第2話 受付嬢エリスの事情
全5話完結。
短めの追放系作品となります。
ギルドの正式判断が下され、元パーティーの四人が怒号を上げている中、カナメは静かに受付を離れた。
周囲の喧騒とは対照的に、その背中はどこまでも落ち着いている。
(……さて。晩ご飯でも食べて、次の街へ行く準備でもしよう)
そんな心の声が聞こえてきそうなほど、彼の歩みは自然だった。
ギルド酒場のざわめきを背に、出口へ向かって歩く。
扉に手をかけた、その瞬間だった。
「カナメ様、少しお待ちください!」
背後から小走りの足音と、必死な声が響く。
カナメが振り返ると、息を切らしたエリスが立っていた。
普段は冷静沈着な受付嬢チーフである彼女が、明らかに動揺している。
頬はわずかに紅潮し、胸元で上下する呼吸がその焦りを物語っていた。
しかし、エリスはすぐに姿勢を正し、受付嬢としての礼儀を取り戻す。
「……申し訳ありません。もうすぐ受付が終わりますので、少しだけお待ちいただけませんか?」
その声音は丁寧でありながら、どこか不安を含んでいた。
カナメは短く頷く。
「……うん。わかったよ」
素直に応じると、ギルドの片隅で静かに待つ。
その様子を見て、周囲の冒険者たちがざわつき始めた。
「え、エリスさんが……あの雑用を呼び止めた?」
「いや、あれは雑用じゃない……何者だ……?」
視線がカナメとエリスに集中し、空氣がざわめく。
やがて受付が閉まる時間になり、奥の扉が開いた。
そこから現れたのは、制服ではなく私服姿のエリスだった。
柔らかな色合いのワンピースに身を包み、髪も少しだけ下ろしている。
普段の凛とした雰囲氣とは違い、どこか女性らしい柔らかさが漂っていた。
しかし、背筋はまっすぐで、真面目さはそのままだ。
その姿を見た冒険者たちは、思わず息を呑む。
「えっ……」
「エリスさんが……私服で……?」
「誰と会うつもりなんだ……?」
エリスはカナメの前に立ち、深く頭を下げた。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
カナメは穏やかに微笑む。
「いや、氣にしなくていいよ」
その言葉に、エリスの表情がわずかに緩む。
そして、彼女は初めて“個人的な事情”を語り始めようとしていた。
エリスは私服の裾をそっと握りしめ、少しだけ視線を落とした。
普段の凛とした受付嬢チーフの姿ではなく、どこか迷いを抱えた女性の表情だった。
「……先ほどの成熟種子の件、本当にありがとうございました」
静かな声だったが、その奥にある感情は隠しきれていなかった。
カナメは首を横に振る。
「仕事だからね。氣にしなくていいよ」
エリスはすぐに首を振り返した。
「いえ……これは個人的なお礼です」
その言葉に、カナメの目がわずかに細められる。
エリスは胸に手を当て、深く息を吸った。
「実は、姉の娘――私の姪が、いま流行り病で苦しんでいて……」
その声は震えていた。
普段、どんな冒険者にも毅然と対応する彼女が、こんなふうに感情を露わにするのは珍しい。
「成熟種子がなければ、特効薬の調合が間に合わなかったかもしれません。
カナメ様のおかげで……助かる見込みが立ちました」
その言葉を口にした瞬間、エリスの瞳が潤む。
「……実は、最近は姉の家に寝泊まりしているんです」
エリスは少しだけ視線を落とした。
「姪の看病で、姉と義兄だけでは手が回らなくて……
義兄は優しい人なんですけど、治療費を稼ぐために
どうしても仕事が増えてしまって。
家に帰れる日も少なくて……」
カナメは黙って耳を傾ける。
「だから、私ができることは全部したくて。
毎晩、姪の熱を測って、薬を飲ませて……
泣きそうになっても、笑ってあげるようにして……」
エリスの声は震えていたが、
その瞳には強い意志が宿っていた。
「……あの子、本当に頑張っているんです。
だから……今日の成熟種子は、私にとって……」
言葉が続かず、エリスは胸に手を当てた。
「……本当に、救いだったんです」
周囲で見ていた冒険者たちは息を呑んだ。
「あのエリスさんが……個人的な事情を話してる……?」
「嘘だろ……誰に対して……?」
視線は自然とカナメへ向かう。
エリスは深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
そして、ほんの一瞬だけ迷ったあと、意を決したように顔を上げる。
「その……もしよろしければ、今夜、夕食をご一緒できませんか?」
ギルドの空氣が止まった。
「えっ……?」
「エリスさんが……誘った……?」
「嘘だろ……?」
冒険者たちのざわめきが広がる。
エリスは頬を赤らめながら続けた。
「お酒も……少しだけ。私、明日は休みですので」
カナメは少し困ったように微笑む。
「僕はあまり酔わない体質だから、一緒に飲んでもつまらないと思うよ」
その言葉に、エリスは食い氣味に返した。
「構いません!
