#3『鉱山にて 三』
「ここからできるだけ空気を吸わない方がいい。僕が、君の分まで風の幕を作る」
「幕?」
リンネはラルクに覆面をしっかりと結ぶように指示をした。しぶしぶ、彼はその通りにする。
すると、ふわりと二人の口の周りを風の流れが取り囲んだ。冷たさからして、外気を取り込んでいるのは明白だった。
「なんだ、これ?」
「毒気を吸わないためさ。外の空気を、持ってきておいたんだ」
「精霊使いってのは、そんなことまでできるのか?」
暗がりにも関わらず、リンネのため息ははっきりと聞こえた。
「どう言えばいいのかな。風や水、炎や土、そのものをそのまま操れる。そんな感じだよ」
「はぁ……?」
例えば、とリンネは口にする。
両手を広げて、自らの首の周りを示して見せた。
「僕には、僕とラルクの口の周りに浮かぶ風の塊がしっかりと見えてる。でも、君には見えないんだろ?」
「見えないし、わからねえよ」
「だから、僕はそれを『召喚する』って言ってるんだ。お師匠様に、そう教わったから」
坑道の中は二人が並んで歩くには、少々狭かった。カンテラを点けたラルクが前に進み、リンネはその影をゆく。
「他にも、見えたりするのか?」
「うん。色々あるよ」
へえ、とラルクは興味がなさそうに呟いた。
内心は、穏やかでは無かった。
彼は、リンネの才能に嫉妬していた。
頼まれてもいないのに自分とリンネを比較して、その劣等感に身を焦がしていた。
「でも、君の絵を前に見ただろ。あれは、僕は知らなかった」
「そりゃ、絵だからな……キャンバスの中なら、なんだって描けるだろ」
ラルクの後ろをついてきていた、リンネの足音が止んだ。彼が振り向くと、視線が合った。
「ラルクは絵描きなの? なら、絵を描いて暮らせばいいじゃないか」
「お前、何もわかってないな。売れもしない絵を描けて、なんだってんだ。金がなきゃダメなんだよ。絵描きってのは、金持ちのための道楽だ」
金、金、金だ。
金があれば、俺だって……ラルクはそこまで口にして、しまったと言う顔をした。
「いや、なんでもない。お前には、関係ないことだろ」
「ラルク、君は……」
リンネは言いかけた言葉を途中で切った。
緊張に満ちた顔つきで、天井を見上げる。
細く掘り抜いた空気穴がある。そこから、一滴の雫が垂れてきた。二人は、反射的に飛び退いた。何のことはない、ただの水滴のように見える。
「正解だ、ラルク」
濡れた地面の色が、どす黒く変色している。流れ落ちた水滴が雨や地下水の類ではないことは明らかだった。
「触るなよ絶対に。ただの水じゃない。すごく、嫌な感じだ」
「言われなくても変なものには触りゃしねえが……なんなんだ、これは?」
ラルクは換気孔を覗き込みたい誘惑に駆られる。水滴は上から落ちてきている。原因はリンネの言った通り、鉱山の中であり、上にあった。
「僕もあまり見たことはない。多分、鉱山みたいな場所にだけ、いるやつだ」
「いる、とかいないとかじゃ、わかんねえよ」
「……ラルク。君は、僕の話を信じてくれる?」
ラルクは言葉に詰まった。
目の前の人物、リンネとは、出会ってまだ二日も経っていない。
だのに、何だかその存在に対して妙に引っかかるものを感じた。
ラルクから見て、リンネは大人びて、利口な少年に見える。
本当に、自分よりも頭がいいのかもしれない。妙にこなれた生き方をしているのが、彼には眩しく、そして腹立たしかった。
だが、リンネは子供だった。
どこかで小癪な無理をしているように思えた。
それはラルクとしての、精一杯の大人の男としての矜持が多分に入っている。
「信じてもいいがーー気を許したわけじゃねえ。どのみち、お前だって俺がいなきゃ、そう簡単には帰れないんだからな」
「ああ、うん。それでいいよ。僕もまだ、君をどんな風に評価すればいいか、わかっていないんだ。でも、今は十分だから」
リンネはぶつぶつと何かを呟くと、滴り落ちる水滴に向けて、手のひらをかざした。
「は……?」
ラルクは目の前で起きている出来事に、呆気に取られる。
高きにあるものは下に落ちる自然の法則に逆らい、水が上へと遡っていく。
常識では測れない出来事が、ラルクの思考を混乱させていた。
