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南祭室の閉じ口

 紋章を外した四輪馬車が南の回廊へ着いたとき、封鎖礼拝堂の石床にはまだ夜の冷えが残っていた。


 門兵に先導されて降りてきたルシアン・ヴァレントは、旅埃を払う手つきだけが妙に丁寧だった。外套の合わせは整っているのに、肩の線だけが落ち着かない。急ぎで北辺へ入った者の硬さではなく、ここで何を見られるかをまだ選べると思っている者の硬さだった。


 南祭室の中央には、白布を掛けた長机がひとつ置かれている。左には冬祈り原布の欠け側。右には昨夜保全へ移した未返の右片。奥には西礼拝室勘定返しの原簿、客卓第三函の預り証、返肩三刻の受渡控え。灯は四本だけで、届く幅の外はまだ薄暗い。


 アレクシスは机の向こうに立っていた。いつもの黒手袋を右だけ外さず、祭室の扉が閉じるまで何も言わない。


「始めます」


 リゼットが告げると、若い書記が筆を取り、ヨナスがルシアンの前へ原簿を置いた。


「順は私が決めます。あなたは、問われたことにだけ答えてください」


 ルシアンの唇がかすかに動く。


「北辺の礼に従うよ。だが、見本の保全は工房の実務判断だ。私一人の恣意では」


「右片を客卓第三函へ預け替えた差図は、あなたの私印でした」


「最初に確認します。十四年前、冬祈り原布の右片を返肩三刻の見本として受け取り、その後、返さないよう指示しましたか」


 灯の下で、ルシアンの目がわずかに細くなる。


「返さない、ではない。礼装の不調が続いた。返せば欠けが露わになる。暫定的に客卓へ預けただけだ」


「不足分を埋めるために、黒噛み増し分の線を使いましたか」


 今度は答えが遅れた。


 ヨナスが原簿の該当頁を開く。『不足分埋合 黒噛み増し分より替』。第十八話から追ってきた細い実務語が、祭室の中央で逃げ場のない一行になっていた。


「……礼装を落とせなかった」


 ルシアンは原簿を見たまま言った。


「冬礼装の肩返しが欠ければ、侯爵家の催しも、王都礼拝室の式次第も崩れる。目に見える綻びを先に塞ぐしかなかった」


「そのために、返し順そのものを抜いたんですね」


 リゼットは欠け側の原布へ指を置いた。


「右片は飾りではありません。熱を戻す順を決める側の片です。ここを抜いたまま代えれば、見えないところから止まる」


 ルシアンが、ようやく顔を上げた。


「見えないところを守って、誰が褒める? 式は遅らせられない。家は失敗を待ってくれない。君だって知っていただろう」


「知っています」


 リゼットは右片の白布を解いた。


「だから、ここへ持ってきました」


 古い綴じの残る角が灯を受ける。右肩を回る返しの起点にだけ、あとから潜らされた黒い細糸があった。ほんの一度、角をずらすためだけに入れられた糸だ。


「アレクシス様」


「ああ」


「右手を見せてください。私が触れてから外してください」


「分かった」


 彼は先に留め具へ触れない。リゼットが白布をもう一枚敷き、机の右端へ立つのを待ってから、左手で右手袋を外した。


 露わになった手には、親指の付け根手前へ集まる黒霜の細い筋がまだ残っている。以前より薄い。だが閉じ口だけは、冬の針のように細く硬い。


 リゼットは祝福糸の白線を一本、原布の欠け側から右片へ渡した。返し角が揃う。次に、その線をアレクシスの手の甲へ沿わせる。


 肩から戻るべき温度が、そこで一度だけ折られていた。


「同じです」


 書記の筆が止まる。ルシアンの呼吸も、わずかに浅くなった。


「右片の角をずらしたせいで、返りは掌前で止まっています。伝令外套も、南祭室の送付記録も、アレクシス様の右手も、全部ここへ集まる」


 リゼットは顔を上げた。


「ルシアン。最後に確認します。この黒い潜り糸を入れろと、あなたが言いましたか」


 祭室の奥で、灯が一つ小さく鳴った。


「工房へ言ったのは、返りを強く見せろ、だ」


 やがて絞り出した声は、かすかに掠れていた。


「肩の線だけは落とすなと。祝いの礼装で冷えが戻るように見えていれば、場は保つ。欠けた片は、あとで戻せば済むと思った」


「済みませんでした」


 リゼットはアレクシスの右手へ両手を添えた。


「ほどきます。痛みが強くなったら、すぐ言ってください」


「任せる」


 短い返答を聞いてから、右片の角に残る黒い潜り糸へ針先を当てる。原布の欠け側と見比べれば、外すべき一目は迷わない。見本を抜いた側が勝手に作った折れ目だけを拾い、祝福の返りには触れず、黒い一筋だけを浮かせる。