その……お礼がしたいだけなんです」
その必死さに、カナメは小さく息を吐き、柔らかく頷いた。
「……僕も行きつけの店で晩ご飯を食べるつもりだったから。
それくらいなら、いいよ」
エリスの顔がぱっと明るくなった。
その笑顔は、ギルドで見せるどんな表情よりも柔らかく、温かかった。
ギルドの灯りを背に、カナメとエリスは並んで夜の街へ歩き出した。
昼間の喧騒とは違い、夜の通りは落ち着いた空氣に包まれている。
街灯の柔らかな光が二人の影を長く伸ばした。
エリスは少し緊張した面持ちで口を開く。
「あの……カナメ様は、いつもどんなお店に行かれるんですか?」
カナメは前を向いたまま、穏やかな声で答える。
「静かで、落ち着いたところだよ。冒険者があまり来ない店」
「……素敵ですね」
エリスは小さく微笑む。
その横顔は、ギルドで見せる凛とした表情とは違い、どこか柔らかかった。
ギルドの窓から二人を見ていた冒険者たちは、口を開けたまま固まっていた。
「え……?」
「エリスさんが……?」
「嘘だろ……」
その反応を背に、二人は静かに歩みを進める。
カナメは自然とエリスの歩幅に合わせていた。
エリスは氣づいていないが、そのさりげない氣遣いが彼の人柄を物語っている。
女性に対して一定の距離を保ちながらも、礼儀正しく歩く姿は、どこか品があった。
「こっちだよ。少し歩くけど、静かでいい店なんだ」
「はい……!」
エリスの返事は、どこか弾んでいた。
夜風が二人の間を通り抜け、静かな街路に心地よい余韻を残していく。
大通りから少し外れた小道に入ると、街の喧騒がすっと遠のいた。
そこに、木の温もりを感じさせる落ち着いた扉の小さなレストランがひっそりと佇んでいた。
カナメが扉を押して入ると、店内は静かで、他の客の姿はない。
カウンターでは、ナイスミドルの店主がコップを丁寧に磨いていた。
「いらっしゃいませ。……おや、カナメさん。お連れ様と来るなんて珍しいですね」
店主は驚いたように目を細め、すぐに柔らかい笑みを浮かべる。
「こんばんは。今日は少し特別でね。二人分、お願いします」
カナメは店主に対しても丁寧で、しかし対等な口調だった。
その自然な態度に、エリスは少しだけ目を見張る。
ギルドで見せる彼の姿とはまた違う、落ち着いた大人の雰囲氣があった。
店主は頷き、二人を奥のテーブル席へ案内する。
カナメはエリスに向かいの席を示し、椅子を軽く引いた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
エリスは少し緊張しながらも席に座る。
カナメはメニューを手に取り、エリスへ優しく説明した。
「ここの料理はどれも美味しいけど、初めてなら、このあたりがオススメだよ」
「……はい」
二人は店主のオススメを注文し、飲み物も選ぶ。
カナメはブラックコーヒー。
エリスは甘めのワインを頼んだ。
ワインのグラスが置かれた瞬間、エリスは少し不安そうに尋ねる。
「お酒……大丈夫ですか?」
カナメは穏やかに微笑む。
「僕は酔わない体質だからね。氣にしなくていいよ」
その言葉に、エリスはほっとしたように微笑んだ。
静かな店内に、二人の声だけが柔らかく溶けていった。
料理が運ばれてくると、二人は静かに食事を始めた。
カナメの所作は驚くほど美しく、無駄がない。
ナイフとフォークの動きは静かで、音ひとつ立てない。
エリスも真面目な性格ゆえに丁寧に食べるが、
その優雅さはカナメの自然な振る舞いに引き出されているようだった。
店内は静かで、他の客はいない。
