【給仕視点】「地味なんだから隅っこにいなさい」と言われた令嬢を、向かいの柱の公爵閣下は三年前から見つめていました
王宮の夜会で、銀の盆を運んで四十年になります。
給仕には給仕の作法がございます。
見ても見ないふり。聞いても聞かないふり。盆の上のものは、何があっても落とさない。
これさえ守っていれば、たいていの夜はなんとかなるものです。
「ジョルジュさん、西の柱の旦那様、また向こうばっかり見てますよ。去年もそうでしたよね。なんでですか?」
見習いのトマが盆を抱えたまま小声でそう訊いてきたのは、ある秋の夜会でのことでございました。
「見ていないよ」
「え、でも、ほら、今もまた。あれ、たぶん誰か待ってるんですよ。誰だと思います?」
「トマ。給仕は何も見ていないんだ。お客様に何か訊かれたら、こう答えなさい。『手前は、何も存じません』」
「はあ……」
トマは気の抜けた返事をして、また柱のほうをちらちら見ました。
見るなと言ったそばから、これです。
まあ、私も見ていたのですが。
盆を持つ高さというのは、なかなか便利なものでございます。
扇の内側でどなたが笑っていらっしゃるのか。手袋の指先が、どなたの袖をつまんでいるのか。ドレスの裾が、どちらの殿方の靴を踏みかけているのか。
長年同じ高さから広間を眺めていると、たいていのことは目に入ってしまいます。
入ってしまったものは、仕方がございません。
ですから私は、あの夜も、何も存じませんでした。
◆
モンテルラン公爵家のヴィクトール様を、私は八つの年から存じ上げております。
――いえ、存じ上げておりません。給仕ですので。
あれは秋の夜会でした。
焼き菓子の台にかけた白い布が、ときどき、もぞっと動くのです。
鼠かと思いました。
王宮の大広間に鼠が出たとなれば、給仕長の首が飛びます。ついでに私の首も飛びます。
そっと布の端をめくると、黒い上着の小さな男の子が、膝を抱えて座っていました。
「しーっ!」
坊ちゃまは人差し指を口に当てて、私をじろりとにらまれました。
にらんでいらっしゃるのに、目の縁が赤いのです。
「坊ちゃま、どうなさいました」
「女の人がいっぱい来るんだ。母上がご挨拶しなさいって言うから、ずっとご挨拶してたんだけど、もう六人目なんだよ。顔が覚えられない……」
八つの子に、それはなかなかの重労働です。
私は布を元に戻して、台の上の焼き菓子を一枚、布の隙間にそっと差し入れました。
小さな手がにゅっと出てきて、焼き菓子をつかんで、すっと引っ込みます。
布の下から、さくさくと音がいたしました。
坊ちゃまはそれきり、夜会がお開きになるまで出ていらっしゃいませんでした。
お顔を見せてくださったのは、お開きの間際に一度だけ。布の端からのぞいた粉だらけの口で、困ったように笑っておいででした。
翌年から、坊ちゃまは菓子台の下ではなく、柱の陰にいらっしゃるようになりました。
背が伸びて、布の下に入りきらなくなったのでしょう。
柱の陰なら、背がいくら伸びても困りません。たいへん賢いご判断です。
そうして坊ちゃまは公爵閣下になり、背丈は柱と競うほどになり、それでも柱の陰からはお出にならない。そういう大人になられました。
大広間の西側の、三本目の柱です。
私はそこを、こっそり「坊ちゃまの柱」と呼んでおります。
◆
あのお嬢様を初めてお見かけしたのも、秋の夜会でした。
坊ちゃまの柱のちょうど向かい、東側の三本目の柱の陰に、見慣れないお嬢様が立っていらっしゃいました。
くすんだ茶色のドレスで、うしろの壁掛けとほとんど見分けがつきません。
柱の陰にいらっしゃる方には、柱の陰まで盆を回す。給仕の仕事に、真ん中も隅もございません。
私が盆を差し出すと、お嬢様は焼き菓子をひとつ取って、それから私の顔をご覧になりました。
「ありがとう」
盆を持つ手が、ほんの少しだけ揺れました。
お礼を言われたことなら、何度もございます。
ですが、盆ではなく私の顔を見て言われたことは、数えるほどしかありません。
しかもそのお嬢様は、焼き菓子をひと口かじると、ふわっと、それはもう嬉しそうなお顔をなさったのです。
……ああ、これはいけない。
次に盆を回したとき、私は焼き菓子を一枚多く置きました。
当然です。
お嬢様は二枚目に気づいて、目をぱちぱちさせて、また「ありがとう」とおっしゃいました。
次の夜会でも、その次の夜会でも、お嬢様は同じ柱にいらっしゃいました。
そのうち、私の名前まで覚えてくださいました。
「ジョルジュさん、今日のはなんの焼き菓子ですか?」
「胡桃でございます」
「やっぱり! 扉が開いたとき、においで分かったんです。私、胡桃のがいちばん好きなんですよ」
困りました。
好物まで教えていただいては、もう、一枚多く置くのをやめられないではありませんか。
さて。
ここからが、少々厄介なお話でございます。
お嬢様が東の柱にいらっしゃるようになった年から、坊ちゃまの様子がおかしくなりました。
焼き菓子の皿を持ったまま、ちっとも召し上がらないのです。
どこを見ていらっしゃるのかと思えば、広間の向こう側。東の柱のほうばかり。
ときどき上着の内側から小さな手帳を出して、何か書きつけていらっしゃる。
坊ちゃま、それは夜会の最中に書くものでございますか?
