第1話 105キロ
2階の納戸に、体重計が置いてあった。
いつから、そこにあったのだろう。
普段、体重を測る習慣はない。健康診断のときに数字を確認する程度で、自分から体重計に乗ろうと思うことも、ほとんどなかった。
その日も、特別な理由があったわけではない。
ただ、目に入った。
なんとなく、乗ってみようと思った。
足を乗せる。
表示された数字を見た。
「……ん?」
一瞬、意味がわからなかった。
もう一度、目を向ける。
表示は変わらない。
105キロ。
「……マジかよ」
思わず声が出た。
念のため、いったん降りて、もう一度乗ってみる。やはり105キロだった。105.0。小数点以下まで、きっちり表示されている。
見間違いではない。
体重計が壊れているのかとも思ったが、そんな都合のいい話はないだろう。
105キロ。
自分の体重が、そこまで増えていたとは思わなかった。
いや、まったく気づいていなかったわけではない。
ズボンのウエストがきつくなった。以前なら何ともなかった動作で、体が重いと感じることも増えた。階段を上ったあと、息が上がることもある。
少しずつ変化していたのだ。
少しずつだったからこそ、気にしなかった。
昨日まで普通にできていたことが、今日もできる。それなら、問題ない。そんなふうに考えていたのかもしれない。
だが、数字は違った。
105キロ。
目の前に突きつけられた数字は、これまで見ないふりをしてきた自分の体を、はっきりと示していた。
「そりゃ、膝も痛くなるわな……」
最近、立ち上がるときや階段を下りるときに、膝が気になることがあった。
もちろん、体重だけが原因とは限らない。年齢や仕事、日常生活での負担も関係しているかもしれない。
原因は、まだわからなかった。
ただ、このまま何もしないでいいとは思えなかった。
体重計から降り、しばらくその場に立っていた。
105キロ。
その数字が、頭から離れなかった。
*
1階に下りると、妻がいた。
妻は、スーパーのレジでパートをしている。勤務は15時から。午後から仕事に出る妻と、夜に働く自分では、生活の時間帯が少し違う。
それでも、家にいれば顔を合わせるし、何気ない会話もする。
「なあ、体重を測ってみたんだけどさ」
「うん?」
「105キロあった」
妻は、少し驚いたような顔をした。
「えっ、105キロ?」
「そう。105キロ」
「ずいぶん増えたね」
「だよなあ……」
自分でも、そう思う。笑って済ませるには、少し大きな数字だった。
妻は、少し考えるようにしてから言った。
「最近、膝も痛いって言ってたよね」
「ああ。立ち上がるときとか、階段を下りるときとか」
「だったら、少し体重を落としたほうがいいんじゃない? 食べるものを気をつけるとか、何か運動するとか」
「まあ、そうだよな」
「いきなり無理しないで、できることから始めたら?」
妻の言葉は、ごく普通のものだった。
大げさに心配するわけでもない。責めるわけでもない。ただ、気になったことを、そのまま口にした。
それが、かえって身に染みた。
「そうだな。ちょっと考えてみるよ」
「無理しないでね。膝が痛いんだったら、気をつけないと」
「ああ」
それだけの会話だった。
妻は、やがて自分の用事に戻った。自分も、それ以上は何も言わなかった。
だが、頭の中には、まだ105という数字が残っていた。
体重を落とす。
言葉にすれば簡単だ。
しかし、実際にはどうすればいいのだろう。
何を食べればいいのか。どんな運動をすればいいのか。そもそも、自分に続けられるのだろうか。
考え始めると、いくつもの疑問が浮かんできた。
*
とりあえず、スマートフォンを手に取った。
検索する言葉は、すぐに決まった。
「体重を落とす方法」
画面には、さまざまな情報が表示された。
食事制限、筋力トレーニング、ランニング、ウォーキング。
どれも、聞いたことのある方法だった。
食事を見直すことが大切なのは、わかっている。食べ過ぎれば体重は増えるし、運動したほうがいいことも知っている。
問題は、それをどうやって続けるかだった。
食事制限を厳しくするのは、あまり自信がない。筋力トレーニングも、何から始めればいいのかわからなかった。ジムに通うことも考えたが、そこまで大げさなことをしたいわけではないし、高価な器具を買うつもりもなかった。
できるだけお金をかけず、生活の中で無理なく続けられる方法がいい。
そう考えていくと、ひとつの方法が目に留まった。
ウォーキングだった。
歩く。
特別な技術はいらない。大がかりな道具も必要ない。靴さえあれば、始められる。