柔らかな灯りの下、二人の会話だけが心地よく響いていた。
最初は緊張していたエリスも、
カナメの柔らかな雰囲氣に触れるうちに、
少しずつ肩の力が抜けていく。
カナメと向かい合って座るだけで、
不思議と心が落ち着く――
それは、ギルドで彼と話すときからずっと感じていたことだった。
ワインを一口飲んだエリスは、
グラスを両手で包み込むように持ちながら、ぽつりと口を開いた。
「……実は、最近、実家から……
そろそろ結婚相手を見つけるように、と……」
カナメは驚くこともなく、静かに頷いた。
「……それは、急に言われると困るよね」
「……はい。
もちろん、親の氣持ちもわかるんです。
私も、いつまでも独り身でいるつもりは……ないですし」
「うん……エリスさんがどうしたいか、
それが一番大事だと思うよ」
エリスは少し視線を落とし、続けた。
「でも……仕事が忙しくて。
それに、ギルドの受付って……
どうしても“軽く見られがち”なんです」
「……そう言われるのは、つらいよね。
真面目にやっているのに、誤解されるのは」
「ええ。
『受付嬢なんて誰でもできる』とか、
『どうせ男に媚びてるんだろ』とか……
そんなことを言われることもあって」
「……そんなふうに言われたら、傷つくよ。
エリスさんは、いつも誠実に仕事してるのに」
その言葉に、エリスの肩がわずかに震えた。
(……そんなふうに悩んでいたんだ)
ワインをもう一口。
頬がほんのり赤くなる。
「でも……私、仕事が好きなんです。
冒険者の皆さんが無事に帰ってきて、
『ありがとう』って言ってくれるのが……嬉しくて」
「その氣持ち、すごく素敵だと思う。
エリスさんの丁寧さは、ちゃんと伝わってるよ」
「……っ、ありがとうございます……」
エリスは胸に手を当て、息を整えるように続けた。
「それに……今日みたいに、
カナメ様のような方が来てくださると……
その……すごく、安心するんです」
カナメは少しだけ目を細めた。
(……そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう)
「僕は特別なことはしてないよ。
でも……そう感じてくれるなら、嬉しい」
「いえ。カナメ様は……落ち着いていて、優しくて……その……話していると、安心するんです」
エリスの瞳がわずかに潤む。
その言葉の奥にある“好意”は、誰が見ても明らかだった。
だが、カナメは氣づいていながら、あえて氣づかないふりをする。
「エリスさんがそう思ってくれるなら、
僕も……少しは役に立ててるのかな」
エリスは小さく頷き、さらに言葉を続けた。
「……それに、結婚相手を探せと言われても……ギルドの男性は、皆さん……その……」
「うん……無理に合わせる必要はないよ」
「……軽いんです。
すぐに誘ってきたり、仕事中に口説いてきたり……そういうの、苦手で」
「それは……しんどいよね。
仕事中にそんなふうに扱われたら」
「だから……今日みたいに、ちゃんと話を聞いてくださる方がいると……その……つい、色々話してしまって……」
カナメは優しく微笑む。
「話してくれてありがとう。
エリスさんの氣持ちを聞けて、嬉しいよ」
「……はい」
エリスの声は震えていたが、
その表情はどこか安心したように柔らかかった。
カナメは静かに言葉を添える。
「無理に答えを出す必要はないと思うよ」
彼はアドバイスをしない。
ただ、そばで聞いてくれる。
その優しさが、エリスの胸に深く染み込んでいった。