 糸が持ち上がった瞬間、アレクシスの指が一度だけ強く震えた。


 祭室の冷えが、右から左へ静かに流れる。石床の底で止まっていた空気が動き、長く閉ざされていた祭具箱の金具が小さく鳴った。リゼットは浮かせた黒糸を切らず、そのまま白線へ絡めて逆向きに返す。肩へ戻る順を、元の角度へ戻すためだ。


 親指の付け根で硬く閉じていた筋が、ふっと緩んだ。


 次の瞬間、アレクシスの右手に残っていた黒霜が、薄い硝子のひびみたいに音もなく割れた。


 熱が来る。


 肩から肘へ、肘から手首へ、止まっていたものが遅れて戻ってくる。白線の沈みが消え、手の甲に差した冷えがほどける。リゼットは息を詰めたまま最後の返しを整え、右片の角を白布へ戻した。


 アレクシスがゆっくりと指を開く。


 今まで最後まで伸びきらなかった右手が、掌の中心まで迷いなく開いた。


 祭室の灯が一斉に揺れ、原布の欠け側へ残っていた薄い霜だけが、朝日の前の薄氷みたいに消えていく。


「……終わったのか」


 若い書記の呟きに、リゼットはうなずいた。


「閉じ口は割れました。右片を抜いたまま角をずらしたせいで、熱が戻る道が塞がっていたんです。いま戻したのは、欠けていた順そのものです」


 ルシアンが一歩だけ下がる。見栄えだけ整えれば足りると思っていた順が、目の前で崩れた。


「たった一片で」


「一片ではありません」


 リゼットは彼を見た。


「見えないところを先に捨てた、その順です」


 ルシアンの喉が上下する。


「……君があのまま侯爵家に残っていれば、もっと穏当に」


「残りません」


 言葉は短く切れた。


「私はもう、切り捨てられた側として答えを待ちません。どこで受けるかも、何を守るかも、自分で選びます」


 ルシアンが何か言い返そうとしたとき、ヨナスが原簿と預り証を閉じた。


「記録は足りました。客卓第三函の預り替え、返肩三刻の見本本体隔離、黒噛み増し分からの不足分埋め合わせ、いずれも本人差図として写しを取ります」


 書記も筆を上げる。


「工房、衣装部、王都礼拝室への照合順を整えます」


 家名の影へ戻る道は、もう残っていなかった。ルシアンは祭室の中央で立ち尽くしたまま、白布の上に戻された右片を見ることしかできない。


 アレクシスが右手を静かに握り、開き直した。痛みを確かめる癖でなく、本当に動くかを確かめる手つきだった。


 そして視線をリゼットへ向ける。


「冷えていないか」


「大丈夫です」


 胸の奥は静かだった。南祭室で母を失った痛みも、婚約披露の夜に切り落とされた記憶も消えたわけではない。それでももう、それに場所を決められない。


 アレクシスが一歩だけ近づく。人前の距離を越えない、けれど逃がさない歩幅だった。


「次を聞く」


「はい」


「黒霜検分役としてではなく、おまえ自身の答えを」


 祭室の石はまだ冷たい。灯の届く幅も広くはない。それでも、ここはもう失ったものだけの部屋ではなかった。欠けた順を戻し、自分の手で答えを受けた場所だ。


 リゼットは息を整えた。


「北辺に残ります」


 言ってから、もう一歩だけ先へ進む。


「仕事のためだけでも、置いてもらうためでもありません。私はここを、自分の居場所にしたいです。あなたの隣を、自分で選びます」


 アレクシスの目が、ほんの少しだけやわらいだ。


「それでいい」


 短い返答のあと、彼は右手を見下ろし、もう一度リゼットへ戻した。


「俺も選ぶ。保護でも礼でもなく、おまえを伴う未来を望む」


 胸の奥に、遅れて熱が満ちる。


「はい」


 それだけで足りた。


 ヨナスがわずかに咳払いをして、若い書記へ新しい紙を渡す。


「では、南祭室保全役の辞令を起こします。黒霜検分役は常置に。居所も北館東庭側へ移し、冬明け以後も継続前提で整えましょう」


 書記が紙へ目を落としたまま、ためらいがちに問う。


「役名は、その二つでよろしいでしょうか」


 アレクシスはルシアンではなく、机でもなく、リゼットを見て答えた。


「一行で足りるなら、それでいい」


 そこで彼は紙の上に視線を落とし、続けた。


「足りない分は、明日もう一行加える」


 白紙の末尾が、一行だけ空けられる。


 南祭室へ差す朝の光が、そこだけ静かに明るかった。

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