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つつがなく晩餐を終えたのち、シュナリーゼは後宮の与えられた室でナイトドレスに着替え、自分付の女官を下がらせた。それから体の力を抜くようにベットに腰かけて自分の手のひらを見つめる。
「私は、……大丈夫」
まるで言い聞かせるように呟く。
彼女の脳裏に浮かんできたのは、後宮に入る前に乗った馬車の中での父エーギランとの会話だった。
「お前はこれから後宮に入り、一年の内に帰ってくるんだよ?解っているね?私の可愛いシュナリーゼ」
「……解っております、お父様。」
その言葉に満足したのか、エーギランはシュナリーゼを胸に抱き、頭を撫でる。それにシュナリーゼは父に気づかれないように溜め息をついて、無表情でその腕に体を預けた。
ライトネル家は伯爵の位にあり、シュナリーゼの父であるエーギランはその当主だ。16年前に生まれたシュナリーゼには既に兄が1人姉が1人居たが、彼等とは母親が異なっていた。
彼女の母はとても美しかった。侍女としてライトネル家に使えていた彼女の母を見染めたエーギランは強引に自分の物とし、その時にできた子こそ、シュナリーゼだった。
このようなゴシップは政略結婚が主な貴族の間ではそれほど珍しい物ではない。だが、シュナリーゼにとって不幸だったのは、ライトネル夫妻の結婚が侯爵家の令嬢であったライトネル夫人が望んだものであったことだった。
当然、夫人はシュナリーゼとその母の存在は目障りで、全く面白い存在ではなかった。夫人の息子、娘である兄達にもシュナリーゼは当然の如く疎まれた。
シュナリーゼと母は、夫人達の仕打ちに耐えることしかできない。自分達が有意な立場だと解っているからこそ、酷い疎まれ様だった。そして、彼女が4歳の時、ついに母は心労の為に亡くなってしまい、彼女は頼れる人がいなくなってしまったのだ。すると、夫人や兄達の悪質な苛めは益々酷くなり、頼る者の居ないシュナリーゼは、最終的にライトネル家の主である父、エーギランに助けを求めようと帰宅した彼に近づいた。きっと、お父様なら助けてくれると信じて。
すると、どうだろうか。エーギランはシュナリーゼを見下し、こう言ったのだ。
ーーー下賎の生まれの者が私に近づくな、汚らわしい。
その言葉は、シュナリーゼに大きな衝撃をもたらした。ショックで、ライトネルの屋敷でシュナリーゼは父に会う機会は本当に少なく、会えたとしても言葉を交わしたことは無かった。それは、兄達も同じだった。だが、たまに一緒に家族全員で食事をした際に兄達に父に笑顔を見せ、頭を撫でてもらっていたのを見かけていた。だから、愛されている兄や姉を見て、きっと自分も愛して貰えているのだとシュナリーゼは思っていた。自分達を救ってくれないのは、仕事が忙しいからだ、とも。
だが、この時父に愛されていないことをシュナリーゼは思い知ったのだ。
それからしばらくして、夫人がシュナリーゼと兄や姉をピクニックと称して森へ連れ出した。シュナリーゼはいつもと違い笑顔で近づいてきた夫人に違和感を覚えたが、それよりも夫人が怖くて、逆らうこともせずに黙ってついていった。
あちらに綺麗なお花がたくさん咲いているから見ていらっしゃい、と夫人にいわれ、兄弟達とともにシュナリーゼも向かうと、本当に綺麗な白い花が咲き誇っていた。彼女はそんな景色を見れる機会は本当に少なかったので、違和感も恐怖も忘れ、夢中になって花畑で遊んでいたのだが、しばらくして兄弟たちがどこにもいないことに気がついた。その頃には既に日が暮れて、深い闇が訪れようとしていた。
しばらく待っていてもシュナリーゼを探すような人の気配を感じない。シュナリーゼはそこで漸く、自分がこの森の中に捨てられたのだと理解した。
