビは身体を軽くし、後方へ飛び退いた。
刃が胸当ての表面を掠め、装甲から火花が散った。
着地と同時に巨剣槍を振り返す。
バーグの胴を狙った刃が、低い軌道を走る。
今度は右肩へ魔力が集まった。
バーグは鋸刃剣を立て、接触する場所だけを強化する。
巨剣槍がぶつかる。
サビは命中直前に重さを戻した。
衝撃で鋸刃剣が押し込まれ、バーグの足が水溜まりを滑る。
だが、倒れない。
肩と右腕へ集めていた魔力をすぐに切り、後ろへ跳んで巨剣槍の圧力から抜けた。
重くなった刃だけが、その場へ取り残される。
サビが再び軽量化するより先に、バーグの左脚へ魔力が走った。
「ッ!」
サビは巨剣槍を引き戻しながら横へ飛ぶ。
鋸刃剣が、直前までサビのいた床を砕いた。
石片と泥水が跳ね上がる。
サビは瓦礫の上へ片足をつき、そのまま刃を突き出した。
バーグの腹を狙った刺突。
今度は鋸刃剣ではなく、腰の右側へ魔力が集まる。
バーグは身体を捻り、穂先を鎧の表面へ滑らせた。
黒い刃が赤い装甲を削る。
浅い傷だけを残し、脇を抜けた。
すれ違いざま、バーグの右肘へ魔力が集中する。
サビは振り返らず、巨剣槍の柄を背中側へ回した。
肘打ちが柄へぶつかる。
衝撃で両手が痺れた。
それでも直撃は避けた。
サビは前へ転がり、距離を取る。
片膝をついたまま振り返った。
バーグは追ってこない。
欠けた鋸刃剣を右手だけで構え、サビの様子を見ている。
左腕は力なく垂れていた。
ファングアントに抉られた鎧の隙間から、血が流れ続けている。
呼吸も荒い。それでも、魔力の無駄はなかった。
踏み込む脚。武器を振る腕。攻撃を受ける場所。
バーグは、必要な瞬間にだけ必要な箇所へ魔力を集めている。
開闢軍精鋭たちが、作戦中に見せていた動き。
個々の装備も役割も違いながら、余計な動作を挟まない。
そして、それが今のサビには見えた。
回復薬で無理やり冴えた感覚が、魔力の僅かな移動まで拾っている。
右脚へ集まれば、踏み込む。
肩や腕なら、そこから攻撃が来る。
胴や頭へ集まれば、受けるつもりだ。
実際に身体が動くより、一瞬だけ早い。
その一瞬があればいい。
サビ自身も、余計な力を使わなくなっていた。
巨剣槍は軽いまま運ぶ。
構える時も、振り始めも軽い。
重さを戻すのは、ぶつかる直前だけ。
以前のように巨大な武器を腕力で押さえ込もうとしない。
だから、壊れかけた身体でも動かせる。
右手首は痛む。
脇腹も、脚もまともではない。
それでも、巨剣槍そのものは驚くほど軽かった。
(……今まで、力を入れすぎてたのか)
サビは柄を握る指から、僅かに力を抜いた。
回復薬で遠のいていた痛みが、少しずつ戻り始めている。
正面から打ち合えば、先に身体が動かなくなる。
だが、バーグの魔力が集まる場所は見えていた。
身体が動くより僅かに早く、次の動きを知ることができる。
バーグの右脚へ、再び魔力が集まった。
サビは巨剣槍を横へ構える。
踏み込み。次に右肩。
上段からの斬撃。
サビは刃を軽くし、鋸刃剣の下へ潜らせた。
接触の瞬間に重さを戻す。
鋸刃剣が跳ね上がる。
バーグの身体が僅かに開いた。
サビはそのまま石突を突き出す。
今度は腹へ魔力が集まった。
石突が赤い鎧へぶつかる。
鈍い音。
バーグの身体が後ろへ揺れた。
だが、腹部だけへ集中した魔力に阻まれ、深くは入らない。
バーグは下がりながら鋸刃剣を振った。
サビは右腕への魔力集中を読み、先に身体を沈める。
鋸刃剣が兜の上を通過した。
風切り音が、耳を揺らす。
サビは巨剣槍を斜めに振り上げた。
バーグが後ろへ跳ぶ。
刃は胸当てを掠め、赤い装甲の一部を弾き飛ばした。
二人の間に距離が開く。
雨水の落ちる音が、再び聞こえた。
バーグが自分の胸元を見る。
砕けた装甲の下には、浅い傷が増えている。
それから、サビへ視線を戻した。
「なるほどな」
バーグは鋸刃剣を下げる。
「俺の身体より先に動いてやがる」
サビは答えない。
巨剣槍の穂先を下げず、バーグの魔力だけを見る。
その時。
バーグの身体ではなく、鋸刃剣へ魔力が流れ込んだ。
刀身に沿って青白い光が伸びる。
鋸状の刃の外側へ、荒い輪郭を持つ魔力が形成されていく。
(剣に……?)
バーグが片手で鋸刃剣を振った。
間合いの外。
刃そのものは届かない。
だが、振り抜かれた軌道から、青白い斬撃が飛び出した。
「ッ!」
サビは巨剣槍を立てる。
魔力の刃が激突した。
鋭い衝撃が柄を伝わり、サビの身体が半歩押し戻される。
青白い光はその場で砕け、細かな魔力となって雨の中へ散った。
(飛ばせるのか)
サビが構え直す。
バーグはもう一度鋸刃剣へ魔力を集めた。
今度は横薙ぎ。
サビは魔力が形成される段階で軌道を読み、身体を沈める。
青白い斬撃が頭上を通過した。
背後の壁へ食い込み、石材を一直線に抉る。
バーグが舌打ちした。
「これも見えるか」
サビは答えない。
バーグの身体。
脚。腕。そして武器。
どこへ魔力が流れるのか。
それだけを見る。
バーグが僅かに口元を歪めた。
「厄介な野郎だ」
右手が腰の後ろへ回る。
サビはその動きへ合わせ、巨剣槍を僅かに引いた。
バーグが取り出したのは、小さな黒い玉だった。
片手に収まるほどの大きさ。
表面に細い溝が刻まれている。
バーグはそれをサビの足元へ投げた。
サビは巨剣槍の石突で玉を弾こうとする。
その直前、バーグの鋸刃剣が振り下ろされた。
黒い玉が空中で切り裂かれる。
破裂音と共に、灰色の煙が噴き出した。
煙は一瞬で二人の間へ広がる。
雨水と粉塵を巻き込みながら、広場の中央を覆っていった。