走るよりも体への負担を抑えやすく、自分の体力に合わせて距離や時間を調整することもできる。
もちろん、歩けば必ず痩せるというわけではない。食事や生活習慣も関係する。
それでも、今の自分が始めるには、悪くない方法に思えた。
「歩く、か……」
つぶやきながら、画面をスクロールした。
ウォーキングの効果、歩く時間、歩く速さ、靴の選び方。膝に負担をかけない歩き方についても調べた。
情報はいくらでも出てくる。
どれも参考にはなるが、画面を眺めているだけでは何も変わらない。実際にやらなければ、体重は落ちないのだ。
そこで、ふと思った。
自分が住んでいる富谷市には、歩ける場所がいくらでもあるのではないか。
*
宮城県富谷市。
仙台市の北側に位置するこの街には、新しい住宅地と昔からの集落があり、田畑や雑木林も残っている。
幹線道路沿いには店が並び、少し離れれば景色が変わる。住宅地のすぐ近くに、昔ながらの風景が残っている場所もあった。
普段は、車で通り過ぎるだけだった。
買い物に行く。仕事へ向かう。用事を済ませて帰る。
道路は、どこかへ行くためのものだった。
歩くためのものとして、街を見たことはほとんどなかった。
「歩くなら、どの辺りがいいかな……」
考えてみる。
普段から車で通る大清水や鷹乃杜の辺りなら、道の様子もある程度わかる。まずは、そういう場所から始めるのもいいかもしれない。
車なら数分で通り過ぎる場所も、自分の足で進めば、違った景色になるはずだ。
道の傾斜。歩道の幅。街灯の明るさ。道路脇の草木。
普段なら気に留めないものが、目に入ってくるかもしれない。
そう考えると、少しだけ興味が湧いた。
ただ、富谷には人間だけが暮らしているわけではない。
住宅地の近くでタヌキを見かけることもある。イノシシが出没することもあるし、熊もいる。
山や林が残っている以上、野生動物が暮らしていても不思議ではなかった。
人間が道路を造り、住宅地を広げても、動物たちの生活がなくなるわけではない。彼らにとっては、昔から通っていた場所に道路ができただけなのかもしれない。
池やため池には、ウシガエルがいることもある。
人間が暮らす街のすぐそばに、別の生き物たちの世界もある。
そんなことは、頭ではわかっていた。
けれど、それまでの自分は、野生動物の存在を日常生活と結びつけて考えることはなかった。
ウォーキングを始めたら、そうしたものを目にする機会も増えるのだろうか。
少し気にはなった。
それでも、今の目的は変わらない。
体重を落とすこと。
膝の痛みを気にせず、普通に生活できるようになること。
まずは、そのために歩く。
*
スマートフォンに目を戻した。
ウォーキングについて、もう少し調べてみる。
どのくらいの時間、歩けばいいのか。どれくらいの速さがいいのか。
最初から長い距離を歩く必要はないらしい。体力に合わせて、少しずつ時間や距離を増やしていけばいい。
早く結果を出そうと焦る必要もない。
大切なのは、続けること。
そんな内容が、何度も目に入った。
ほかにも、気になる情報があった。
空腹の状態で歩くと、脂肪がエネルギーとして使われやすいという話だった。
本当に、それが体重を落とす近道なのかはわからない。ただ、読んだ情報を見ているうちに、食事の前に歩くという方法もあるのかもしれない、と思った。
どうすれば効率よく体重を落とせるのか。
それは、実際に歩き始めてから考えていけばいい。
最初から完璧な方法を見つける必要はなかった。
まずは、歩くことに慣れる。
自分の体が、どのくらいなら無理なく動けるのかを知る。そのうえで、少しずつ距離を伸ばしていけばいい。
そう考えると、やるべきことが見えてきた。
特別なことをする必要はない。
自分にできることから始めればいいのだ。
スマートフォンを置いた。
体重計の数字は、まだ頭の中に残っている。
105キロ。
この数字を、いつか変えたい。
一度歩いたからといって、すぐに体重が大きく減るわけではないだろう。それでも、何もしなければ何も変わらない。
だったら、始めてみるしかない。
「よし……やってみるか」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
大きな決意をしたわけではない。
人生を変えようと思ったわけでもない。
ただ、少し歩いてみようと思った。
それだけだった。
このときの自分には、それ以上の理由などなかった。
膝の痛みを気にせずに歩きたい。
体重を落としたい。
これからも、普通に生活していきたい。
そのために、自分にできることを始める。
すべては、健康のためだった。
第1話 了
次話「夜に働く男」へ続く。




