プロローグ・第一章:少女とカタツムリ
プロローグ
なぜ人類を、世界を、この宇宙を創ったのか。
その理由は、もう忘れてしまった。
彼らの生に意味などない。死のうが生きようが、私に変わるものはないからだ。
数兆の命が潰え、数兆の命が産まれるのを眺めてきたが、私は眉一つ動かさなかった。
だが、それでも。
彼らには、私を惹きつける「何か」がある。
すべてを見通しながらも、なお見つめてしまう何かが。
すべてを聴き届けながらも、なお耳を傾けてしまう何かが。
すべてを知り尽しながらも、どうしても理解できない何かが。
私には決して到達できない領域。
私の理を超える唯一の存在。
神をさえ、凌駕するもの。
彼らが「魂」と呼ぶ、それ。
結局のところ——それは「彼」が創りたもうたものではなかった。
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**第一章:少女とカタツムリ**
外の気温は、雲から落ちる雨粒がその場で凍りついてしまうのではないかと思えるほどに低かった。
そんな極寒の中でも。
そこには、小さく、脆そうな一人の少女が立っていた。
微風にさえ、世界の果てまで吹き飛ばされてしまいそうなほど、か細い身体。
小さな瞳、白い肌。そして咲いたばかりの桜のように色づいた頬。
少女はその繊細な瞳で、一匹の小さなカタツムリを見つめていた。
今にも好奇心で弾け飛んでしまいそうな、純粋な眼差しだった。
彼女の目には、その殻は驚くほど美しく映っていた。
背負った渦巻きは、まるで至高の芸術品であるかのように。
少女はその殻に触れる。気味悪がる様子は微塵もない。
大抵の人間はカタツムリを嫌悪するだろう。彼らは人間の享楽のために創られたわけではないのだから。
(こんなに硬い殻を背負って、どうやって動くのかしら?)
彼女は心の中で問いかけた。
凍てつく空気の中で、少女の温もりだけが、唯一冷えていないもののようだった。
「痛くないの? 重くないの?」
彼女は小さく呟いた。
神は思った。そんなことは、彼女にとってはどうでもいいことのはずだ、と。
意味などないはずだ。なぜなら、神は世界を「完璧」に創り上げた。過ちも不純物も存在しないように。
柔軟な思考を持つ人間を、そんな矮小な生き物の助けなど必要としない存在として創った。
彼らは神の庭を彩る「装飾」に過ぎないのだ。
すべてを完璧にするためだけに存在する、置物。
だというのに、彼女は消え入りそうな短い命の一部を割いて、そんな些細なことに思考を巡らせている。
思考することさえ叶わぬ、愚かで、弱き下等な生命の安否を、なぜこれほどまでに案じるのか。
なぜ、彼女は「想う」のか。
その時、神は自らの思考の矛盾に気づいた。
自分もまた、より小さく、弱き存在をこうして見つめている。
形は違えど、その本質は少女のそれと同じではないか。
寒さは刻一刻と厳しさを増していく。
少女の心の温もりを以てしても、その体温を維持することはできない。
神が設計した人間の構造は、そこまで強固ではないのだ。
少女はカタツムリに満足げに微笑みかけると、赤らんだ頬をさらに輝かせ、帰路につくべくその場を離れた。
その無垢な輝き——子供特有の無防備な笑顔を目の当たりにし、神は独りごちた。
(これが「温もり」というものか。これが、彼らの言う「魂」の一部なのか)
神は、自らが創ったはずのものに理解が及ばないという事実に、何度も驚嘆した。
だが、それはもはや驚きではなかった。観察はもはや習慣だ。
創り上げた最初の標本を完全に理解せぬまま、次の種を創り出す気にはなれなかった。
——パリッ。
乾いた音が、神の思考を遮った。
神は悟った。
少女が愛おしげに見つめていたカタツムリは、今、その少女自身の小さな足の下で砕かれていた。
少女はそれに気づくことなく、歩みを進める。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、砕けた殻はさらに細かくなり、塵へと還っていく。
神は呟いた。
「……それが、子供の温もりというものか。繊細で、強烈で。しかし、あまりに無頓着ゆえに、エントロピー的に自壊していく。それもまた、子供の『魂』の欠片なのだろう」
愛するものを、無自覚に壊してしまうほどの、無垢な愛。
世界が完璧ではないのは、人間という「不完全」が含まれているからかもしれない。
あるいは、完璧とは、何十億もの不完全が織りなす交響曲のことを指すのかもしれない。
それが、神が虚無へと戻る前の、最後の思考だった。
「魂」について、さらに深く理解し、思考するために。
神の虚無は、人間が呼ぶところの「孤独」な場所だった。
すべてを包み込む、無限の白。
神はふと思った。この虚無にも「魂」はあるのだろうか。自分自身にも「魂」はあるのだろうか。
その答えを出すことは、神にさえ不可能だった。
「魂」とは、神が唯一、創造しなかったものだからだ。
完璧に創られた世界における、唯一の「異物」。
そして、その異物こそが、世界を完璧にたらしめているのかもしれない。




