Step.1 卵をかき混ぜて 土方光成
Step.1最終部分です。導入なのに長くてごめんなさい。
彼女の目覚めはコーヒーの香りとともにであった。目の前に差し出された湯気の立ったカップを見つめ、やがて受け取る。どうやら、ベッドの上に座った状態で眠っていたらしい。はっきりとしない意識のなか、あたりを見渡すと、そこは研究室のようだった。白衣の男が、本の積み上げられた机を背にして、椅子に座っている。カップを渡したのはこの男だ、とここでようやく認識する。
「君の、淹れたコーヒーだ」
男の声は冷たく、感情がこもっていなかった。しかし、愛情に飢えていた彼女にとっては、自身に話しかけてくれただけで、十分に満足だった。
「ありがとう」
温かいコーヒー。この時代では贅沢品である。火の使えない現代にとって温かい飲食物を口にする機会はほとんどない。一部の特権階級や富裕層は、炎帝府から支給されるエネルギーを熱供給板によって熱に変換することで、あたたかな料理を用意することをできるが、それは例外である。多くの国民が口にする食事は総じて冷たいものである。
「礼を言う必要はない。さっきも言ったが、それは君の入れたコーヒーなのだ。君の、その特別な力で」
男は彼女を否定した。女は黙ってカップを傾ける。沈黙が室内に流れる。
男はしばらくの間、彼女がコーヒーを飲む姿を眺めていたが、やがて興味を失ったのか、椅子を引いて机のほうに向きなおり、積まれた本の一番上を取って、それを読み始めた。無視された。そう感じた女は急いでカップを空にすると、ベッドをゆっくりと降り、男のほうへ擦り寄った。
「私は、役に立った?」
女はいじらしく男に聞いた。しかし男はその態度に心を動かされない。まるでそこに人がいないかのように、きわめて冷静に返答した。
「役に立たなければ捨てるだけだ」
女はその言葉の意味を考える。要は、役に立ったのだろう。女の心は喜びに満ちた。
夕張、技術復元研究所の一室。そこに二人はいた。部屋の主である男の名は、土方光成。研究者である。炎帝府立の大学を首席で卒業後、この研究所に就職し、つぎつぎと成果を上げ、齢三十にして個人の研究室を持つにいたる。この部屋に出入りする所員は彼以外にいない。彼は人嫌いであったため、他者の立ち入りを禁止したのだ。そのため、この部屋に女がいることを知るものはいない。
土方は秘密を作る男ではない。聞かれれば応えるし、聞かれなければ答えない。そのように男は生きてきた。しかし、このことは誰にもまだ話していない。そして今後話す気もなかった。男に秘密を作らせた理由は、彼女の持つ力に対する独占力であった。
土方が女と出会ったのは、二か月前、青森であった。奥羽山脈平地化もとい青森ドーム大爆発事件の調査を炎帝府により委託された彼は、数人の同僚とともに現地へと向かった。研究費は多いに越したことはない。炎帝府に提示された報酬は、出不精の土方を動かすほどの額であった。
同僚たちとは名目上チームを組んでいたが、土方は単独で行動した。そのほうが彼にはとって効率てきだろうと、同僚たちも了承した。土方は、レールのように続く爆発痕の終着点である青森ドーム入口から、数キロ離れた地点を重点的に捜査した。理由はない。しいて言うならば人手のあるところに向かっても意味がないと思っただけである。
土方は魔導車を運転し、周辺を循環した。同僚からは信頼のもと許された単独行動ではあったが、手柄をあげようという気はなかった。研究費さえもらえれば、いい。そのため、自身のいま手掛ける研究に思考を巡らせながら、鈍行で進んでいった。
何を見つけるでもない、何が見つかるでもない、数日間。永遠に続くかと思うほどの退屈。それを打ち破ったのは、突然この地を襲った地震であった。
その地震の規模はそれほど大きくはなかった。しかし、青森ドームの外壁は、件の大爆発により、もろくなっていたため、大きく破損した。ドーム外環境は氷河の世界。それに晒された青森は、もはや調査の続行が不可能な状態となった。
