表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/22

第三箱の麻紐

 北館記録室の机へ置かれた新しい鍵は、まだ指先の熱を知らない金属の冷たさを保っていた。


 細長い歯をした鍵を布の上へ置いたまま、リゼットは昨夜の写しを見直していた。送り札の三行。返送便第三箱。衣装部筆頭書記預り。そこへ廊下を急ぐ靴音が重なり、扉の外で短く止まる。


「北門の荷場から急報です」


 入ってきた衛兵は頬へ朝の冷えを貼りつかせたまま一礼した。


「返送便の積み付け順が今朝分だけ書き換わっています。しかも第三箱だけ、札紐の色が合いません」


 箱の中身を沈める前に、今度は積み付け順そのものを整えにきたのだ。


 リゼットは鍵を取り上げた。冷たさが掌へ食い込む。戻る席の証だと昨夜は思ったが、いまは別の意味もあった。この鍵があるなら、荷場から戻ったあとも、積み付け表の続きを同じ机で追える。


「北門へ行きます」


 扉の外には、すでにアレクシスとヨナスが立っていた。アレクシスは彼女の手元の鍵を一度だけ見て、短く告げる。


「夜番にも話は通した。今夜からその鍵で入れ」


 甘い響きはない。ただ実務の順を崩さない声だった。


「積み付け表も、戻ったら君の机へ置かせる」


 その一言で、胸の奥の息が少しだけ深くなる。先のある仕事の形で渡される約束は、曖昧な慰めよりずっと揺らがなかった。


 北門の荷場は、雪の湿りを吸った麻袋と馬の息で白く曇っていた。街道へ出る返送便の荷車が二台、石畳の上で止められている。箱は三つ、荷台の奥へ積まれる寸前だった。どれも同じくらいの大きさに見えるのに、荷役たちの視線だけがひとつの箱を避けている。


「こちらです」


 北門詰所の隊長が、荷台の脇で積み付け表を広げた。紙面は昨夜の控えより一段新しい。最上段の箱順は一番、二番、第三箱と並ぶが、第三箱の欄だけ墨が濃く、行の幅もわずかに狭い。


「夜明けの鐘の前に、東回廊の中継書記を名乗る者が訂正を持ってきました。雪で札が濡れたから、こちらへ書き換えろと」


 荷台の反対側で、若い書記が肩をすくめるように頭を下げた。


「礼装肩掛の返送を急ぐよう言われたのです。第三箱だけ中身が違いますから、紐の色も見分けやすくした方が」


 言い切る前に、アレクシスの声が落ちた。


「誰もまだ積むな」


 荷役たちの手が一斉に止まる。


「開ける順も積む順も、黒霜検分役が決める」


 それだけで荷場の重心が変わった。誰も書記へ続きを促さない。隊長も荷役も、先にリゼットの視線を待っている。


 荷車の前で馬が鼻を鳴らしても、御者は綱を引かない。便を遅らせる責を恐れる空気より、彼女の判断を待つ空気の方が先に荷場へ通っていた。北門まで来ても、それがもう特別扱いではなく手順になっているのだと分かる。


 彼女は積み付け表を受け取った。紙の端は乾いているのに、第三箱の欄だけ繊維が少し寝ていた。急いで削って書き直した紙の顔だ。欄名は「礼装肩掛返送 二箱添付」。けれど昨夜、副封台の送り札にあったのは「礼装肩掛 二箱 副封替済」だった。添付という語だけ新しい。


 視線を箱へ移す。


 一番箱と二番箱の札紐は、雪を吸っても白麻の毛羽が立っている。第三箱だけは青みの強い麻で、撚りがきつい。しかも結び目の位置が左へ寄り、札の穴も少しだけ斜めだった。礼装箱の札に使う細紐の癖なのに、箱板の釘穴は書類箱の位置をしている。


 リゼットは荷台へ近づいた。木箱の側面へ指を添える。湿った麻袋の匂いより先に、薄い油紙の匂いが下から上がってきた。衣服を送る箱なら、布を守るため香油か乾燥草を詰める。だがこれは違う。紙束を湿りから守る匂いだ。