何が悪かったのだろう、何をすればよかったのだろうとシュナリーゼは考えた。考えても考えても解らず、泣きながら彼女は森の中を歩いた。日が沈んで真っ暗になった時、まるで世界に一人取り残されたようで、怖くなってさらに泣いた。
「どうしたんだい、お嬢さん。迷子になったのかい?」
そう問いかけられて驚いてシュナリーゼが声のした方を向くと、真っ黒なマントをまとった男の人が居て、彼女はさらに怖くなって泣いた。すると、彼は彼女を突然持ち上げたので驚いて目を見開き、泣き止んだ。そして、彼になされるがまま担ぎ上げられて森の中にぽつんと隠されたように佇む家の中へと、シュナリーゼは連れて行かれた。そのまま男は彼女に暖かなスープを出し、湯あみもさせてくれた。
もしかしたら、この人は悪い人ではないのかもしれない。
シュナリーゼは幼心にそう思いながら、助けてくれた黒を纏った男に自分の事を話始めた。
男はウルガナと名乗った。シュナリーゼが森の中に居た経緯を知ると「この家に留まって自分ひとりでも生きることが出来るようになんでもできるようにしよう」と言って様々なことを教えてくれた。そうしてしばらく彼と暮らす内に、シュナリーゼは庶民ができることは一通り何でもできるようになったのだ。
6歳になった時、シュナリーゼはすっかりその穏やかな生活に慣れていた。それまで淑女となるための貴族の子どもとしての過ごし方しか知らなかったが、ウルガナと過ごすことで庶民と関わりを持つようになり、外に出るのが楽しくなって、森では木に登ったり、街に出れば興味のあるものに駆け寄るようなお転婆な娘担っていった。
様々な生活の知識を得て、自分の暮らしに余裕が見えだしたと自覚すると、彼女はふと気が付いたのだ。---ウルガナは何を職としている人なのだろう。
シュナリーゼに様々教えてくれるから、彼女が起きている間は働きに行っていない。ならば、彼女が寝ている間にどこかに行っているのだろうか?
気になり出して、シュナリーゼはとうとう寝ているふりをして夜出かけていくウルガナの後を追った。すると、彼は街の中へと入って行き、ある建物に入って行った。シュナリーゼは息を潜めて彼が入っていった建物の中へと入り、聞き耳を立てた。
「ウルガナ。今夜実行するのだろう?対象はいつもアバン通りを通る。任せたぞ」
「アバン通りか。了解した。」
そう言ってウルガナは再びその建物を出て行った。シュナリーゼは何か嫌なものを感じながらその後を追う。そうしてウルガナに気づかれないように彼を追って、アバン通りに着く角に差し掛かった時に事が起こった。
男のくぐもった声が聞こえて、シュナリーゼはウルガナに何かが起こったのだと思い、慌ててアバン通りに入った。すると、目の前で起こっていたことは彼女が予想していたものと全く逆のものが繰り広げられていたのだ。
見知らぬ男が何か細い紐の様なもので首を絞められており、それを行っている当人は彼女が後を追っていたーーーウルガナだったのだ。
男が息絶え、力なく崩れ落ちるのを見た瞬間、シュナリーゼは短く悲鳴を上げた。それに驚いてこちらを向いたウルガナの瞳は、驚くほど見開かれていて。慌てて彼女に近づいてきたウルガナはシュナリーゼが倒れている男を視界に入れないようにふわりと抱きしめてきた。そして、
「見てしまったんだね」
ぽつりと呟いて、それから出会った時と同じように私を担ぎ上げて、先ほど入った建物へと私を連れて行った。