「ちょっ……なんだ、これ? 何をしてる?」
「探ってるんだ。流れ落ちた水を元の場所まで導いて、初めに生まれたところを」
十分な説明であるとは言えなかった。なぜなら、リンネにもあまり余裕がなかったからだ。
「精霊使いってのは、一つしか使えねえんじゃねえのか?」
「だから、僕はそんなのじゃない。僕に見えるものを召し抱えて喚び出しているだけだ」
たまらず、ラルクは聞いてみた。
「お前には、何が見えてるんだよ」
リンネは表情を綻ばせた。その問いかけは、ラルクが多少なりとも信用を寄せた証左に他ならないからだった。
「例えば、今、僕と君の口の間を塞いでるやつがいるだろ。ラルクにわかりやすいように風の幕って言ったけど、実際は、そうだな。子犬くらいの大きさの、緑色をしていて」
「待て待て待て、何が何だか分からねえぞ」
ラルクは思わず口元を抑える。そこには変わらない空気の流れと、涼やかな風のそよぎがあった。
「うん、だからそう言うわけのわからないやつが見えるんだよ、僕は。人でも動物でもない、力を貸してくれる、君たちが精霊って呼ぶような存在がさ」
嘘や冗談で言っているようには見えなかった。むしろリンネは真剣に、どうにかしてラルクにこのもどかしさを伝えようとしているようだった。
名前がない存在。
不可思議で、自分にしか見えていなもの。
しかしそれは、現実に影響を及ぼすほどの力を秘めている。
「あー……よくわかんねえが、まあ、わかったことにしてやるよ。それで、水が逆さまに落ちていくのもその、犬が原因なのか?」
「いや、これはまた違っていてーー」
ずん、と腹に響く振動があった。
二人とも、思わず周囲を見回す。
地が小刻みに震えていた。
「なっ、なんだ?!」
「ーーラルク、こっちへ!」
リンネが彼の手を取り、坑道の奥へと駆け出した。
「馬鹿野郎っ! 天井が崩れたら出られなくなるぞ!」
「違う! そうじゃない! 僕を信じてくれ!」
揺れはますます振幅を増し、大きくなっていく。脆弱な木組みに支えられた坑道では、崩落するのも時間の問題だった。
選択を間違えば、死ぬーー。
ラルクはぎゅっと目を瞑った。
俺が行かなければ、このガキは助からない。
彼の内心には、ずっと苛立ちがあった。
この状況に放り込まれた情けなさを、自分の中で、延々と反復していた。
誰のせいでもなかった。ひとえに自分の絵が、売れないからだった。
金があれば、絵が上手ければ、人付き合いが良ければ。
こんな地の底で、子供一人と心中することも無かったはずなのに。
「くそっ! なんとかしろ! リンネ!!」
壁に手をついていなければ、歩くこともままならない。がしゃりとカンテラがラルクの腰から音を立てて落ち、進む先は暗がりに包まれた。
砂埃を巻き上げて、すぐにでも崩れ落ちそうな坑道を、二人はひた進んだ。
「ここならーー大丈夫だ」
二人がたどり着いたのは、狭い通路で行き違いを行うために掘られた横坑だった。
「おい、まさかーー」
ラルクの言いかけた言葉も虚しく、土埃と轟音が二人をあっという間に埋め尽くした。
坑道は、瞬く間に落盤した。
騒ぎによって作業が終了していたため、坑夫たちの被害は皆無だった。
だがーー二人が中に取り残されたのは明らかであり、山鳴りを耳にして、すぐに外の者たちが知ることとなった。
「いてて……狭くて、すまない。差し迫りすぎてて、落盤は防ぎようが無かった。なんとかしのげそうな場所を、教えてもらってたんだ」
「お。おい、お前……それより」
二人は狭い横穴の中で、向き合う形になり、ぎゅっと身を寄せ合っている。
意図せずラルクの手のひらが、リンネの薄い胸板に触れていた。
「女だったのか?!」
横穴は暗く、互いの顔は見えない。
しかしどうやら、リンネの力のおかげか、呼吸はできるらしい。
ラルクからして、この状況に対して色々と説明を望みたいことはあった。しかし、土壇場の困惑のせいで、今この場で、もっとも直接的な感覚ーー触覚から来るものに、思考の全てを支配されてしまったのだった。
「うん。え、僕、ずっと男だと思われてたの?」
「あ、いや……す、すまん!」