盆をお持ちすると、坊ちゃまは盆の上の焼き菓子を見たまま、何かおっしゃりかけました。
「すまない。あの、向こうの……」
「はい」
「向こうの柱は、焼き菓子が先に通るのか」
「さようでございますな。厨房の扉が近うございますからな。出てきたばかりの、いちばん温かいのが通ります」
「そうか」
それだけです。
次の年も。
「すまない。向こうの柱の、あの」
「はい」
「焼き菓子は、何枚置いているんだ」
「二枚でございます」
「そうか。二枚か」
その次の年も。
「すまない」
「はい」
「…………いや。いい」
訊けばよろしいのです!
お名前でも、お家でも。これだけ長く夜会の盆を運んでいれば、そのくらいは私の頭に入っております。
ですが、訊かれないことにはお答えできません。給仕ですので。
そもそも坊ちゃまは、私の名前もご存じありません。給仕の名前など、ふつうは覚えないものです。
一方のお嬢様はといえば、向かいの柱にどなたがいらっしゃるのか、まるでお気づきでないご様子でした。
焼き菓子を二枚、大事そうに召し上がって、ドレスについた粉を払って、帰っていかれる。
三度目の秋などは、灰色がかった緑のドレスでいらして、ますます柱と見分けがつかなくなっておいででした。
似合っておいででしたけれど。
それを坊ちゃまがまた、向かいの柱から熱心にご覧になっている。手帳に何か書いている。
私はそのあいだを、盆を持って行ったり来たりする。
三年でございます。
四十年の給仕人生で、これほど足の疲れる三年はございませんでした。
◆
そして、あの秋の夜会です。
最初の盆を回して厨房に戻ったところで、トマがまた妙なことを訊いてきました。
「ジョルジュさん。さっき子爵夫人と、何話してたんですか?」
「何も」
「嘘だあ。西の柱の前は焼き菓子が二回通るって、言ってましたよね? 僕、横で聞いてましたもん」
「本当のことだからね。西の柱の前には扉が二つある。右から焼き菓子、左から果物。どちらもあの柱の前を通る。嘘はひとつもないよ」
「いや、だから、なんでそれをわざわざ子爵夫人に……あの方、娘さんをぞろぞろ連れてますよね。娘さんのお友達もいて、そのお母様たちもいて」
「おや、そうだったかね」
「ジョルジュさん、分かっててやってますよね?」
私は盆を持ち直しました。
「トマ。お客様にそう訊かれたら、何と答えるんだったかな」
「手前は、何も存じません」
「よろしい」
そのころにはもう、西の柱の前は、扇と羽根飾りでいっぱいになっておりました。
なかなか華やかな眺めでございました。
厨房の扉の隙間から覗いていると、坊ちゃまが柱の陰から押し出されるように出てきて、困ったお顔であたりを見回していらっしゃいます。
右を見て、左を見て。
それから、広間の向こう側をご覧になりました。
坊ちゃまは、しばらくそのままお動きになりませんでした。
皿を持つ手に、ぎゅっと力が入ったのが、扉の隙間からでも分かった気がいたしました。
そうして、歩き出したのです。
東へ。
柱をひとつ、またひとつと過ぎて――。
「行った……!」
思わず声が出てしまい、トマがぎょっとしてこちらを見ました。
「ジョルジュさん、今なんか言いました?」
「何も言っていないよ」
私は焼き菓子を盆にのせました。
いつもより丁寧に。いつもより一枚多く。
頃合いを見て扉を出ると、東の柱の両側から、人がはみ出していました。
左にお嬢様、右に坊ちゃま。
柱一本ぶんの陰に、二人でぎゅうぎゅうに収まっていらっしゃいます。隠れ場所としては、正直に申し上げて、あまり出来がよくございません。
お嬢様は、ぱっとこちらをご覧になります。坊ちゃまは、ばつの悪そうなお顔で目をお逸らしになりました。
私は、片方の眉だけを上げました。