「第三箱を先に下ろしてください」


 若い書記が顔を上げた。


「ですが、肩掛けなら一番箱と二番箱から照合した方が」


「肩掛けだけなら、青い二撚り麻は使いません」


 リゼットは箱の角を示した。


「礼装箱なら札紐の穴はもっと中央に寄ります。この箱は一度べつの札を外され、あとから礼装返送の札へ替えられている。釘穴も左右でずれています」


 ヨナスがすぐに身を屈め、箱板の縁へ灯りを寄せた。


「たしかに、古い釘穴がもう一列あります」


「それに」


 リゼットは積み付け表の第三箱欄を指先で押さえる。


「『添付』と書き換えたのは、上に布を載せる前提だからです。最初の積み付け表では、箱そのものが主荷だったはずです」


 若い書記の喉が、小さく動いた。


 そこだけで十分だった。逃がしたいのは肩掛けではない。肩掛けの下にあるものだ。


「開ける前に、積み付け表の元の行を写します」


 リゼットが告げると、隊長が頷き、控え書記へ合図する。誰も急ぎの便を言い訳にしない。向こうが時間を使って隠したのなら、こちらは時間を使って止めればいい。


 写しが回るあいだに、アレクシスが荷台脇の踏み台を押さえた。


「板が凍っている。支えていいか」


 先に許可を求める声音に、リゼットは一拍遅れて頷いた。差し出された手は強く引かず、靴裏が滑らないだけの力で彼女を荷台へ上げる。触れたのは一瞬なのに、鍵を握る反対の手の冷えが少しだけ和らいだ。


 第三箱の蓋は、表の見た目より重かった。礼装肩掛だけなら、ここまで釘を細かく打たない。荷役がこじ開ける前に、リゼットは蓋の縁を見た。片側にだけ、薄い削り屑が新しい。今朝、開け直した痕だ。


「上にあるものから順に出してください。ただし布を広げないで」


 蓋が上がる。


 中にはたしかに肩掛けが二枚入っていた。灰銀の縁飾りをつけた礼装用だ。けれど折り方が不自然だった。傷みを隠したいなら、硬化した肩側を内へ巻く。なのに二枚とも肩を外へ向けて畳んである。見せるために置かれた形だ。


「下に薄板があります」


 開けた荷役より先に、リゼットが言った。


 箱底へ落ちる影が浅すぎるからだ。肩掛け二枚分の厚みのわりに、箱の内側が沈んでいない。


 ヨナスが布をそっと持ち上げると、その下から油布に包まれた細長い包みが現れた。青い二撚り麻で二重に結ばれ、角へ小さな札が差してある。札面には、消しかけた墨で「添付」とだけあった。


 荷場の空気が一段冷えた気がした。


 若い書記が一歩だけ退いたのを、隊長が無言で塞ぐ。


「開きます」


 リゼットが言うと、アレクシスはただ頷いた。開封の可否さえ、もう彼女の言葉の後にしかない。


 油布の中から現れたのは紙だった。細い札束。積み付け替え札の控え。さらに四つ折りの別紙が二枚。どれも水を嫌う薄紙で、肩掛けの下へ隠すには都合がよすぎる。


 リゼットは一番上の控え札を開いた。箱番号の欄に、薄く削った跡がある。その下から現れた元の文字は「灰函控」。副封台の布札にあった「灰函」と同じだ。第三箱は礼装返送の箱ではなかった。灰函か補助帳を入れる箱だ。


