第4話
(無理だ)
突如現れた、ファングアントの群れを前に、サビは踵を返した。
巨剣槍を軽量化したまま肩へ担ぎ、全力で走り出す。
直後、背後から無数の脚が地面を叩く音が響いた。
「クソッ!」
サビは瓦礫を飛び越え、崩れた道路を駆ける。
振り返る余裕はない。
魔力の気配だけで、群れが離れていないことは分かった。
むしろ、少しずつ近づいている。
(何でこっちに来てやがる!)
先ほど風に混じって流れてきた、濃い魔力の気配が頭をよぎった。
だが、今は原因を考えている場合ではない。
サビは前方を見る。轍が続いていた。
バーグたちが進んだ方向だった。
一瞬、別の方角へ逃げることも考える。
だが、この辺りの地形は分からない。森へ飛び込めば、行き止まりや崩落した建物へ追い込まれる可能性もある。
それに対して、前には魔導車に乗った人間がいる。
サビは歯を食いしばった。
(……こうなったら)
背後から迫る魔力の群れを感じながら、轍の先へ目を向ける。
(あいつらに押しつけるしかねえ!)
サビは進路を変えなかった。
むしろ速度を上げ、バーグたちが消えていった廃墟の奥へ向かって走った。
サビは崩れた建造物の間を駆け抜けた。
背後では、無数の脚が地面を叩く音が途切れない。
瓦礫を踏み崩す音まで混じり、ファングアントの群れがすぐ後ろまで迫っている。
(もう少しで追いつく……!)
地面に残された轍は、前方の開けた場所へ続いていた。
サビは巨剣槍を担ぎ直す。
(あいつらに押しつけて、その間に——)
建物の角を曲がった。
「……なんだ、これ」
思わず速度が落ちる。
崩れた建物に囲まれた広場には、何人もの人間が倒れていた。
黒い外套。揃いの紋章が入った防具。折れた武器と、石畳へ広がる血。
その奥で、一人の少女が壁際へ追い詰められていた。
銀色の髪は血と埃に汚れ、褐色の肌にも傷が走っている。片膝をつきながら、淡い光で形作られた短剣を握っていた。
その前に立っているのは、赤い鎧の男。
(バーグ……!)
サビは反射的に身体を低くした。
バーグの鋸刃剣は血に濡れていた。
鎧にも傷はある。だが、動きにはほとんど衰えがない。
「まだやるのか?」
バーグが笑いながら一歩踏み出した。
少女は壁へ手をつき、無理やり身体を起こす。
「……殺す」
掠れた声だった。
琥珀色の瞳から涙が流れている。
「お前だけは……絶対に……」
光の刃を構えようとする。
だが、腕が震え、切っ先が下がった。
「いいねえ。その目だよ」
バーグが鋸刃剣を引きずりながら近づく。
「親父とお袋が死んでも、まだ噛みついてくるか」
少女の視線が、倒れている二人へ動いた。
その瞬間、バーグが踏み込む。
少女も短剣を振った。
だが、鋸刃剣が軽く触れただけで、淡い刃は砕け散った。
「ッ……!」
少女の身体が壁へ叩きつけられる。
バーグが、その前へ立った。
鋸刃剣が持ち上がる。
サビの背後では、ファングアントの足音がさらに大きくなっていた。
だが、壁際の少女を見た瞬間。
男たちに囲まれたアオの姿が、記憶の底から蘇った。
泥の中に倒れたまま、連れていかれるアオを見ていることしかできなかった。
(……クソッ)
そのまま、横を抜けて逃げるつもりだった。
しかし、サビは鈍っていた足を再び加速させ、そのままバーグへ向かって踏み込んだ。
バーグはまだ、こちらへ気づいていない。
(気づいてねえ……!)
