6。
『東八角地域』。父の代で起きた二度目の大洪水──。
──当時、父と母も駆り出されて、村全体で復興作業やボランティアに従事してた人がたくさん居たと聞いた。
私は、まだ、中学生で「お前は良いから」って、寝かされてた。今日みたいに。
だけど、今は違う。
父の居ない、母の知らない時間。私は家を出た。
それから、不思議な女の人に出会って──。
──暗闇にポツリポツリと灯る家々の明かりを見てる。
まるで、蝋燭の明かりが灯る──夜の列車の窓から見える風景。日常にない異次元みたいな。
「綺麗……」
「私が?」
「いえ、あのその……」
「フフ。冗談」
私の呟いた言葉が、ほんの少し。冗談に変わった不思議。
まるで、さっきまで見えてた過去の記憶の映像が、幻か何かのように。
隣に座る名前も知らないこの女の人に──、魔法をかけられたみたいに。
相変わらず、嘘みたいなこの人は、私の困った様子を見ては「クスクス」と笑っていた。
車内通路を挟んで向かい側の窓に連なる時間。
夜の帳。
だんだんと家々の明かりが少なくなっていく。目で追えなくなるほど、後ろへと過ぎ去ってしまう。
だけど、私と座る魔法使いみたいなこの女の人との時間は、ゆっくりと流れた。
規則的に揺れる。天井からぶら下がる白い吊革。車内の白の蛍光灯の明かりが、眩しく感じた。
「タタン……タタン……」と、レールの上を走る列車のリズム。足もとに響く。今の時間。
「面白いもの見せてあげよっか?」
「え?」
「『シミ』。見えるんでしょ?」
「あ、ま、まぁ……」
長い黒髪を掻き上げた女の人が、つぶらな瞳を一瞬、輝かせた。
どこかの会社の制服は着てるみたいだけど、日本人形のような妖しさがあった。
不気味な怖さと言うよりは、喋ると不思議な魅力があった。
私は、学校の制服を着たまま鞄を脇に「ギュッ!」と抱えて、息を呑んだ。
少しの間の時間に、私も肩に掛かる髪の毛を掻き上げて、女の人の方を見てた。私の手のひらの中には、私のとお父さんの切符が二枚あった。何処にも仕舞えず、握りしめてた。
(パチン!──イィィ……ン)
何かが弾けた音。
この魔女のような女の人が、指先で鳴らしたのか、車内に金属音のような振動が響いていた。聴覚を通じて幻覚を見せるような。不思議な魔術の中にいるみたいな。
「え?え? 嘘、ウソ?!」
「フフ……」
もしかしたら誰か。
「ポッ……ポッ……ポッ……」と浮かび上がる。床に染みついてた『シミ』。
黒い影のようなものが車内の天井に向かって伸び上がる。白い蛍光灯は、そのままだ。吊革が揺れてる。
「ひ、人──?!」
「だとしたら?」
人のような形を象っている。そこかしこ。あたかも、私の乗る前から、そこに居たように。
黒い影が時折、鮮明な人の姿を映し出しては消える。それは、神戸や三ノ宮に行く途中の新快速列車の車内風景と、変わらなかった。いつものように。
誰もが彼も──そこに居た。
ただ、違うのは、乗客のほとんどが──、この世のものとは想えない。幻。視力には自信のある私が、目が霞むのを疑うくらいに。
「気づいてたでしょ? あなたは、何処に行くの?」
「わ、私は──」
急に怖くなった。行き先なんて考えてなかった。いや、それも嘘。なんとなくは想ってた。
けれど、それは──、
お父さんの椅子から見つけた切符──『東八角駅』。
鍵は持ってる。お父さん……の生まれ故郷の家。
たまたま、お爺ちゃんもお婆ちゃんも、二度目の大洪水の前には寿命で死んでた。
ギリギリ遺されたお父さんの実家──今は空き家だけど。お母さんが、月1で帰っては掃除してる。今夜は、そこに泊まろうって、想ってた。私も何回かは行ったことあった。
「ふーん。見たとこ、乗ってない? あなたのお父さん」
「え? ど、どう言う……」
「あ。トンネル。良いよね。いつも、想うよ」
暗闇に大口開けて呑み込む山に空けられたトンネル。
静かな夜の列車──車内にレールの響く音と、窓の外に流れる僅かな家の明かりを消して、轟音が響き渡る。
山中深く走る列車が、闇を切り裂くようにトンネル内部を突き進む。
人工的に設置されたトンネル内の白い明かりが、等間隔に眩しい。かつて、トンネルの掘削作業に日雇いで倒れたお爺ちゃんの話を聞いてた。お父さんからの話。想い出した。
トンネルを抜け出ると、すぐに、もとの暗闇へと戻った。車内の白い蛍光灯だけが灯ってる。揺れる吊革。
けれど、相変わらず。幽霊なのか何なのか、人のような姿を象った誰かが、消えては現れ。また、何処かへと行き──。誰も私に話し掛けることは無かった。
「死んでも日常は、続くんだよ。人は。気づくまでね。そう簡単には次の段階に進めない。人によるけど」
「な、なんで、そんな……」
過疎地域へと連なる──知らない線路。
私は、決定的な何かを、その女の人から聞けなかった。怖かった。
何処に行くのか──。人生なんて分からない。けど。
まるで、別世界のように、私を連れて行く。今は。この列車に揺られて。
お母さんは、たぶん、今も真面目にお仕事。ごめん。真夜中に、こんな由奈を許して──なんて、想う。けど、あの人は──、お母さんは笑っていそうだ。きっと。
ふと、隣を見ると、魔法使いみたいなこの女の人も笑っていた。
「昭和レトロだよねー? 真っ暗。相変わらず。何も見えないよね……。そこが、良いんだけど」
「そうなんですか?」
お父さんやお母さんの産まれ年を想う。私は、平成の半ばよりも後。この魔女みたいな女の人は?
けど、神戸や大阪方面の新快速電車と違って、この西行きの『鬼新線』は、乗り心地が悪い。座面と背もたれの角度が90度。
「うぐく……。お尻痛いよ」
「フフ。そろそろね。行かなきゃ……」
「え?」
列車が、徐々に速度を落として停車した。
窓の外に白く灯る『東八角駅』の文字。
どう言う訳か、床の『シミ』から浮き出てた影みたいな人たちも、ワラワラと降車し始めていた。
「じゃあね」
「ま、待って!!」
『東八角駅』──。もともと、そこで降りるつもりだった。
駅舎に設置された時計が、23時に針を近づけている。
あたかも、最初から誰も人が居なかったように──、扉から降りた私には誰の姿も見えなかった。
ただ、大きな蛾や虫なのか、駅舎の白い蛍光灯に近づいては──「ジジジ……」と、音立てて黒い点みたいにして視界の片隅に消えた。
私は、見失った、その女の人の姿を探してた。さっきまで、そこにいたのに。