その建物は’黒狼’と呼ばれる密偵や暗殺を行う組織の者たちの集まる場所として使われているらしい。何が起こっていたのか解らずに混乱していたシュナリーゼに、ウルガナは解りやすく説明してくれた。ウルガナは依頼されて密偵や暗殺を行っている。だが、仕事はすべて何か罪を犯している対象に対してのみ行っており、無意味な暗殺は行ってはいない、と強くウルガナに主張されて、シュナリーゼはどこかホッとした。そして、ウルガナは黒狼の長の立場に居り、先程は暗殺を実行していたのだ、と。そこまで説明した後、ウルガナは私に尋ねた。
「私が怖いかい?」
シュナリーゼはすぐに答えられなかった。確かに人が殺されるのを目の当たりにし、悲鳴も上げそうになった。あの時は確かに怖かったのだ。だけれど、目の前に居るウルガナの優しい所も知っている。ライトネル家に居たときに虐めてきた兄や姉よりも怖さは感じなかったのだ。それを伝えると、ウルガナはシュナリーゼを再び抱きしめてくれた。
それから、ウルガナはシュナリーゼがいつから彼を追っていたのか尋ねてきたので正直に答えると、彼は驚いていた。そして、先ほど暗殺を実行する前にこの建物出会っていた男に彼女がその時に居たことに気付いたか尋ねると、やっぱり気付かなかったらしく、驚いて目を見開いた。
「この子は、気配を消すのが上手い。ウルガナ、この子に技術を教えよう」
「だが、シュナリーゼにこのような仕事をさせたくはない」
議論し始めたウルガナ達を見て、シュナリーゼは考えた。彼らは密偵や暗殺のための技術を彼女に教えようか、黒狼にさせようかと話ている。それが出来るようになったら、一人森に残された時に救ってくれ、生活の術も教えてくれたウルガナへ恩返しができる。そして、ウルガナがもし居なくなっても彼女が一人で生きていくことができる筈だ。
そこまで考えが至ったシュナリーゼは、教えてほしいと彼らに頼み込んだ。ウルガナはあまりいい顔をしなかったが、黒狼の他の者たちは娘が出来たと喜んでくれ、彼女の意思も変わらないと見るや結局ウルガナも承諾したのだった。
シュナリーゼが14歳になった時、暗殺はウルガナがさせてくれなかったが、その技術を自分のものとし、密偵は完璧にできるようになっていた。密偵は人に気取られないように動くことが多いが、人々に紛れ込んで情報を入手することも多いため、シュナリーゼは庶民の立ち振る舞いから貴族の令嬢の立ち振る舞いまで、すべてを身に着けようと努力してきた。
その日もシュナリーゼは仕事で情報を得、報告をしてから家に帰ってウルガナの好きなミルク煮込みを作ろう、と考えながら黒狼のアジトへと帰ってきた。すると、何故かその場にいた全員が彼女へと視線を向けてきたので、何事かと尋ねようとしたところ、突然貴族の身なりをした男に横から抱きしめられたのだ。
そして。
「ああ、生きていたのだね、愛しいシュナリーゼ」
シュナリーゼが驚いて男の顔を見ると、そこには笑顔を携えた父、エーギランが居た。
「よかった、本当によかった。君が妻に追い出されたと知って、すぐに森の中を探させたけれど、見つからなかったからもうだめかと思っていたんだ。黒狼の中に君がいると聞いて、慌てて来てみたら、こんなに美しくなって。黒狼の方々に感謝しなくてはね。それでは、皆様このまま娘は連れ帰ります。今までのことは感謝してもしきれません。後に謝礼を用意いたします。では、失礼しますね」
父、エーギランそう捲し立ててそのまま強引にシュナリーゼを連れて行こうとする。彼女は戸惑って振り返ってウルガナ達を見たが、彼らは何とも言えない顔をして彼女達を見送るだけだった。それにシュナリーゼは悲しい気持ちになる。
今まで様々教えてくれていたウルガナや、黒狼の人たちとは、彼女を連れ出そうとしている父よりも多くの時間を過ごしていたのだ。既に家族のような気持ちになっていたのに、連れて行かれそうになるシュナリーゼに声をかけることも止めることもしなかった彼らを見て、そう思っていたのは自分だけだったのか。再びあの夫人や兄弟たちのいる家に戻って耐えなくてはならないのか。また頼る人もなく独りになるのかと思うとやりきれなくて寂しい気持ちでいっぱいになった。
