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日が出ていて過ごしやすい気温と日差しの中。
ヴァルトス陛下が王宮に、後宮に上がったばかりの妃であるシュナリーゼを招待した、というのは昨日のうち後宮に広まった。知らせを聞いたシュナリーゼは女官のマリアにどのドレスを着るのか、どんな髪型にするのかを相談し、シュナリーゼのおしとやかな雰囲気を崩さないパステルブルーのドレスに、ハーフアップの髪型にすることになった。その間どんな話をしようかずっと考えていたシュナリーゼは自分が王と会うことを楽しみにしていることに気がついたのは、ベットに入った夜の事だった。
「シュナリーゼ様、嬉しそうですわ」
先にお茶会の会場である薔薇の間に案内し、シュナリーゼを席につかせたマリアがそう言うと、シュナリーゼは笑顔を見せる。
「ええ。一度しかお会いしてませんけど、陛下は素敵な贈り物をしてくださいます。直接お礼を言える機会ができて、お話もできると思うと、楽しみです」
言葉にした事は全て真実。どんな服を着ようか、どんな髪型をしようかと考えるだけでも楽しかったが、何よりも直接あって話ができると考えるだけで楽しみで仕方がなかった。だがベットに入った時、シュナリーゼはふと思った。
……どうして私、こんなに楽しみにしているかしら。
シュナリーゼは王の事をそこまで知らない。会ったのは後宮に入る一度きりで、あとはシュナリーゼがこっそり観察していただけ。
噂では’氷の王’と呼ばれるほどに表情は厳しいものから動く事はせず、命を下すときも冷酷であるという。しかし、シュナリーゼはそれが真実の姿ではない事を知っている。
「待たせたか、シュナリーゼ嬢」
「!いいえ、陛下。この度は招待ありがとうございます」
半ば慌てて入室してきたヴァルトスは、シュナリーゼの姿を見つけるとすぐに席によって来たので、シュナリーゼは慌てて立ち上がり礼をとった。
お互いに席につくと、女官達はお茶やお菓子をテーブルに広げていく。その様子を見ながら、ヴァルトスはシュナリーゼに尋ねた。
「後宮での暮らしはどうだ?何か不自由はないか?」
「不自由なんて、とんでもございません。マリアにも良くしてもらっていますし、以前に比べればずっと……自由にできますので。楽しく過ごしております」
シュナリーゼのその言葉に、王は少し首を傾げる。
「以前は自由にできなかったのか?」
そう問われてシュナリーゼははっとした。素直に楽しみだったお茶会だったので、気を張る事をすっかり忘れていたのだ。
「陛下の妃になる事が決定してから、様々と父に勉強させられたのです。毎日レッスンでスケジュールが埋まっていて……。恥ずかしながら、私、体を動かす方が好きで、じっとしているのが苦手だったので、おしとやかな振る舞いができるように、と」
「なるほど……。しかし、貴女は俺から見ればよく出来た令嬢だと思うが」
「そ、そうですか?陛下がそう思われるのでしたら、嬉しいです」
どうやらなんとか回避できたみたいだ、とシュナリーゼはホッとすると、ヴァルトスの様子を改めて伺った。すると、彼もシュナリーゼの方を向いて緩めた表情をしている。思わず彼女はドキリとした。……なんだろう、この動機。そうシュナリーゼが思っていると、マリアが目の前にお茶を差し出した。
「甘露茶でございます」
「ああ、これがあの東の国の茶か」
ヴァルトスが興味深そうにお茶を見ていると、我に返ったシュナリーゼはそうだ、とヴァルトスに告げた。
「陛下、いつも贈り物、ありがとうございます。」
「気に入ってくれていると、嬉しい」
「いつも楽しみにしています。ただ、お忙しい陛下のお手を煩わせているのではないかと少し申し訳ない気持ちになりますが……」
「そんな事はない。……いや、そうだな。そう思うのなら、一つ聞きたい事がある」