サビは軽量化した巨剣槍を、大きく振りかぶっていた。
壁際の少女へ鋸刃剣を振り上げた、その横腹へ向かって巨剣槍を振り抜く。
軽くなった長大な刀身が、鈍い風切り音を立てて加速した。
刃が赤い鎧へ触れる直前、サビは軽量化を解除する。
「な——」
バーグが振り向くより早く、巨剣槍を脇腹へ叩き込もうとした。
しかし、巨剣槍の迫る脇腹へ、サビがこれまで見たこともないほど濃い魔力が集中した。
鉄塊を叩きつける瞬間、凄まじい反動が両腕から肩へ突き抜ける。
(硬え……!)
痛みに顔をしかめるサビの身体まで横へ引かれる。
だが、バーグの巨体はそれ以上の勢いで吹き飛んだ。
赤い鎧が崩れかけた壁へ激突し、そのまま大量の瓦礫に飲み込まれる。
周囲にいた男たちが、一斉に動きを止めた。
「バーグさん!?」
「誰だ、てめえ!」
何人かが武器へ手を掛ける。
だが、サビは相手にしなかった。
巨剣槍を再び軽くすると、壁際に倒れかけている少女へ駆け寄る。
「立てるか!」
少女は荒い呼吸を繰り返しながら、突然現れたサビを見上げた。
「……誰?」
「後だ。逃げるぞ!」
腕を掴んで引き起こそうとしたが、少女の脚にはほとんど力が入っていない。
サビは一瞬だけ顔をしかめると、そのまま少女の身体を肩へ担ぎ上げた。
「ちょ……」
「我慢しろ」
背後から男たちが何かを叫びながら、近づいてくる。
その声へ重なるように、無数の魔力の気配が広場へ近づいていた。
(もう来やがった)
少女を担いだサビは男達から離れるように、走り出すと周囲へ目を走らせる。
このまま走って逃げても、少女を担いだ状態では群れに追いつかれる。
その時、肩の上から掠れた声がした。
「あそこ……」
「何だ」
「魔導車……」
少女が震える腕を伸ばした。
広場の端、崩れた建物の脇に一台の魔導車が停まっている。戦闘に巻き込まれたのか、車体にはいくつか傷が入っているものの、大きく壊れているようには見えなかった。
「乗せて」
サビはすぐにそちらへ走り出した。
数歩進んだところで、背後から大量の瓦礫が弾き飛ばされた。
「……!」
サビが振り返る。
崩れた壁の下から、赤い鎧が立ち上がっていた。
バーグは口元から血を流し、脇腹の装甲も大きくへこんでいる。それでも、鋸刃剣を握る腕にはまだ力が残っていた。
血走った目が、真っ直ぐサビへ向けられる。
「てめえ……」
(もう動けるのかよ)
サビの背筋が強張る。
あれだけまともに巨剣槍を叩き込んだ。
それでも倒れていない。
バーグが瓦礫を踏み越え、こちらへ向かって踏み出した。
だが、その横から巨大な影が飛び込んだ。
ファングアントだった。
大きく開いた牙がバーグへ迫る。
「邪魔だ!」
鋸刃剣が振り抜かれ、ファングアントの身体が地面から浮き上がった。硬い外殻が砕け、巨体が近くの瓦礫へ叩きつけられる。
しかし、その後ろから二匹、三匹と新たな個体が広場へ流れ込んでくる。
別のファングアントは、周囲で混乱していた男たちへ襲いかかった。
「なんだこの数は!」
「囲まれるぞ!」
雪崩れ込んでくるファングアントを叩き潰しながら、何かに気付いたようにバーグの表情が変わった。
「……あの瓶か」
バーグはサビに担がれた少女を睨みつけた。
「てめえ、魔物寄せを使いやがったな!」
男たちがサビから視線を外し、次々と武器を構える。
さらに後方からも、黒褐色の巨体が崩れた建造物の間を埋めるように現れた。
(来た)
サビが狙っていた通りだった。
だが、安心する暇はない。
バーグは飛びかかってくるファングアントを一匹ずつ叩き潰しながら、それでもこちらへ進もうとしている。