ラルクは慌てて手を引いた。しかし、未だ体の大半は密着している。リンネの華奢な体、高い声、中性的な身なり、その全てが、答えとなってラルクに嵌っていく。
ガキだとは、思っていたが。
それもそうだ、男と女では。
「ちょっと、あまりごそごそと動かないでおくれよ。ただでさえ狭いんだから」
「いや、そんなこと言われたってなあ……」
リンネは男に触れられていることを、露ほども気にしていないらしい。そもそもそう言う対象として、ラルクを見ていないようだった。
彼はため息を吐いた。気にするだけ、バカらしい。
とにかく、死にはしていないようだ。時間の問題かもしれないが、二人とも命は助かっている。
「ラルク、信じてくれて、ありがとう」
「逃げてた方が、マシだったと思うけどな」
「そうしたら、君は潰れてた。多分僕も」
ラルクは背筋がひやりとした。逃げ遅れていれば、今頃、土の棺桶でぺしゃんこだ。墓を買う手間すら省けてしまう。
「どっちから聞きゃいいんだ」
「どっちからでもいいよ」
ラルクは思案してから、気になる方をリンネに問いかけた。
「この落盤が、皆の体調不良の原因だったのか?」
「そう……だね。その理解でいいと思う。落盤の直接の原因は、落ちてきたあの水だよ」
換気口から垂れていた、変色した水滴。
鉱山の毒でも入っていたのだろうか。
「半分正解、半分は不正解。良くないものが入っていたのは、多分間違いない。当たったり、乾いた粉塵を吸った鉱夫はただじゃ済まなかったはずだ」
暗がりに目が慣れてくると、ラルクは気付いた。この空間には、風の流れがある。
崩れた拍子に、壁内のどこかに亀裂が入って外と繋がっているらしい。
「水が教えてくれたんだ。ここは昔の川の下だって。鉱山には水場があったろ?」
「あの水は、普通だったじゃねえか」
「でも、その水はどこから来ていたと思う?」
ラルクはリンネの問いかけに詰まった。
正直、飲み水のことなど気にしたこともない。井戸水であろうが、川の水であろうが、口にして腹を壊さなければ、なんでも構わなかった。
「鉱山の中さ。だから、僕は坑道に原因があると踏んだ。案の定、換気穴がある場所とない場所での違いがあった。あとは簡単だ。本当の理由を探せばいい」
「本当の理由?」
「なぜ、彼らから警告が発されていたか、だよ」
それからのリンネの話は、ラルクの理解の埒外を超える話だった。
「彼らは、問いかけなければ答えない。でも、力を貸してくれることはある。僕は、それを召喚すると言っている」
「彼ら……それが、精霊だって?」
そうだ、とリンネは言った。
良い奴も悪い奴もいるみたいなんだ。でも、気まぐれでさ、と続ける。
「これは、現象から見た僕の予想を含む話だ。信じるか信じないかは、君が決めれば良い」
鉱山にも、『彼ら』はいた。
自分の身に縋り付き糧を得る人々を見下ろしていたある日、山体を構成する骨格に違和感を感じた。
坑道が、昔の水脈に近付いている。このままでは、崩壊を免れない。
人々が死ぬのは容易いが、黙って見過ごすのはなんとも気分が悪い。
だから、毒の水を流して警告をした。
それでも危険を冒すのならば、それはまあ仕方がない。
「仕方がないって? ずいぶん、人間くさい考え方をする奴らなんだな」
「例え話だって。僕の想像も入ってる。もっと、高尚な考えをしているかもしれないし」
リンネは長い話を終えて、深呼吸をした。
疑問が一つ解決したことで、ラルクは据え置いていたもう一つの現実的な問題を聞くことにする。
「それで、俺たちはここから出られるのか?」
「ああ、多分。隙間から風に乗せて、僕の声を場長さんに届けてる。向こうの声も聞こえてるから、今頃隙間を掘ってくれてるはずだよ」
ラルクの体から、ようやく力が抜けた。リンネを押し潰してしまいそうになる。狭いよ、とリンネが抗議すると、ラルクは仕方なく壁の端へと身を寄せた。
「助かるんだな」
「人任せだけどね。恩知らずな人達じゃなければ良いけど」
リンネはぞっとするようなことを言った。
今は、それを考えても仕方のないことだった。
「ラルク、僕からもいいかい?」
「内容による」
互いの顔は、未だに見えない。二人は、声だけで感情を推し量るしか無かった。
