#13【キャンパスの残響、笑顔のあてつけ】
―――翌朝。
丸一日。それこそ、夕方からの『陽気屋』のバイトさえも、滅多にないことに「体調不良」という理由で珍しく休ませてもらった。
ひたすら泥のように眠り続けた完全休業を経て、磨耶は何とかあの地獄のような二日酔いから復活を遂げていた。
スマホを確認すると、その間にも利一先輩からいくつかのメッセージが届いていたが、まだ身体が重いことを理由にして、往復一回きりの短いやり取りだけで無理やり会話を終わらせる。
そして、何よりも――拓史のことだ。
昨日の朝の電話。あれは客観的に見れば、事実上の「絶縁状」を叩きつけたようなものだった。
一人きりの部屋で、磨耶は小さく重い息を吐き出すと、自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。
「……俺が悪いんじゃない」
一日が経過して、アルコールが抜けてもなお、磨耶の胸の奥では黒く濁った何かが燻り続けていた。思い出すだけで、またしてもチリチリとしたイライラが顔を出す。そして、その不機嫌の原因をすべて「あいつのせい」にしている自分自身に対して、今度はじわじわと嫌悪感が押し寄せてくる。
(情緒不安定って、こういうことを言うのかなぁ……)
まるで他人事のように冷めた頭でそんなことを思いながら、大学へ行く準備を進める。だが、どうしても気が重いのは、今日の講義が拓史と一緒だからだった。
まさか、拓史と同じ空間にいるという当たり前の状況を、頭を抱えるほど悩むことになるなんて。数日前までの自分には、想像すらしていなかったことだった。
―――磨耶は、いつもより少し早めに教室に向かった。
広々とした講義室の扉をくぐるまでに、磨耶なりに必死に考えていた。拓史と顔を合わさずに、この険悪な時間をやり過ごす方法を。
そして辿り着いた答えは、大学に入ってから初めての行動へと磨耶を突き動かした。
教壇の真ん前。そう、一番前の席を、磨耶は陣取ったのだ。
こうして教壇だけを見つめていれば、拓史が後から教室に入ってきても、その姿を見ずに済む。拓史がたとえ後ろのどこの席に座っていようが、それならそれで構わない。磨耶自身の瞳に、あの端正な拓史の姿が映らなければいいのだから。
さらに磨耶は、少し初夏の暑さを感じながらも、持ってきたウインドブレイカーのフードをすっぽりと頭から被った。視界を遮り、髪型すらも外から分からないように深く。
これはよく、講義中に居眠りを決め込もうとする学生がやるスタイルだったが、磨耶は寝るつもりなんて毛頭ない。教授から変な目で見られることもないだろうという、彼なりの必死の「心の盾」だった。
しかし、やはり磨耶は詰めが甘かった。
一番前の席にいるということは、講義が終わった後、拓史にしてみれば「磨耶が教室を出て行く後ろ姿」を完全に視界に捉えられるということだ。その気になれば、拓史が先回りして追いかけることも、容易にできるわけで……。
そして、その懸念は現実となった。
チャイムが鳴り、教授の退室と共に生徒たちが一斉に席を立つ。講義室特有の、ガタガタと椅子を引く音とざわつきが一段落ついたところで、磨耶はフードの奥で小さく息を吐き、足早に教室の前の扉から外へと出た。
廊下の空気を吸おうとした、その瞬間だった。
「マヤ」
透明感のある、よく通る声に呼び止められた。
ギクッとして身体を硬直させ、恐る恐る振り返る。そこには、廊下の壁に背を預け、腕組みをしたまま、鋭い視線で自分をじっと見つめている拓史が立っていた。
昨日あんなに大ゲンカをして、散々憎まれ口を叩き合ったはずなのに。不覚にも、その絵になるような洗練された立ち姿に対して、(……相変わらずかっこいいな、コイツ)などと、呑気な感想が磨耶の脳裏を一瞬だけ掠めていった。
磨耶はすぐに正気に戻ると、関わり合いたくないとばかりに、踵を返すようにしてその場から立ち去ろうとした。