「何でしょうか?」
「何か、欲しいものはないか?」
ヴァルトスの言葉に、シュナリーゼは少し固まった。というのも、そんな事を尋ねられるのが初めてであったからだ。それは少しの事だったのだが、今度はその答えに窮してしまう。……そんなこと、今まで考えた事もなかった。
「シュナリーゼ嬢?」
心配そうにヴァルトスがシュナリーゼの様子を伺うので、シュナリーゼは慌てて笑顔を作った。
「い、いえ。しかし、陛下のお手を煩わせるわけにはいきませんので、どうかお気になさらないでください」
「だが、俺は今貴女に贈り物をするくらいしかできない。そう思うのならば、欲しいものを言ってほしい」
王の中でシュナリーゼに毎日贈り物をする事はどうやら決定事項らしい。それからもどうにかしてシュナリーゼが遠慮しようとしても、ヴァルトスは引かず、シュナリーゼは困惑する。……もしかして、彼は強引な性格なのかもしれない。しかし、シュナリーゼはやはり欲しいものなどは思いつかなかった。もともと物欲が無いし、贈り物をされたのだって初めての経験なのだ。
「ええと、……それなら、庭園を見たいと思います」
なんとか絞り出した答えは、それだった。
「庭園?」
「この前マリアに聞きました。王宮の庭園は様々な花が咲いていると。一度見てみたかったのです」
シュナリーゼははにかみながらそう答えた。自分の望みを他人に言う事はどこか気恥ずかしいな、と内心ごちる。しかしそのシュナリーゼの返答に、ヴァルトスは少し不満の色を見せた。
「それだけでいいのか?ドレスや、宝石がついた装飾品は?」
ヴァルトスは女性にそういったものを乞われたことしかなかったのだ。だからシュナリーゼのその返答は拍子抜けしてしまうものであり、物足りない。他の令嬢に求められても辟易するだけだったが、目の前のこの令嬢には、もっといろいろと求めてほしいのだ。そんなヴァルトス内心を知ってか知らずか、シュナリーゼはヴァルトスの言葉に答える。
「ドレスは既に多く持っています。しばらくは困りませんし、宝石は私には不相応です」
「そんな事はないと思うが」
「いえ、宝石は綺麗なので、眺めているのは好きなのですけど、実際につけてみるとどこか違和感があるというか……。」
言っている事は事実。貴族の令嬢の振る舞いが出来るとしても、シュナリーゼが育って来た環境は庶民と同等のものだ。それに、仕事柄そう言ったものは邪魔であるのだ。身につけるとそこに違和感を感じてしまうし、諜報を行うときに隠密であれば音がなってしまう可能性もあるので普段から身につけなかった。だから、装飾品は身につけることに少しの抵抗がある。
「……そうか」
シュナリーゼの答えに、やはりヴァルトスは物足りないような顔をするしかなかった。
お茶会は、ヴァルトスがシュナリーゼの望む庭園に次の日案内する、という次に会う予定を決めて終了した。シュナリーゼとしては庭園に行く許可を貰えれば十分だったのだが、王が誘ってくれたことにどこか嬉しさも感じる。またお話する事が出来ると考えるだけで心が踊っているのだ。
「……どうしてだろう」
お茶会が楽しみだったのもそう。王と直接会って、話をするだけで嬉しい。表情が緩んで、微笑んでくれたら嬉しい。明日また会って、話が出来ると考えるだけで気持ちが浮き足立つ。早く会いたい。
そんな気持ちは、シュナリーゼにとっては初めてのことだった。今までにこんな気持ちになったのは一度もない。けれど、考えてもその答えは浮かんでこなかった。
「陛下はどんな方なのかしら」
ぽつり、とシュナリーゼは呟く。それを部屋でシュナリーゼの髪を梳かしていたマリアが聞き取ると、微笑みを浮かべた。
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翌日、かたりという音に目をさましたシュナリーゼは、寝ぼけながらもその音がした方に視線を向けた。マリアが何か箱を持って室内に入ってきた音のようだ。