各調査チームが撤退するなか、土方は、残留した。否、残らざるを得なかった。彼は、地震により倒壊した廃墟の下敷きとなっていたのだ。魔導車のなかにいたので、外傷はないが、ドアが開かず、外に出られない。研究所の同僚たちには帰るときも別々で、と話していたので助けは来ない。どうしたものか、と窓から瓦礫を眺めること四日間。コンコン、と窓が叩かれた。
土方が顔を上げると、そこには痩せこけた女が立っていた。憔悴していた土方は、それを幻覚と思った。青森には現在一般市民は残っていない。女がいるなど、本来ありえない状況なのだ。土方は幻覚に付き合う気はない、と目を閉じた。しかし、女は無視されてもなお、窓を叩き続けた。一時間が経過したころ、土方はうんざりして、「幻覚」に反応を示した。
「いつまで叩き続ける。消えろ」
女は、土方の言葉を聞くと、より一層強く窓を叩いた。土方は頭を抱えた。
「おい。中に入りたいのか?あいにくだが、ドアが開かないんだ。開けられるものなら開けてみろ。できないならさっさと消えろ」
すると女は顔を輝かせると、窓に手のひらを重ねた。そして、数秒後。
窓が、溶けた。
「…………なんだ、それは」
目の前で起きた事象に、土方は理解が追い付かない。魔導車は、ドーム外を走行できるように、厚みのある装甲に覆われている。無論、窓もそれに準じてそれなりの強度を誇っている。何かの間違いで溶けるなど、あるはずがない。
女は、土方に話しかける。
「こんにちは。突然申し訳ありませんが……助けていただけませんか?」
助けられた相手に助けを求められた。土方は困惑しつつ、頷いた。
女は自分の名を狩場瑠衣と名乗った。信じられないことに、彼女は火を操れるらしい。窓を溶解させたのも、手のひらから発した熱によるものだという。
この時代に、炎帝以外で火を使用できる者はいない。この狩場瑠衣という女は、何者なのか。土方は彼女に興味を抱いた。
そして、紆余曲折をへて、研究所に戻ると、土方は彼女のからだを研究対象とし、『倒達者』が火を発生させるメカニズムの解析を始めた。
「私が生きているうちは無理かもしれないが、遠くない未来、人類は火を取り戻すかもしれないな」
土方は本をめくりながら言う。実のところ、天才の彼をもってしても、倒達者の研究は難航していた。どれだけ狩場のことを調べても、どうしても、理解できない。彼女のからだで、何が起こっているのか、まるで脳が拒絶しているかのように、把握することができないのだ。
狩場は悩ましいその顔を眺めて、微笑む。その視線に気づいた土方は彼女を見つめる。
「……狩場瑠衣よ。君たち、倒達者っていうのは全部で何人いるのだ?」
「えっ?えーと、私が知る限り、は私も含めて、二人。武術型の獅子頭奈保ね」
「なるほど……。つまり、残りの倒達者が今後新たに生まれる可能性があるのか」
「あっ、そういえば、呪術型倒達者の候補を見つけたって、一年前くらいにサンジェルが言っていたわ。もしかしたら、その人もう倒達しているかも」
「ほお?そいつとは、面識がないのか」
「名前くらいしか知らないわ。那須花凜っていうのだけど」
「那須、花凜……?」
土方は眉を顰めると、机の引き出しを開け、なにかを探し始めた。しばらくのち、彼は一枚の紙を取り出す。それは、炎帝府により研究所に届いた手配書であった。そこに書かれた名を見て、確信する。
「やはりそうだ。その、那須花凜とやら、テロリストとして世間をにぎわしているようだぞ」
革命集団、ブレーメン。サンジェルの教団ほどではないが、世間を騒がせる不穏分子である。
土方は、考える。狩場は研究対象としては申し分ない。しかし、彼女一人を被験者としては、多角的なデータがとれないかもしれない。もしこの那須花凜を自分のものにできれば、倒達者の研究は促進するだろう。
土方は、狩場のほうを向く。
「狩場よ。出かけよう。『準備』をするぞ」
狩場は、満面の笑みを浮かべた。