「クソがぁぁ!」
(あの群れ相手に押し返してやがる……)
長くは持たない。
群れがバーグを倒すより先に、こちらまで追いついてくる可能性の方が高かった。
サビは魔導車まで走り、扉を開けると肩に担いでいた少女を下ろした。
「運転、できる?」
少女が苦しそうに尋ねる。
「できねえ」
「……じゃあ、運転席に乗せて」
「お前がやるのか?」
「早く……」
サビは迷わず、少女を運転席へ座らせた。
少女は背もたれへ身体を預けたまま、震える手を腰へ伸ばす。
小さな鞄から瓶を取り出すと、栓を外して中身を一気に飲み干した。
直後、苦しそうに目を閉じる。
「おい」
「少し……待って」
少女は口元を押さえながら、何度か深く呼吸した。
青ざめていた顔に僅かに血の気が戻る。傷が消えたわけではないが、先ほどまで震えていた指が少しずつ動き始めた。
少女は身体を起こし、運転席の前に並ぶ操作具へ手を伸ばした。
サビには何をしているのか分からない。
背後を振り返る。
バーグがまた一匹、ファングアントを鋸刃剣で吹き飛ばした。
別の個体が横から噛みつこうとするが、肩からぶつかるだけで弾き返される。
そのままバーグがこちらへ顔を向けた。
離れていても、視線が合ったのが分かった。
「まだか!」
「今やってる!」
少女が操作具をいくつか動かす。
魔導車の内部で僅かな振動が生まれたが、すぐに止まった。
「動かねえぞ」
「分かってる!」
少女は苛立たしげに答えると、別の操作具へ手を伸ばした。
サビは巨剣槍を握ったまま、魔導車の横に立つ。
必要なら、自分が時間を稼ぐしかない。
だがバーグの周囲では、既に何匹ものファングアントが倒れていた。
群れの奥からさらに新しい個体が押し寄せているとはいえ、あの男をいつまで止めていられるか分からない。
「……動いて」
少女が小さく呟き、最後の操作具を押し込んだ。
今度は車体全体に震えが広がった。
魔石を収めた機関部から淡い光が漏れ、止まっていた車輪へゆっくりと力が伝わっていく。
「手すりにつかまって!」
「ああ!」
サビは急いで魔導車へ駆け寄り、側面に取りつけられた見張り用の足場へ飛び乗った。
片手で手すりを掴み、もう片方の手で軽くした巨剣槍を支える。
ほぼ同時に、魔導車が凄まじい勢いで発進した。
「……ッ!」
急加速に身体を持っていかれそうになり、サビは歯を食いしばった。
荒れた道路へ乗り上げ、車体が大きく揺れる。
サビは片手で巨剣槍を押さえながら後ろを振り返った。
広場では、バーグたちがファングアントの群れに囲まれている。
それでも赤い鎧だけは、次々と群れを吹き飛ばしながらこちらを追おうとしていた。
だが、間へ新たなファングアントが殺到し、その姿が黒褐色の巨体に埋もれていく。
「クソがぁぁぁぁ!」
バーグの叫びを背後に、魔導車はそのまま速度を上げた。
崩れた建造物と血に濡れた広場が、少しずつ遠ざかっていく。
サビはしばらく背後を見続けていたが、ようやくバーグの魔力の気配が遠ざかり始めたところで、深く息を吐いた。
(これで、アオの手掛かりはなくなった……)
バーグたちを追えば、アオの居場所へ辿り着けるかもしれなかった。
その可能性は、今や魔物の群れに埋もれている。
腹の奥に、重いものが沈んだ。
それでもサビは、追跡を続けられなくなったことに、ほんの僅かだけ安堵している自分にも気づいていた。
そのことが、妙に腹立たしかった。
(仕方ねえか……)
サビはもう一度後ろを振り返った。
バーグがいた場所では、今も魔物たちが次々と宙へ吹き飛ばされていた。