「シュ、シュナリーゼ様、起きていらしたのですか」
「今起きた所よ。……マリア、その箱は?」
疑問に思ったことを何と無しに聞いたシュナリーゼに、マリアはびくりとする。
「これは先ほど掃除をしたものを処分しようと箱に入れたのです。おきになさらないでください」
動揺をしているマリアに、シュナリーゼははっきりしてきた意識の中考える。そしてすぐにその理由に行き当たった。
「マリア。その箱、もしかして他の妃様からの贈り物かしら」
びくり、と再びマリアは方を震わせる。その様子にシュナリーゼは、ああ、きたのか、と思った。
「……その通りなのですが、シュナリーゼ様にお目にかけるようなものでもありませんので」
「いえ、みせてくれる?」
そう言ってシュナリーゼはマリアの方に近づき、持っている箱を覗き込んだ。
「シュナリーゼ様!いけません!」
慌ててシュナリーゼの視界から遠ざけようとマリアは動くが、シュナリーゼはそれを静止した。
「大丈夫。慣れてます」
そう微笑んで言うシュナリーゼにマリアはなにも言えなくなってしまった。
その箱の中に入っているものを見て、シュナリーゼは呆れるように溜め息をついた。それは小鳥が無惨にも横たわっている姿だった。……動物は関係ないだろうに。
シュナリーゼは貴族の令嬢達との付き合いもここ何年かで慣れていたし、ライトネル家での兄や姉達のいじめによって、このような行為には慣れている。だから、ここ最近王から贈り物をいただいていて、おまけにお茶会にまで誘われた自分にこの後宮内で向けられる感情は良いものでないことは十分理解しているのですぐに察知することができた。これは、他の妃たちがやっているのだと。
「マリア、その小鳥、埋めてるような場所はある?」
「まさか、ご自分で埋めるおつもりですか?」
「もちろん。私のせいでこの小鳥は命を奪われたのだもの」
「シュナリーゼ様のせいではありません!元はと言えば、貴女に嫉妬した他の妃たちが……!」
「あまり確証がない事を言うのは良くないわ。」
そう言ってマリアをなだめると、シュナリーゼは箱を持って後宮の人目につかない場所へと向かった。ここなら大丈夫だろう、とシュナリーゼはその土を掘って小鳥を埋める。マリアは終始止めるように言っていたが、シュナリーゼはその上に手近にあった石をのせて、簡単ながらお墓を作った。
それから部屋に戻って朝食を食べた後に身支度をしていると、すぐに後宮の女官長が知らせにやってきたので、シュナリーゼは応接室へと顔を出したのだが、そこで一度固まることになる。
「シュナリーゼ嬢」
「へ、陛下が自ら私を迎えに参ったのですか?」
「ああ。今日は早くに仕事が終わったからな。……行こうか」
ヴァルトスはシュナリーゼに向かって手を差し出した。それにシュナリーゼは狼狽えながらも手を添えると、ヴァルトスはふっと表情を緩めた。
(ああ、また笑ってくれた)
胸が高鳴るのと同時にシュナリーゼはそう思う。先ほどまで少し落ちていた気分がすっと向上した気がした。
そのまま王宮の庭園まで案内されると、シュナリーゼは感嘆の声を上げる。
「綺麗……こんなにたくさんの花が咲いているのは初めてみました!」
庭園に咲いているのは薔薇が主であるが、それでも様々な色と種類が咲き誇っている。その他にも花は咲いているのだが、シュナリーゼはまっすぐにある花を指差した。
「陛下、あの白い花の所まで行ってくださいませんか?」
「アイリスか……」
ヴァルトスはシュナリーゼが言う方向に連れて行ってくれた。近づいてから、シュナリーゼは顔を綻ばせて言う。
「陛下、アイリスをご存知でしたか?これは私が一番好きな花なのです」
そんなシュナリーゼを見てヴァルトスは自分も頬を緩めた。
