◆深淵◇
最終話です。お越しいただきありがとうございます。
時計が目に入る。二時四十五分。
かなり時間が経った感覚だが、現実の時間はほぼ止まっている。
他に部屋の中に何かないか探した。
綺麗に整理された部屋ばかりで、なにもおかしい点は見つからなかった。
なぜだ……何か手掛かりになるような物があるはずだ。彼女はなぜ、一軒家の二階で一人ベッドで布団を被り、顔に布をかけられていたのか……。
今の魂の状態ではこれ以上調べる方法はない。彼女のことを調べるのはここで諦めるしかない。俺は人生で何度諦めればいいのか……。
暗い気持ちになり、漂っているオレンジの糸を何気に手にして撫でた。それを見ていると、徐々に糸が張っていった……誰かが触っている?
慌てて空に飛び出し、自宅がある方へ飛んだ。自分の意識次第でかなり速く飛べる。景色が高速で流れていった。
さっきまでの記憶が噴き出すように蘇る。彼女はなぜ俺に声をかけたのか?本当の理由は?目的があったようにしか思えない。
あの距離まで飛べていて、上手く飛べないというのは本当だったのだろうか?
オレンジ色の糸――魂の緒がない理由は?
そして、あの顔に布を被せられて寝ていた女性は、本当に彼女だったのだろうか?物理的な接触はできないからあの薄い布を取って確認することはできない。
彼女はなぜ突然、消えたのか?
何も答えを出せぬまま自宅マンション近くに辿り着く。屋上からではなく、通路側から自分の部屋へ近づく。通路の廊下を井出川さんが歩いている姿がそこに止まっていた。どこかいつもと雰囲気が違い、今回はオレンジの糸は見えない。つまり、魂と分離していない状態。
赤く染まった糸を思い出す。あれは何だったのだろう?これは本当に井出川さんなのだろうか……。
その時、また糸が引っ張られた気がした。誰が引っ張っているのか……。
慌てて飛び込むように自室がある部屋の中に顔を入れると、寝ているはずの自分が起き上がっていた。
俺と俺の目が合う。
緊張が走る。
血の気が引く。
焦る気持ちが全身を襲った。
小刻みに身体が震えているのが分かる。
お前は誰だ?
俺の身体と、魂の身体の誰かの細い腕が二重になっている。
魂の身体の細い腕は俺の糸を手にグルグル巻きにして握っていた。
そして目の前でそいつは唖然としている俺を見つめながら、片方の口角を歪ませるように不気味に上げた――覚えのある声が聴こえた気がした。
『細い、本当に糸ですね』
あの時の言葉――そいつは糸を引きちぎろうとして、左右に糸を引いている。
ぎりぎりと糸が張り、軋む音が聴こえてくるようだった。俺は慌てて叫んだ。
「やめてくれ!」
真っ直ぐに俺を見つめながら、糸を引く力を緩める様子はない。
ぎりぎり……。
最悪のイメージが頭の中ではっきりと絵となって浮かぶ。
ぎりぎり……。
見た目の判断だったが、糸の限界が近いのが伝わってくるほどに糸が震えていた。
ぎりぎり……。
心臓が早鐘を打つ。
そこで何か確信を得たように、俺の本体と重なったそいつは、ニコッとした笑顔を見せた。
もう少しで届く距離まで近づき、掴もうと手を伸ばしたが、恐れていた音が聴こえた。
ブチッ!――オレンジ色の糸が二つに千切れた。
その瞬間、自分の腰から伸びる糸は赤い燃えるような色に変わり、地面に向かって勢いよく伸びていった。
その赤く光る糸は、どこかと繋がったように垂直に引き締まった。いつかの井出川さんを思い出した。
今度は真下から誰かに糸を引っ張られるように、強い力で浮いていた身体が地表に引き込まれた。
「うわー!」
落下の刹那、俺の身体の頭から抜け出すように、真横に魂の首が倒れていた。
そいつはこちらを見つめながら、歪んだ笑顔を浮かべている。そしてすぐにそのまま身体に重なり、俺の中に溶け込んで消えた。完全に身体を乗っ取られた。そいつは落ちて行く俺の方へ振り向いた。
元の俺の笑顔は不自然で、見開いた目と、歪んだ口元はただただ不気味だった。
優美……脳裏で記憶が蘇った。
『あなた、私が見えるんですか?』
思い出した声が重なって一致した。同時に手遅れなのもすぐに分かった。なぜ、気づかなかったのか……。
日常と、空を自由に飛んでいた時の気持ちがあまりにかけ離れていた。
あの夜空でなければ、あの女にあんなに親切にはしなかっただろう。あの唐突なキスだって……。
浮かれていた自分が心底情けなかった。
もの凄い勢いで地面に吸い込まれるように身体が落ちていった。
俺の悲鳴は誰にも届かない。
目の前に地面が迫り、顔から激突するように地下を通り抜けた。落下の勢いは止まらず、何かに掴まりたくて必死に手を動かしてもがいた。
魂が抜ける時間は、いつも丑三つ時の二時四十五分。
過労の日々から逃れたい気持ちが生んだ魂と肉体の分離。警戒心を忘れさせた、夜空を飛ぶ開放感と優美の美しさ……半死の時間が終わり、俺は闇の深淵へと落ちていった。
◆エピローグ◇
どれだけ時間が経っただろう。長い闇を抜け、地下世界のような広い場所に飛び出た。
灼熱の炎が轟々と燃え盛っている。やがて地面に叩きつけられた。
顔を上げ、四つん這いの姿勢で地面を見つめた。膝を突き、立ち上がる。
その場で周囲を見回した。
『ドサッ!』という音と、誰かのうめき声が聴こえた。
そして、天井からいくつものオレンジ色の糸が垂れ下がっているのが見えた。
突然、自分の前にも天井から糸がぶらんと垂れ下がった。周りの人々はそれを掴んで必死に登ろうとしている。
ぽつぽつと赤い雨が降り出した。激しく打ち付ける赤い雨は、もう身体を通り抜けず、身体を酷く赤く染めた。腰から伸びる赤い糸は消えていた。
糸が消えた意味……優美に糸がなく、あの一帯を彷徨っていた理由……優美は死んでいた?そしていま俺も……。
ほうぼうからの悲鳴が聴こえる。
遠くで何かが動いた。もの凄い勢いでその何かが近づいてくる。
それに身構えながら、天井からぶら下がる糸を握って天井を見上げた。
これを登り切れば、誰かに繋がっているのか?……生き返れる?
俺は勝手な解釈をした。保証はないが登るしかない。迫ってくる何かを躱すように俺は上へ上へと登り始めた。
そこで糸が張って強く揺れた。
下を見ると井出川さんが必死の形相で俺が登っている糸を掴み、強く振って揺らしていた。あまりの激しさに糸を掴んだ身体が揺れて落ちそうになる。そして俺を追うように登ってくるのが見えた。
俺は急いで登る手を進めたが追いつかれ、下から足を掴まれた。
足元を見ると、眉間に皺を寄せた井出川さんが俺を見上げてこう言った。
「この糸は俺が先に見つけていたんだ!順番を守れ!」
また、ルールの強要。この人は何様なんだろう。
俺は優美の言葉を思い出していた。
『引っ張りませんよ。だって、糸が切れて……』
俺は糸を手に巻いて力を込めた。
ぎりぎり……。
――《了》
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
久しぶりの投稿でした。最終回まで読んでいただき、ありがとうございました!




