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#01【小さな我慢と大きな寂しさ】


「よりのバカ!もういいよ!知らない!」


夜の帳が下りたストリート。すれ違う通行人が一瞬ぎょっとして振り返るほどの鋭い声が、冷たい空気を引き裂いた。

吐き出された頑なな拒絶に、吉留鴇頼よしとめ ときよりは天を仰ぐ。眉間には深い皺が刻まれ、形の良い唇からこぼれたのは、ひどく重い、そして心底うんざりしたようなため息だった。


「勝手にしろっ」


叩きつけるように捨て台詞を吐くと、鴇頼は踵を返し、一度も振り返ることなく自分のマンションへと向かって歩き出した。コツコツとアスファルトを叩く革靴の音が、二人の間に急速に広がる距離を冷酷に刻んでいく。


その背中を見送る新井悠翔あらい はるまの瞳には、瞬く間に大粒の涙がたまっていった。握りしめた拳を震わせ、ブンブンと空気を引っ掻くように怒りをぶちまける。


「なんだよ、なんだよ、僕だってずっとずっと我慢してたんだからな!よりさんの仕事の邪魔しちゃいけないと思って……我慢してたんだからなっ!」


――邪魔をしちゃいけない。その言葉通り、悠翔は健気に耐えていたのだ。鴇頼が飛び込んでいった『社会』という名の容赦ない戦場で、どれほど過酷な日々を送っていたかを知る由も網羅する術もないながらに。


鴇頼が今春から身を置いているのは、誰もが名を知る都心の一流企業だ。

洗練された高層ビルが立ち並ぶオフィス街。毎朝、仕立てのいいスーツに身を包んだエリートたちが行き交うその街で、新入社員としての鴇頼の存在感は完全に群を抜いていた。

配属されて数ヶ月。先輩や上司から「吉留」と頼りにされ、怒涛の勢いで仕事を吸収していく。英語の資料を涼しい顔で読み解き、的確にタスクをこなす彼は、同期の中でも飛び抜けて「出来る男」として一目置かれていた。おまけにあのルックスだ。社内の女性陣からも熱い視線を集め、まさに非の打ち所がない新星として、華やかなオフィス街の荒波を颯爽と進んでいるように見えた。


だが、その裏での代償は決して小さくはなかった。入社して数ヶ月、鴇頼にとっては上司との共同作業で死に物狂いで進めてきた大型案件があった。それが次の会議でいよいよ議題に上げられると聞いた時、これまでの寝食を削るような努力が報われたと、確かな手応えを感じたのは事実だ。

しかし、その栄光の影で、ここ数ヶ月は悠翔との時間をまともに取ることが全くできていなかった。それもまた、紛れもない事実だった。


久々に時間が作れて、二人で食事を済ませた帰り道。

お洒落なレストランでの食事中も、鴇頼の頭の隅には常に次の会議のシミュレーションが居座っていた。悠翔の話を「ああ」「そうか」と聞いてるんだか聞いてないんだかの生返事で流してしまう。悠翔はその時点で、分かりやすく頬を膨らませてプップクプー状態になっていた。

それでも、悠翔なりに「仕事だから」と健気に我慢していたのだ。だが、店を出て駅へと向かう道すがら、溜まりに溜まった寂しさがついに決壊した。


「LINEの返事くらい欲しかった!」


並んで歩く足をピタリと止め、悠翔が感情をぶつけるように叫んだ。子供のように真っ直ぐで、だからこそ隠しきれない寂しさが痛いほど滲む。

だが、その純粋な訴えを受け止めるには、今の鴇頼の心はすり減りすぎていた。視線すら合わせず、低く冷めた声で一蹴する。


「無理。そんな時間もなかった」

「読むこともできなかったの!?」

「できなかった」


余計な言葉を一切削ぎ落とした鴇頼の冷淡な拒絶に、悠翔の胸に焦燥感と悲しみが爆発する。余裕をなくした悠翔の口から飛び出したのは、子供っぽさが隠せない、あまりにも極端な返しだった。


「じゃ、ご飯食べる時間もトイレに行く時間もなかったんだね!?そういうことだよね!?」


必死に寂しさをぶつけるがゆえの、極論。

しかし、本当に極限状態まで睡眠時間を削り、張り詰めたプレッシャーの中で戦い続けてきた鴇頼にとって、その言葉はただの理不尽な責め苦にしか聞こえなかった。限界を迎えている大人の、ピリピリとしたトーンが言葉に混ざる。


「……お前さぁ、そういう意味のないたとえするのやめろよな」

「だって!そういうことじゃんかよ!」


理屈ではない感情で突っかかる悠翔と、疲れ果ててこれ以上の議論を拒絶する鴇頼。二人の温度差が、夜の空気のなかで鋭く火花を散らす。


「………だから、謝ったじゃん」


かろうじて理性を保とうとするものの、どうしても声音に面倒くさそうなニュアンスが混じってしまう。そんな鴇頼の態度に、悠翔はさらに傷つき、声を震わせた。


「何だよ!その言い方!!」


悠翔の目がみるみるうちにウルウルと潤み、大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうになる。

けれど、鴇頼も本当にここ最近は睡眠時間を削りに削って、限界を超えたプレッシャーの中でやってきたのだ。心の余裕はミリ単位も残っていなかった。悲痛な悠翔の顔を見ているうちに、ふつふつとイラ立ちが頭をもたげる。


「お前は俺の何なんだよ!言ってみろよ!お前は俺の何だ!?」


冷たく突き放すような、決定的な言葉。

言われた悠翔は、あまりのショックに息を詰め、もう今にも泣き出しそうな顔で鴇頼を睨みつけた。


「よりのバカ!もういいよ!知らない!」


それが、冒頭のあの叫びへと繋がった。


――そして今、静まり返った自室のベッドに、鴇頼はスーツ姿のまま泥のように横たわっていた。

どっと押し寄せてくる疲労感。だがそれ以上に、胸の奥をキリキリと締め付けるのは、別れ際の悠翔の傷ついた表情だった。天井を睨みつけながら、鴇頼は腕で目元を覆う。


「言い過ぎたな…マジ…」


ガックリと項垂れ、深い後悔の念に駆られる。なぜあんな酷い言い方をしてしまったのか。

重い気分のまま目を閉じると、疲弊した脳裏に、ふっと懐かしい光景が鮮やかに浮かび上がってきた。


まだ黒髪のスーツではなく、ミルクティーベージュのマッシュ髪を揺らし、何にも縛られずに笑っていたあの頃。

そして、今よりも少し小さくて、必死に自分を追いかけてきたあの少年の姿。


――すべては、ここから始まったのだ。


-Prologue#01-


こんな二人の出会い。それは今から3年半前、悠翔がまだ高校2年生の冬のこと。


地域でも屈指の難関校合格率No.1を誇る、エリート受験塾『創明館アカデミー』。

数々の名門大受験生を厳しく指導し、冷徹なまでの実績を叩き出していたその門を、一人の少年が緊張した面持ちで叩いた。そこが自分の運命を180度変える場所になるとも知らずに。


真冬の冷たい風が吹き抜ける塾の受付で、新しい生徒――新井悠翔が、そこに立つ吉留鴇頼と初めて目を合わせた瞬間から、この物語はスタートする。

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