エリスはワインを少し口に含むと、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
先ほどまでの悩みを語る表情とは違い、どこか温かく、優しい光が宿っている。
「……そういえば、姪の話をしましたよね?」
カナメはコーヒーを置き、静かに頷いた。
「うん。いま流行り病で苦しんでいるんだったね」
「はい。でも……あの子、アリシア様が大好きなんです。
『大きくなったらアリシア様みたいになる!』って、いつも言っていて」
エリスはその時の姪の姿を思い出したのか、自然と頬が緩む。
その笑顔は、家族を大切にする彼女の人柄をそのまま映していた。
カナメは静かに微笑んだ。
(アリシア・フェルンライト。
若くしてSランクに到達した、王都でも屈指の魔剣士。
近接戦闘だけでなく、攻撃魔法・回復魔法・支援魔法を高い水準で扱える“複合型”の希少な才能を持つ。
依頼者への対応も丁寧で、危険度の高い護衛任務では必ず事前に相手の状況を確認し、必要なら自分の報酬を削ってでも安全策を提案する。
ただ強いだけではなく、依頼者に寄り添える人格者としても知られている。
……アリシアは、本当に“冒険者の理想像”だ。
あの頃と変わらない)
心の中で、淡々と客観的な評価だけを並べる。
余計な感情は表に出さない。ただ、事実だけを静かに思い返す。
エリスはグラスを両手で包み込みながら、少し照れたように続けた。
「姪が元氣になったら……いつかアリシア様に会わせてあげたいです」
「きっと喜ぶよ」
カナメの言葉に、エリスは安心したように微笑む。
「……ですよね。
あの子、本当にアリシア様の話になると目を輝かせるんです。
病氣でつらい時でも、アリシア様の絵本を読むと笑ってくれて……
だから、今日の成熟種子の件、本当に……救われたんです」
その声は、感謝と愛情に満ちていた。
カナメは静かに頷き、エリスの言葉を最後まで受け止める。
その優しい沈黙が、エリスの胸にそっと寄り添っていた。
エリスはワインを一口含むと、ふっと照れたように微笑んだ。
その表情は、仕事の時には決して見せない柔らかさだった。
「それで……寝る前に姪に昔話を読んであげるんですけど、最近のお氣に入りが“アークライト伝記”なんです」
カナメはコーヒーを置き、静かに目を細める。
「……アークライト伝記を?」
「はい。あの子、本当に大好きで……」
エリスは指を折りながら、読み聞かせた内容を思い出すように語り始めた。
「エルダーヒューマンの青年が、世界樹の巫女や、火炎と鍛冶の神様に仕えるハイドワーフの闘士、白虎獣人の獣王たちと一緒に旅をして……魔王を討伐するお話なんです。
エルダーヒューマンは不老長寿で、高い精神性と優れた肉体を持っていて、あふれる魔力で人々を守る存在……って伝えられていて」
その声には、姪を思う優しさと、
どこか“憧れ”のような響きが混じっていた。
カナメは黙って聞いている。
表情は変わらないが、その沈黙は“否定しない優しさ”に満ちていた。
エリスはふと、別の疑問を口にした。
「……でも、昔話に出てくるハイエルフとかハイドワーフって、最初から“上位種族”として生まれるわけじゃないんですよね?
どうやって、ああいう存在になるんでしょう……?」
カナメは一瞬だけ目を伏せ、
まるで遠い記憶を探るように静かに答えた。
「ハイエルフは……元々は普通のエルフとして生まれるよ。
エルフは人間の十倍以上の寿命を持つけれど、“世界樹の巫女”は五百年の修行を経て、世界樹に認められたから後天的にハイエルフへ至ったんだ」
エリスは驚きに目を丸くする。
「ご、五百年……?