「やはり」


 口の中でそう言って、次の紙へ移る。


 四つ折りの一枚には、細い罫線と短い項目名が並んでいた。


『返納綴別紙 第七補』

『照合後 筆頭書記室北綴棚』

『受渡 返納綴係』


 帳面名、保管先、係名。探していたものが、まとめて小さな紙へ収まっていた。


 ヨナスが低く息を吐く。


「筆頭書記その人へ上げる前に、その下の返納綴係まで降りていますか」


「ええ。しかも北綴棚」


 リゼットは罫線の右端をなぞった。


「保管先が棚単位で決まっているなら、一時の隠し場所ではありません。返送便のたびに戻す場所がある」


 若い書記が慌てて声を挟む。


「それは古い控えでしょう。いま有効とは限りません」


「古い控えなら、なぜ今朝書き換えた積み付け表と一緒に入っていたんですか」


 問い返すと、男は口を閉ざした。


 もう一枚の別紙には、さらに短い文だけが残っていた。


『北門では青二撚りへ替え』

『積付順 第三箱を先』

『雪湿りに紛らせること』


 荷場にいる全員の視線が、その三行へ集まる。


 領内側の relay は、もう推測の段階を越えた。誰かが北門で紐まで替え、雪の湿りに紛れて積み付け順を前へ出すつもりだったのだ。


 隊長の顔色が変わる。


「北門の内で触った者がいます」


「箱を守ろうとしたのでしょう」


 リゼットは紙を折り直した。


「副封台で名目を替えたあと、返送便へ混ぜれば、あとは礼装返送の一部だと言い張れます。だから第三箱だけ順を早めた」


 若い書記が唇を噛む。


「私は、渡された訂正を書いただけです。東回廊から来た書付に従って」


「その書付はどこです」


 アレクシスの声が低く落ちた。


 男は返せない。持っていれば今出す。出せない時点で、書付ごと消す段取りだったと分かる。


 リゼットは積み付け替え札の束を一枚ずつ確かめた。札の穴の位置、青い二撚り麻、削り跡の深さ。どれも副封台と同じ手つきだったが、一枚だけ違う紙が混じっている。北館の帳で使う、少し厚い再生紙だった。


「これ」


 差し出すと、ヨナスが目を細めた。


「北館の在庫紙です。外から持ち込んだものではありません」


 つまり領内側 relay は、門先の受け取り役に収まらない。北館か東回廊に触れられる位置にいる。


 喉の奥がわずかに硬くなった。敵の手順が見えるほど、近さも見えてしまう。それでも、怖さより先に順番が立つ。ここで曖昧に閉じれば、次は北綴棚の前でまた同じことが起きる。


「第三箱はこのまま北館記録室へ戻してください」


 リゼットは隊長とヨナスへ向けて言った。


「肩掛け二枚は上に残したまま、下の紙束と別紙を抜かずに封じ直します。積み付け表は元の行と今朝の書き換え、両方を写して添えてください」


「一番箱と二番箱は」


「今日は開けません」


 そう答えると、若い書記が一瞬だけ安堵しかけた。けれどその前に、リゼットは続ける。


「開ける必要がないからです。守りたかったのは第三箱だけでした。残りは比較用として封を保つ方が価値があります」


 男の表情がそこで止まった。


 どの箱を先に開け、どの証言を後へ回すか。その順番が向こうの逃げ道を決める。だからこそ、ここで第三箱だけを確定させれば十分だった。


 アレクシスが荷台の下から隊長へ向く。


「第三箱と積み付け表は、彼女の机の右卓へ置け。北館記録室の灯は落とすな」


 灰青の視線がリゼットへ戻る。


「戻れば、続きをそのまま見られるようにしておく」


 公の場で告げられると、鍵の重さが掌の内で変わる。借りた席ではない。戻る前提で灯が残される場所だ。


 北館記録室へ戻れば、右卓には第三箱と積み付け表が待っている。誰かの厚意で空いた席ではなく、自分が止めた便の続きをそのまま追うための席だと思うと、胸の奥でほどけるものがあった。仕事の形をしているからこそ、そこへ戻っていいと迷わず思える。


「ありがとうございます」


 短く返しながら、リゼットは別紙をもう一度見た。返納綴係。筆頭書記室北綴棚。副封台の先には、手を伸ばせば届く実務の棚があった。


 荷役たちが第三箱を降ろし、青い麻紐ごと別の布で包み直す。誰ももう若い書記へ指示を仰がない。隊長は門内の出入り控えを集めに走り、ヨナスは積み付け替え札の控えを乾かす順をその場で組み始める。アレクシスは荷台脇に立ったまま、便を止めた理由を誰にも言い訳しない。止めるべきだから止めた、それだけの顔だった。


 雪はまだ細かく降っている。麻袋の表面に積もる白さは似ていても、吸い込んだ湿りの重さまでは隠せない。


 リゼットは第三箱の側板へ指先を置いた。札紐の撚り、釘穴のずれ、油布の匂い。布の裏を読むときと同じだった。順が見えれば、次にほどくべき結び目も見える。


 返送便第三箱は押さえた。だが逃がし先まではまだ終わっていない。


 返納綴別紙第七補。受渡は返納綴係。照合後、筆頭書記室北綴棚。


 次に狙うべき実務位置は、役職名より細かく、棚と係の名でこちらへ現れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