「ああ、アイリスは特に可憐な花だと思う。……それに、この花は、俺を貴女に巡り会わせてくれたものだからな」
「え?」
「2年前、ダラムアト伯爵で社交パーティーが開かれただろう。その事件が起こる前、俺はあなたを白いアイリスが咲き誇る庭で見たのだ」
その言葉を聞いて、シュナリーゼは普段見せない動揺を見せた。
ダラムアト伯爵は、シュナリーゼにとっては初めての暗殺対象だった。黒狼にいた時には暗殺は長であるウルガナからキツく止められていたから。だが、自分の手で人を殺めるのはいくら彼女が納得していても、罪悪感が募るものだった。だから父の命とはいえシュナリーゼは自分のしてしまった事を悔い、せめて花だけでも暗殺してしまった相手に送ろうと庭に行き、噴水に花を浮かべたのだ。
まさか、その様子を見られていたとは。シュナリーゼの様子に疑問を感じたヴァルトスは問いかける。
「シュナリーゼ嬢?大丈夫か?顔色が悪い」
「……っ!申し訳ありません。まさか、そこに陛下がいらっしゃったなどと思いもしなかったので、驚いただけです。私、あの夜会は早くにお暇していましたので、陛下に気がつかなかったのですね」
「……そうだったのか」
「その時に陛下にお会いしていたら、もっと違った形で陛下のお役に立てたのかもしれませんね」
そう言って少し陰りのある笑顔を見せるシュナリーゼに、ヴァルトスは不安を覚えた。貴族の令嬢が後宮に上がることは、名誉なことだ。それに王を支える立場になることでもある。彼にとっては既にシュナリーゼは心休まる場所になりつつあるのに、もっと違う形で役に立てたかもしれない、というのはどういう事なのだろうか。……妃になる事はなかったのか、妃になるのは彼女にとって良い事ではなかったのか。
考え込んで黙ってしまったヴァルトスを見て、シュナリーゼは自分は何かまずい事を言ってしまっただろうか、と慌てて考える。シュナリーゼにとっては先ほどの言葉は本心だったのだ。
後宮入りして、初めて王を目の当たりにして、その彼の美しさに圧倒されて緊張した。父の命で王を観察して、彼の周りには心を許せる人間が少ないことに気がつき、それでも自分の手紙でその王を笑顔にできると解った時には、その少ない部類の一人になれるかも知れないと人知れず嬉しかったのだ。気を許せる人間が少ない辛さというものは、シュナリーゼも良く理解していたから。後宮に入って日が浅いのにそう感じるのにそう時間がかからなかったということは、恐らくそのパーティーの時に会っていたら、もっと早い段階でそう思っただろう。だからこその言葉だったのだ。
「陛下?あの、私のようなものがお役に立つなど、差し出がましかったでしょうか」
そのシュナリーゼの言葉に、ヴァルトスはハッと我に帰った。
「い、いや、そう言う事ではなく。……貴女はもしかして望んで後宮に入ったのではないのかと思って」
確かに、シュナリーゼにとって後宮に入ることは父の命令であったが、父の目が届きにくい場所に来れる、父の手の内から離れる機会だと思って望んできた。実際は手紙で父にいろいろと干渉されてはいるが、父の下にいたときと比べればずっと身軽に行動できる。それに。
「私、陛下にお会いできて良かったと思っていますし、もっと陛下とお会いして、お話をして、陛下の事を知りたいと思っています」
笑顔が見たいとシュナリーゼが思う人間は、王が初めてだったのだから。
シュナリーゼにそう言われたヴァルトスは一瞬惚けた顔をして、それから頬を緩めた。……ああ、また微笑んでくれた。
「それなら、嬉しい」
シュナリーゼは微笑みながらそう言ったヴァルトスに、心が踊った。この人にはやはり、笑って欲しい。
私の存在が彼を笑顔にさせるのならば、いくらでもそばに居たい。助けになりたい。シュナリーゼはヴァルトスの笑顔を見て、そう強く感じた。
心の奥底に沈めた罪悪感が少しずつ沸き上がっているのに気づかない振りをして。