45 穂刈澄香
45 穂刈澄香
穂刈澄香です。
佐和山さんが地域おこし協力隊を辞めた(正確には解雇なのですが)後も、私は博物館に勤め、地味に学芸員の仕事を続けています。
佐和山さんと稲村さんと高野さんと私の四人で切支丹の遺跡を巡り、切支丹伝説による町おこしの話をしていた頃が、懐かしく思い出されます。私にとって、とても楽しい日々でした。
私は佐和山さんがいなくなってからも、細々と黒鷹町の切支丹伝説の研究を行っています。『ユニコーン』で稲村さんが山百合集落の人たちに聞き取り調査をされて書かれた記事の中に、江戸時代初期に2万人の切支丹が住む宗教都市の黒鷹が一夜にして灰燼に帰したということが載っていました。山百合集落とそこに住む人々が消えてしまったことから、この証言の信憑性が疑われるところですが、私はこの点について一人で調査を続けています。その結果をご報告させていただきたいと存じます。
以前、佐和山さんと高野さんが山百合集落の聞き取り調査を終えて山形駅に向かう途中に博物館に寄ってくださって、江戸時代初期に黒鷹で大火があったというお話を伺った際に、私が「切支丹屋敷跡」に大量の炭を含んだ地層があるということを言ったことを覚えておいででしょうか? 私の話は『ユニコーン』にも少し触れられていましたよね。
あの炭を町の消防署の人に見せたところ、燃えたことによってできた物に間違いなく、おそらく大量に出土するとすれば、火事によってできた物と考えても差し支えないのではないか、という貴重なご意見をいただきました。そこで、私は「切支丹屋敷跡」の周辺を縦横に一尺幅(これは昔の寸法の取り方を基準にしました。切支丹であっても西洋のメートル法ではなく、建築には尺を使ったと考えたのです)の紐を渡してメッシュを作り、交点の土を採取して、炭の存在を確かめました。
すると、面白いことがわかったのです。炭の分布から「切支丹屋敷」の輪郭がくっきりと浮かび上がってきました。炭の量からどこに柱があったのか、柱の太さはどのくらいかまでわかってきました。祭壇や竈の位置まで推定できました。この調査を進めれば、「切支丹屋敷」の三次元的復元に役立つものと考えられます。さらに、祭壇と思われるところを集中的に調査すれば、遺物が出土する可能性が高いと考えられます。
「切支丹屋敷」が全焼したことはほぼ明らかになりましたが、一軒の家が燃えたからと言って大規模な「黒鷹の乱」があったことの証明にはなりません。そこで、私は「切支丹屋敷」を中心にして周辺の地層を調べてみることにしました。人の敷地に入って行って庭を掘らせてもらわなければならないこともあったり、雑草が生い茂った荒地に入っていかなければならないこともあったりで、私一人では遅々として進まず、完成に至っているわけではありませんが、これまでの結果をかいつまんでご報告させていただきます。
結論から申しますと、江戸初期に黒鷹の大火はありました。「切支丹屋敷」の周辺から大量の炭が出てきました。ということは、「切支丹屋敷」を中心にたくさんの家があったことが推測されます。「切支丹屋敷」のような家の形までは調査できていませんが、いつかはやってみたいと考えています。
宗教都市が会ったことを思わせるほど、炭が出る範囲は広大です。「切支丹屋敷跡」のある最上川右岸だけでなく、対岸の左岸地域からも炭が検出されました。このことは火事が右岸から左岸に、あるいは左岸から右岸に飛び火したのか、はたまた両岸にあった家にそれぞれ付け火があったことを示しているのかもしれません。
いずれにしても、炭の分布から見て、かなりの家が建っていたことは間違いないでしょう。もしかすると、山百合集落の人々が言っていたように、2万人規模の切支丹が住んでいたことを伺わせるものかもしれません。そして、黒鷹の切支丹都市に火がつけられて、一夜のうちにその都市は消滅したのかもしれません。山百合集落の人たちが言っていたことは真実なのかもしれないのです。
山百合集落の人たちの話が本当だとすると、かれらは天草四郎と一緒に島原から流れて来た12人衆の末裔なのでしょうか? 天草四郎伝説は本当にあった話なのでしょうか?
江戸時代初期に黒鷹で大火があったことが真実であったとしても、それが切支丹の都市であったと断定できないことも重々承知しています。切支丹のいない都市だってありえたのですから。それに、大火があったとしても、残念ながらそれが一日に起こったことであることも証明していません。地層の調査では、百年の間に色々なところで火事が起こったことを示しているに過ぎないかもしれないのです。
さらに、大量の炭の出土がただの山火事の跡だとしたら、身も蓋もありません。ですが、私も学芸員の端くれですので、先入観を持たずに客観的な調査・研究を進めてまいりたいと存じます。
つづく




