迷子
夕暮れ時。
コンコン、とドアを叩く音に、箒を手にしたヒスイは振り返った。
数日前の晩餐の後、ジェイドにしっかり料理を教えて貰え、との父親の言葉でにより、正式に店で働く事になった彼女である。
今の所は開店準備をしながら、少しずつ料理の基礎を習っている。
そんな訳で、店の掃除をしていたヒスイは、首を捻る。
ジャスパーが森から帰ったかとも思ったが、彼はノックなどしない。
ジェイドは、二階にある厨房で料理の仕上げにかかる頃だ。
無論開店していないので、客が来るとも思えなかった。
他に心当たりは無かったが、ヒスイは戸を開ける。
そこには数日前に見た、奇妙な生き物がいた。
焦げ茶の三つ揃えを着て、頭にはシルクハットを被り、杖を持つ灰色の縞猫、ケット・シーである。
ヒスイが目を見張っていると、ケット・シーはシルクハットを取り、丁寧にお辞儀した。
「こんにちは、ヒスイ様」
「え、どうしてここが?」
「お宅に伺ったのですが、いらっしゃいませんでしたので、近所の猫に聞いて参りました。お忙しい中、突然の訪問で申し訳ございません」
「いや、それは良いんだけど」
ナイトからの礼は受け取ったし、質問にも答えた筈だ。
一体、何の用事なのだろうか。
ヒスイは眉を寄せる。
「英雄のご神木の事なら、前も言ったけど心当たりは無いわ」
これだと疑ったものは、ヒスイの勘違いであったのだから。
「いえ、ご神木の件はもう良いのです。本日は我らが王より、私の名前をヒスイ様にお教えする事を、許可いただきましたので、参った次第です」
嬉しそうに金色の目を細めるケット・シーだが、ヒスイには、その重要性がいまいち分からなかった。
戸惑いながら頷くと、ケット・シーは胸を張る。
「私の名はセロ。もし、猫達がヒスイ様に何か困った事をしでかした時は、私の名をお呼びください。駆け付けて事をお納め致します」
言う事を言って、セロと名乗ったケット・シーは再び丁寧に礼をする。
そしてシルクハットを被り、前回と同じく煙の様に姿を消した。
残されたヒスイはポカンとしたまま呟く。
「何だったの」
そこに、奥の扉からジェイドがやって来た。
「最近陽が落ちるのも早いですし、掃除が終わったら今日はもう帰っても良いですよ。……どうかしましたか?」
ドアの前で箒を持ったまま突っ立っているヒスイに、ジェイドは聞く。
ようやく我に返ったヒスイは、振り返ると言った。
「今、ケット・シーが来たの」
「何ですって!」
ドアに駆け寄るジェイドに、ヒスイは首を振る。
「もう行っちゃったわ」
「そうですか」
店まで来たのに、後一歩の所でゲット・シーを見る事も叶わなかったジェイドは、ガックリと肩を落とした。
その様子を見て、ヒスイは思わず笑う。
「ホント、ジェイドってもふもふが好きね」
恨めしそうにこちらを見るジェイドに、ヒスイは箒を渡した。
「掃除は終わったから、私は帰るわね」
また明日、と言いながら彼女は踵を返す。
ジェイドはお疲れ様、とヒスイがドアの向こうに消えるのを見送ってから、渡された箒を元あった場所に戻した。
店内を見回すと、粗方片付いてはいるが所々に不備が見える。
大らかな性格の彼女の事だ、見落としていたに違い無い。
明日彼女が来たら注意しなければ、そう思いつつ、窓の隅の拭き残しの仕上げや椅子の拭き上げをしていると、椅子の座面に置いてあるものが目に入った。
羊毛で出来たベージュのストールである。
そう言えば、今日彼女が来た時は、これを羽織っていた。
見えない所に置いた為、忘れたのだろう。
今ならまだ、追い掛けても直ぐに捉まる筈だ。
ジェイドはストールを手に、店を出る。
ヒスイの家は、バル・キングフィッシャーからそう遠くない。
女の脚でも、三十分そこそこで辿り着ける距離だ。
ジェイドは早足で家までの道程を行き、誰にも会わないままヒスイの家の前に出た。
家の中には、灯りが点いていない。
戸を叩いてみても、反応は無かった。
どこかで追い越したのだろうか。
しかし、道がそう入り組んでいる訳でも無い。
ジェイドが知らない近道があったとしても、それなら彼女の方が早く帰っていなくてはおかしい筈だ。
空はもう真っ暗で、街灯など無い通りは暗く静まり返っている。
街の中に魔物が入って来る事は殆ど無い。
ただ、人間の中には時折、魔物より厄介な者もいる。
肝が冷える想像に、ジェイドは苦い顔でストールを握り締めた。
と、隣家の戸が開く。
「あれ、ジェイド?」
ジェイドが顔を上げると、ヒスイが目を丸くしていた。
隣のおかみさんにありがとう、お休みなさいと伝えて戸を閉めたヒスイは、言葉の出ないジェイドに近寄る。
「お隣の奥さんがね、うちが父さんと私だけなのを知って、色々世話を焼いてくれるのよ。今日も、色々貰っちゃった」
そのエプロンには、パンに果物や野菜の類が包んである様だ。
自宅の戸の前まで来ると、ヒスイはエプロンから一つの柑橘を取り出した。
「これ、珍しいものなんですって。お店に出す程の数は無いけど、良かったら持って帰ってジャスパーと食べ」
言い終わらない内に、ヒスイの頭上で派手な音がする。
ジェイドが、掌を戸に叩き付けた音だった。
目を見張ったヒスイの眼前に、銀色の瞳が迫る。
その怒った様な表情は、ヒスイを凍り付かせるのに充分だった。
「ヒスイ」
「は、はい」
「店から帰る時は、寄り道しない事。今後は暗くなったら、私かジャスパーが送ります。良いですね」
静かで冷たい声に、ヒスイは小さく頷く。
それを確認すると、ジェイドはストールをヒスイに押し付け、身体を離した。
その背中が遠ざかり、角を曲がって消える。
ヒスイは、魔法が切れた人形の様にその場にへたり込んだ。
手の中の柑橘とエプロンに包まれた野菜が、石畳に転がる。
「びっくり、した」
顔を赤くしたまま、しばらく彼女はジェイドが消えた方を見つめていた。