両方上げると、顔が笑ってしまいそうだったからです。
「おや。今夜はお二人分ですな」
お嬢様は、こちらの方とは今お会いしたばかりで、と慌てておっしゃいました。
ええ、存じております。三年かかりましたからね。
――いえ、存じません。
ついでに、坊ちゃまがいつもは西の柱にいらっしゃることを、少しだけお伝えしておきました。そのくらいは罰も当たらないでしょう。
あちらは今夜、奥様方が陣取っておいでで、お気の毒なことです――とも申し上げました。嘘はひとつも申しておりません。
次の盆を回しに東の柱へ戻ったとき、私は柱の少し前で足を止めました。
柱の陰で、お嬢様が自分の皿から焼き菓子を一枚取って、坊ちゃまの皿に載せていらっしゃるところでした。
あの一枚は、私が多く置いた一枚でございます。
坊ちゃまは焼き菓子とお嬢様のお顔を見比べて、困ったようにお笑いになりました。
布の下から焼き菓子を受け取った、あの夜と同じお顔でした。
盆を持つ手が、また少しだけ揺れました。
これで二度目でございます。
◆
ここから先は、本当に何も存じません。
坊ちゃまが侍従に連れていかれて、広間の真ん中に輪ができて、王妃様が「今夜こそ」とおっしゃって。
坊ちゃまが輪の中をぐるりと見回して、輪の外へ出ていらしたところまでは、厨房の扉の隙間から、たまたま見えておりました。
東へ歩いていく坊ちゃまの背中は、布の下で膝を抱えていたころより、ずいぶん大きくなっていました。
私はそのとき、粉砂糖の小鉢を、盆の縁に置きました。
秋の夜会では、焼き菓子に粉砂糖を添えるのが決まりでございます。盆の縁に置いたのは、その夜はたまたま、そこが空いていたからです。
扉を開けた、ちょうどそのときでした。
「閣下! 一曲目は私と」
薔薇色のドレスが、まっすぐこちらへ駆けてきました。
お嬢様の妹君です。真珠の髪飾りがいくつも、しゃらしゃらと揺れておりました。
夜会の大広間で、ドレスで走る令嬢。
これまでにも、何度か見たことがございます。
だいたい、どなたかとぶつかります。
盆を持つ者にとって、これ以上の大敵はございません。ですが、こちらも四十年です。かわし方には、少々自信がございます。
右足を半歩引く。盆は肘から先だけで回す。肩は動かさない。目はお客様ではなく、盆の上だけを見る。
ひらり。
ドレスの裾が、私の膝の先をかすめていきました。
焼き菓子はひとつも落ちておりません。盆も水平のまま。
完璧でした。
ただ、盆の縁にのっていた小鉢だけが、ふわりと宙に浮きました。
ああ、と思いました。
思っただけで、手は出しませんでした。手を出せば、盆が傾きます。
白い粉が、薔薇色のドレスと真珠の髪飾りに、さらさらと、まんべんなく降りかかりました。
見事な降りかたでございました。初雪でも、ああはまいりません。
「これは大変な失礼を。お嬢様、お召し物が」
私は深々と頭を下げました。
いつもより、だいぶ深く。
顔を上げたら、きっと笑っておりました。
頭を下げたまま横目で見ると、伯爵夫人が、粉だらけの妹君と柱の前のお嬢様とを見比べて、口を開けたまま固まっていらっしゃいました。
その向こうで、坊ちゃまがお嬢様の手をお取りになるのが見えます。
楽団が、最初の曲を始めました。
盆の上のものを落としたのは、後にも先にも、あれ一度きりでございます。
◆
夜会が終わったあと、厨房で給仕長に呼ばれました。
給仕長は、私よりずっと年下です。盆の持ち方を教えたのは私でございます。
「ジョルジュ」
「はい」
「小鉢」
「はい」
「なぜ縁に置いた」
「空いておりましたので」
給仕長は、長いため息をつきました。
「伯爵家から苦情が来るかもしれん。分かっているな」
「はい」
「わざとか?」
「手前は、何も存じません」