だが、それを拓史の長い腕が素早く捕まえた。
「待てよ。何で逃げるんだよ」
「離せよ。お前と話なんかしたくない」
「俺がしたいんだよ」
磨耶は捕まれた腕を見つめ、昨日の寂しさがぶり返すのを感じながら、冷たい視線を拓史に返した。
「……最近のお前、いつもそうだな」
「え……?」
拓史の眉がわずかに動く。磨耶を掴む手の力が、動揺したように目に見えて緩んだ。それを磨耶は、乱暴に振り払うようにして解き、言葉を重ねる。
「最近のお前、自分の都合ばっかり押し付ける」
「……そんなつもりはない」
「お前にそのつもりがなくても、受け取る俺がそう感じるんだから、間違いないんだよ」
「……」
拓史は突きつけられた言葉の重みに、小さくため息をついた。
昨日、鴇鷹教授の部屋のドアの前で泣き崩れ、自分の中にある『支配者の傲慢さ』に愕然としたからこそ、今日の拓史はいつものようにムキになって言い返さなかった。ただ静かに、小さく頷いて言った。
「そうだな。受け取る側がどう感じるか、それだよな」
「そうだよ」
「でも、本当に俺はそんなつもりはなかったんだ。ただ、たしかにお前の言うことももっともだと思った」
珍しく素直に非を認め、必死に距離を埋めようとしてくる拓史。だが、磨耶の胸の奥の燻りは、そう簡単には消えてくれない。どうしても皮肉めいた問いが口をついて出た。
「……そんなにルイ先生との時間は愉しかったのか? 俺と一緒にいるよりも?」
『楽しい』という安易な言葉で片付けられない、鴇鷹教授との息の詰まるようなチェスゲーム。その裏の世界の重圧を知る由もない磨耶からの問いに、拓史は困惑を隠せないように声を濁らせる。
「楽しいとか、そういうことじゃないんだ」
「楽しくないのに一緒にいたんだ?」
「だから、そういう次元の話じゃないんだ……」
その、どこか一線を引くような難解な物言いに、磨耶は小さく肩を竦めてみせた。
「ほらね、それだよ。俺がお前やルイ先生の話してることは難しくてわからないっていうのは」
磨耶にそう静かに突きつけられた瞬間、拓史は喉の奥がカラカラに渇くような、激しい戸惑いに襲われた。
拓史にとって、鴇鷹教授の部屋で過ごす時間は、単なる娯楽としての「楽しい」ではない。自分の知性を極限まで刺激し、まだ見ぬ思想世界の深淵を覗かせてくれる、純粋で圧倒的な知的興奮の時間なのだ。
だが、それをどう言葉に尽くせば、目の前の大切な存在に届くというのだろう。「そういう意味じゃないんだ」と弁明しようとすればするほど、磨耶をさらに遠ざけ、難解な言葉の壁で傷つけてしまう気がして、天才のはずの脳細胞が完全に迷路の真ん中で立ち尽くしてしまう。
失いたくない大切な存在の磨耶との間に横たわる、どうしても噛み合わない思考のレイヤー。その埋めようのない距離に、拓史はただ圧倒的な無力感に苛まれるしかなかった。
「ごめん、俺もお前の言いたいことがよくわからない……」
痛切な拒絶を含んだ拓史のその言葉に、磨耶の心は完全にシャッターを下ろした。歩み寄りたいはずなのに、言葉のレイヤーがどうしても噛み合わない。
磨耶は小さなため息をつくと、冷ややかに言い放った。
「もういいかな? 俺、今日はバイトなんだ。昨日休んだから、今日は早めに行かなきゃならない」
引き止めようとするように、拓史が切実な目で磨耶を見つめる。
「今夜、会いたい」
「ごめん。今日は約束がある」
「マヤ……」
「ホントに約束があるんだよ。約束は守らなきゃ……ね」
磨耶はそう言って、昨日約束を破った拓史への最大の当てつけを込めた、これ以上ないほど「最高の笑顔」を拓史に向けた。
そして、じゃあねとばかりに片手を軽く上げると、呆然と立ち尽くす拓史の目の前を通り抜けるようにして、迷いのない足取りで歩き去って行ってしまった。
拓史はその引き締まった後ろ姿を追いかけることもできず、ただ遠ざかっていく背中を、悲痛な眼差しで見つめ続けることしかできなかった―――。