「絵を描いていたんだろ。他の絵はないの?」
「全部持ってかれちまったよ。俺の絵は、大した価値にもならなかったんだ」
一呼吸おいて、ラルクは話し始めた。
「人よりもちょっとくらい絵が描けるだけで、俺は調子に乗っちまった。借金をして、絵の具を買って、良い絵を売れば一人前の絵描きになれると思ってた。しばらくは、全員が褒めてくれたさ。天才だなんだって、だから俺も、その気になっちまった」
リンネが言葉を挟む間もなかった。ラルクは彼女が聞いてもいないことを、次々と言葉にして、虚空へと自戒を投げかけていった。
「一丁前にひもじい思いをして、カビたパンにかじりついてよ。一世一代の腹積もりで描いた絵は、二束三文にもなりゃしねえ。男も女も商人も、それでも言うんだ。才能がある才能があるって。だから俺はなんとかなるまで絵を描いたんだ。そのうちいいことあるって、俺が認められないのは、俺を凄いと認める奴がいないからなんだって」
「ラルク……」
ラルクは、気付いた。
驚くほど自分が乾いた声で、その経験をリンネに話していることに。
彼が絵にかけた情熱は、失われようとしていた。
「で、まあ、売れない絵描きってのは首括って死ぬか、借金を返すために何でもするか、それしかねえ。俺は惨めに死ぬのだけは嫌だった。だから逃げ回ったんだが、とうとう借金取りに捕まって、体ごとこの鉱山に売り飛ばされた。それで終わり、だ」
「なるほどね、君が、そんな体で、向いてない仕事をしていた理由がわかったよ」
どちらからともなく黙ってしまうと、気まずい空気が流れた。
リンネは何度か口を開こうとしていた。その気配だけが、暗闇の中、二人を繋ぐ動作だった。
「つまんねえだろ、俺の人生。お前みたいに、才能がありゃ違ったのかもな」
「……ラルク、僕に考えがあるんだ」
リンネは閉じ込められたまま天井を向く。彼女の耳には、直上に来た鉱夫たちの声が届いていた。
「僕はまだ、先払いの報酬しか受け取ってない。残りの報酬を受け取る代わりに、君をここから、出してやる」
「……っざけんじゃねえ!」
ラルクはリンネの方に手当たり次第に腕を伸ばし、引っかかった布を掴み上げた。
「何様のつもりなんだ! お前はそんなに偉いのか? 俺の人生をどうにかしようとでも思ってるのか?」
「そうじゃない! 一目見て、君の絵に惹かれたからだ! 借金は絵で返せ!」
ラルクは振り上げた拳を下ろす機会を失った。リンネは、体格差からその腕を探って、彼が拳を振り下ろすのを止める。
「それに、ラルクのためじゃない。僕の言葉を信じたのは、君が二人目だ。だから、君に聞いて欲しいことが沢山あるんだ」
「……意味が、わからねえ」
沸騰した怒りが引き、ラルクはリンネから手を離した。よほど強く引きずっていたらしい。リンネはごほごほと咳き込んだ。
「お、おい。悪かったよ」
「いや……僕も、君の気持ちを考えないで、唐突に話しすぎた。でも、嘘じゃない」
この横穴は、リンネの力で内からの風圧によって支えられていた。そうでなければ、とっくに彼らを下敷きにして、崩れ去っていただろう。
「ラルク、僕に絵を描いてくれないか」
坑道の外に向けて、涼やかな風が吹き出ていた。リンネの伝言を耳にした場長たちは、崩落した地盤から抜ける風を頼りに、天井の掘削を始めていた。
「くそっ……こんなところでぶん殴られ続けるより、何倍もマシか。わかった、わかったよ。乗ってやる、お前の言う通りにしてやるよ」
癪だった。心の底では感謝していても、ラルクはリンネを許そうとしなかった。彼が言った通り、『そのうちいいことがある』を本当に目の前にした時、ラルクは逡巡を隠せなかった。
それでも、二人は少しだけ歩み寄ることに成功した。暗い横穴が、その距離までも縮めてしまったかのように。
じきに、がしんがしんと円匙が土を削る音が聞こえた。
隙間のある土くれは力自慢たちの振るうつるはしで見る見るうちに削られていく。
じきに二人が待つ横穴の天井ががらりと崩れ、外の明かりが差し込んだ。眩い日光は暗闇に慣れていた彼らの瞳孔を焼き、ようやく助けが来たことを実感させたのだった。
次回は11月8日(日)21時に投稿予定です。