厨房の隅で、トマが鍋を落としました。がらんがらんと、ひどい音。
翌日の昼、王妃様のお使いが厨房に見えて、給仕長に短いお手紙を渡していかれました。
給仕長はそれを読んで、しばらく天井を見上げて、それから私のところへやって来ます。
「ジョルジュ。昨夜の件は、なしだ」
「さようでございますか」
「それと、来年の粉砂糖も、あのくらいの量でいいそうだ」
はて。何のことやら、私には分かりかねます。
分かりかねますが、その日のまかないの焼き菓子は、私の皿だけ一枚多くございました。
◆
次の年の、夏の終わりのことです。
坊ちゃまが、厨房へいらっしゃいました。
公爵閣下が厨房へ。前代未聞でございます。料理人たちは鍋を持ったまま固まり、トマはまた何か落としました。
坊ちゃまは上着の内側から手帳を出して、ある頁をちらりと確かめてから、お顔を上げられました。
「……ジョ」
そこで口を閉じて、手帳をしまってから、おっしゃいました。
「すまない」
「はい、閣下」
「今年の秋の焼き菓子は……その、何の焼き菓子だ」
「胡桃でございます」
「そうか。胡桃か。それはいいな。妻が好きなんだ」
「はい」
「…………」
「…………」
「それで、だな」
坊ちゃまは昔から、本題の前に必ず焼き菓子の話をなさいます。
「東の柱を、取っておいてもらえないだろうか。秋の夜会の、あの柱の陰を」
「隅に、予約はございませんが」
「知っている。妻にもまったく同じことを言われた」
――妻。
盆を持っていなくて、本当によかったと思いました。
「承知いたしました」
承知はいたしましたが、王宮の大広間に、柱の予約の札などございません。一度も作ったことがないのです。
仕方がないので、厨房の板切れを削って、自分で作りました。
字を書くのは、盆を運ぶよりずっと難しゅうございます。
綴りを何度も書き損じていると、トマが横から覗きこんで「ジョルジュさん、そこ、字がひとつ多いです」と言いました。
見習いのくせに、余計なところばかり目に入る子です。
誰に似たのでしょう。
そうして、秋の夜会の夜。
私は東の柱の陰に、小さな札を立てました。
――モンテルラン公爵夫妻のお席
少し曲がっておりました。直そうと手を伸ばしたところで、うしろから声がかかりました。
「ジョルジュさん」
振り返ると、お嬢様と坊ちゃまが並んで立っていらっしゃいました。
もう、柱の両側からはみ出してはおりません。
お嬢様のドレスは去年と同じ灰緑で、けれど裾を詰めた跡がございません。
「隅に予約はないんじゃなかったんですか?」
お嬢様――いえ、奥様は、くすくすと笑っておいででした。
私は脇に置いていた盆を取って、持ち直しました。
「四十年やっておりますが、初めて承りました」
奥様が、ふわっと嬉しそうなお顔をなさいます。
その隣で、坊ちゃまが少しだけ背を丸めて、私の顔をご覧になりました。
盆ではなく、私の顔を。
「ありがとう、ジョルジュ」
名前を呼ばれました。
八つの年から数えて、初めてのことでございます。
盆を持つ手が揺れました。
今度は、少しどころではございませんでした。
三度目でございます。
焼き菓子は、ひとつも落としませんでしたけれど。
私は一礼して、盆を広間へ運びました。
ああ、そうそう。粉砂糖の小鉢のことでございますか?
あれは、たまたまそこが空いていたのでございます。
手前は、何も存じません。
広間を横切るとき、ふと、向かいの柱に目をやりました。
今年の坊ちゃまの柱には、どなたもいらっしゃいません。
――三十年前にも一度、あの柱の陰で、似たようなお二人を見たことがございます。
それはまた、別のお話でございますが。
(了)
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