エーギランはシュナリーゼを馬車に乗せると、再び笑みを見せて言った。
「シュナリーゼ。お前は黒狼の中でその技術を身に着けてきたのだと聞いたよ。その力、どうかこの父の為にも使っておくれ」
そしてそのままシュナリーゼを抱しめた。その時シュナリーゼは思ったのだ。
ーーー私が捨てられて独りになった時、私に力が無かった。だけど、今はあの時とは状況が違う。独りでも、なんとかしてみせる・
再び独りになってしまったシュナリーゼは、そう決意して父の言葉に頷いたのだった。
それからシュナリーゼは社交デビューをし、父の命の通りに社交界で貴族内の情報を集めたり、屋敷に忍び込んで情報を集めた。報告をするたびに父は褒めてくれた。……私が頑張れば、愛してくれる、なんて考えもシュナリーゼには浮かんできたが、そこまで子供ではない。なぜなら、父が集めてこいと命ずる対象の人々は全て貿易大臣である父にとって邪魔な人物だと気づいたからだ。これは、愛されているのではなく、利用されているのだと認識するのはそう遅いことではなかった。
その事実に気がついてシュナリーゼがとった行動は良くも悪くも父の影響だったのか、非常に慎重なものだ。エーギランが何を起こそうとしているのかは彼の下にいるのが一番手っ取り早いと考え、そのまま父に従い、父がとった行動を全て把握することにしたのだ。
そして。2年前、その日はシュナリーゼの15歳の誕生日であった。父に呼ばれたので彼女は執務室へと足を向けた。もしかして、何か頂けるのかもしれない、なんて期待はもうとっくに抱かなかったが、これは何かある、とシュナリーゼがここ最近感じ取った空気から読み取っていた。
『ダラムアト伯爵を暗殺せよ』
父から告げられたのはその一言。ああ、ついに来たか、とシュナリーゼは思った。
ダラムアト伯爵は貿易大臣であるエーギランの下に就いてた副官であったのだが、彼の策略に何か気づいた様だったのだ。そして、それを世に告げ、エーギランをその座から引き摺り下ろそうとした。つまり、エーギランは邪魔者になったダラムアト伯爵を消すことにしたのだ。
シュナリーゼはすぐにダラムアト伯爵について調べた。彼は政治的にはすばらしい能力を持ち、それから野心の強い人物であったのは社交の場でも能く知られていることだ。しかし一方でその地位に上がれたのは、彼とライバル関係であった貴族を策略でありもしない罪状を叩き付け、蹴落とすという所行を何度か行って来ていたことを知ると、シュナリーゼの中で彼に対する同情はなくなった。
現在はダラムアト伯爵が身罷った夜会からおよそ2年が経ったが、伯爵がどのような経緯で、誰に殺害されのかは結局解らずじまいだったらしい。1年前にはヴァルトス=ヴィ=グランバニアが王位に就き、ダラムアト伯爵の事件については世間から忘れられ始めた頃だ。
その後、シュナリーゼに暗殺の命も下し始めたエーギランは着々とその権力を強めて行った。そして、政治の面において良い面でも悪い面でも大きな影響を及ぼすことが出来る地位についている。シュナリーゼはそこまで鈍くは無い。父が、汚い手を使ってその地位についたことは理解しているのだ。その手助けを自分もしていると。そして、今度は父の進む道の邪魔となる王にも害を成そうとしていることにも後宮入りの件ですぐに思い至った。
しかし、シュナリーゼには父を止めることも、ましてや命令に背くこともしなかった。父がいかに汚い手で権力を強めてもまだ自分には何もできない……まだその時期ではないと。
おそらく巡ってくるであろうそれを、シュナリーゼはじっと待っている。