そんなに……?」
「うん。ラドリエルは――」
カナメはそこで、はっと口をつぐんだ。
エリスが小首を傾げる。
「……ラドリエル?」
カナメはわずかに笑みを浮かべ、
何事もなかったかのように続ける。
「僕の地域ではね、ハイエルフの伝承が少し詳しく語られていて……世界樹の巫女の名前は“ラドリエル”って呼ばれていたんだ。
本当にその名前だったかどうかは分からないけどね」
「へぇ……そんな地域もあるんですね……」
エリスは素直に感心して頷いた。
だが、カナメの瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ“懐かしさ”には氣づかない。
エリスは続ける。
「姪は特にアークライトの英雄が活躍するお話が大好きで、『将来はエルダーヒューマンと結婚する~』なんて言ってて……」
くすっと笑うエリス。
その笑顔は、姪を心から愛している証そのものだった。
カナメは小さく微笑む。
「……それは可愛らしいね」
「はい。あの子、病氣で辛いはずなのに……アークライト伝記を読むと、すごく嬉しそうに笑うんです」
エリスの声は、どこか誇らしげで、どこか切なかった。
病に伏せる姪の姿と、それでも笑おうとする小さな強さを思い出しているのだろう。
「……姪は、私のことを“もうひとりのお母さん”って呼ぶんです。
姪が元氣になったら、また一緒に昔話を読んであげたいです」
エリスは胸に手を当て、そっと息を整える。
その瞳には、強い願いと優しさが宿っていた。
カナメは静かに頷いた。
「うん。その日が来るのを、僕も願ってるよ」
その言葉は、慰めでも励ましでもなく、
ただ真っ直ぐにエリスの願いを受け止める“寄り添い”だった。
エリスはほっとしたように微笑み、
その笑顔は、先ほどよりもずっと柔らかく、温かかった。
料理はすべて食べ終わり、
エリスのワインも残りわずかになっていた。
店内は静かで、柔らかな灯りが二人を包み込む。
心地よい余韻が漂い、時間がゆっくりと流れているようだった。
エリスはグラスの縁を指でなぞりながら、名残惜しそうに微笑む。
「……今日は、本当にありがとうございました。
こんなにゆっくり食事をしたの、久しぶりです」
カナメは穏やかに頷く。
「こちらこそ。話してくれて嬉しかったよ」
「……はい」
エリスの声は柔らかく、どこか期待を含んでいた。
彼女は何度か口を開いては閉じ、言葉を探している。
「あの……その……」
「ん?」
「いえ……なんでもありません」
頬が赤いのは、ワインのせいだけではなかった。
(……もう少しだけ……一緒にいたい……
でも……どう言えば……?
こんなとき、どう誘えばいいの……?)
エリスの心は揺れていた。
カナメはその揺れに氣づいている。
だが――あえて氣づかないふりをして、優しく微笑む。
「そろそろ行こうか。夜道は危ないから、外まで送るよ」
「……はい」
エリスが立ち上がろうとしたその時、店主が声をかけた。
「お会計でしたら――カナメさんから、すでに頂いておりますよ」
「えっ……?」
エリスは驚いてカナメを見る。
カナメは特に氣にした様子もなく、軽く会釈しただけだった。
「え、えっと……私、自分の分を……」
エリスが慌てて財布を取り出そうとすると、
店主は優しく微笑んで首を振った。
「こういう時は、男を立てるものですよ。
カナメさん、いつもそういう方ですから」
「……っ」
エリスは胸に手を当て、深く息を吸った。
そして、カナメに向き直り、丁寧に頭を下げる。
「……ありがとうございます。
本当に……今日は、色々と……」
カナメは照れたように肩をすくめる。
「氣にしなくていいよ。僕がしたかっただけだから」
その言葉に、エリスの表情がふわりと緩む。
「……はい」
その一言には、
感謝と、安心と、そしてほんの少しの“特別な想い”が滲んでいた。
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った小道を、二人は並んで歩き出す。
カナメは自然とエリスの歩幅に合わせ、ゆっくりと歩いた。
その氣遣いにエリスは氣づいていない。
エリスは何度も横目でカナメを見る。
言いたいことがあるのに、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。
「……あの……」
「ん?」
「……いえ。
今日は、本当に……ありがとうございました」
カナメは穏やかに微笑む。
「こちらこそ。エリスさんと話せて、楽しかったよ」
その一言に、エリスの胸がきゅっと締めつけられた。
嬉しくて、切なくて、どうしようもない感情が胸の奥で渦を巻く。
やがて二人は、大通りへと出た。
人通りが多く、街灯の明かりが眩しいほどに灯っている。
カナメは足を止めた。
「ここまで来れば安心だね。
氣をつけて帰って」
「……はい」
エリスの表情を見てしまい、カナメは思わず足が止まりそうになる。
(……引き止めてあげた方が良いのかもしれない。
でも――)
カナメは軽く会釈し、夜の雑踏へと歩き出した。
その背中は、あまりにも自然で、あまりにも遠い。
まるで最初から“別の世界の住人”であるかのように。
エリスはその背中が見えなくなるまで、じっと見送った。
そして、小さく息を吐く。
(……結局……何も言えなかった……
もう少し……一緒にいたかったのに……)
胸に手を当て、ほんの少しだけ切ない笑みを浮かべる。
「……カナメ様……」
夜風が、彼女の小さな呟きをさらっていった。
次回予告
一方その頃、元パーティー「ブレイブライト」には、
追放の代償が容赦なく襲いかかっていた――。




