3話
カバーは自力で確保せよ。
管理官からのふざけた命令のせいで、僕は喫茶店の店員という職を得た。自分で言うのもなんだが、優秀な工作員が得た偽装身分が喫茶店の店員というのは冗談が過ぎると思う。鉛玉の代わりにケーキと紅茶で商売することになるとは思わなかった。ちなみにカバーを得た後の命令はは「指示を待て」だった。命令じゃないだろ、それは……。
とは思ったものの、ここは前向きに考えることにした。
つまり、今の俺は次期管理官としての権力と資金力を使って自由に行動できるって事だ。戦争も何もない日本でどれだけの情報を集められるかはわからないが、出来ることは全て行う。
立ち塞がる全てを殲滅する、とはとても言えないが、消去くらいはしてやる。その為にも早くメニューを暗記しなければ。だいたいハーブティーも含めて紅茶だけでメニューの半分占拠してんだよ。明らかに配分おかしいだろ。
「なにか気になるものでもあるのかしら?」
メニューを前にうんうんと唸っていると、店長に声を掛けられた。この人はとんでもない黒髪美人なんだけど、行動原理と趣味嗜好と制服のセンスが謎だ。というか全てが謎だ。
「あ、いえ。早くメニューを覚えないとなって思ったので」
「あら、熱心じゃない。おーい和田くーん、売れ残りのタルトとか持ってきてー」
既に閉店時刻である十時はとっくに過ぎていた。厨房からシェフっぽい格好をした目つきの悪い男が顔を出した。
「待て、なんで売れ残ってると思ったんだあんたは」
ああ見えて彼、和田啓介は女性雑誌とかワイドショーとかでも紹介されるほどの腕前を持つ一流パティシエなんだそうだ。フランスにも留学していたらしい。
そんな和田君がこんな常連客しか来ないような店に在籍しているのかは謎だ。店長が引き抜いてきたということしか聞いていない。
口では文句を言いつつもきちんと売れ残りのケーキを持ってくる辺り、本当にいい人だと思う。
売れ残っていたのはフルーツタルトとイチゴのショートケーキが三つづつ。僕はあまり甘いものが得意じゃないけど、ここのケーキは甘さ控えめなのでちゃんと食べられる。
「あ、私も食べたいですー!」
そんな事を言いながら更衣室から出てきたのは僕の先輩にあたるアルバイト、近所の高校に通う津村奏衣だ。ここの制服である和風メイド服から学校の制服に着替えてきたようだ。
「あら、かなちゃんも食べる? 今日はタルトとケーキが残ってるわよ」
普段売れ残りはほとんど発生しない。それだけ和田君の腕がいいのと、きっと店長の読みがほとんど当たるのも関係あるはずだ。
「今日は午後から雨が降り始めたからな。おかげで売れ残っちまった」
悔しそうに言いながら和田君がケーキとタルトをテーブルに並べる。
「うわあ、やっぱ美味しそうだなあ。それじゃ和田さん、いただきますね!」
言うが早いか、早速テーブルについた津村がタルトを食べ始める。僕はというと用意した紅茶を飲みつつメニューとの睨めっこを再開していた。
「別に必死になって覚えようとしなくても、一ヶ月も経てば自然に覚えるものよ?」
ケーキにフォークを刺しながら店長が言った
。
この人は本当によくわからない。どこか僕の正体に気付いている節もあるし、油断は出来ない。
「いえ、やはり早く仕事には慣れたいので」
「真面目ねえ。あ、そうだ。私来週の頭から出張行くから」
店長の言葉に津村が反応する。
「え、またしゅっひょうですか?」
口にケーキを頬張ったままなので発音が不明瞭だ。
「ええ。国内で紅茶を生産してる農家を見つけたからちょっと様子見にね」
「お土産楽しみにしてますね!」
「別に遊びに行くわけではないのだけれど……」
どこまでも無邪気な津村に苦笑する店長。
ふむ、いい事を聞いた。僕の正体に勘付いているということは、どこかの諜報員である可能性が高い。となるとこの出張とやらも怪しい。頭の片隅で策を練りながら、メニューを頭に叩き込んでいく。が、僕の頭は同時に二つの事ができないようで能率が大幅に下がってしまった。
冷たくなりかけた紅茶を飲み干すと、挨拶もそこそこに僕は店を後にした。
退勤してから少し歩く。頃合いを見て携帯電話を取り出し、子飼いの非合法工作員の番号をコールした。
『もしもーし』
「明日、十五時にいつもの所で」
『や、フランス語で言われてもわかんないから、あたし』
確か出国前に多少は勉強しておくよう指示を出しておいたはずなのだが。
『半年やそこらで覚えられるはずないじゃん。とりま明日は了解したからおやすみー』
一方的に通話を切られた。……きっと盗聴やらを警戒してのことだろう。うん、そうに違いない。じゃなきゃ実力だけで彼女を選抜した選択を後悔したくなる。というか僕の言葉を理解してるじゃないか。
自然と出てきたため息にうんざりしながら、生活拠点であるマンションに足を向けた。