第2話 変容
西暦2049年。それは一瞬にして、緑豊かな西欧の国ドイツの、ある街を惨劇の舞台へと変えた。どこからともなく現れた白く巨大な蛾の大群。まるで現実感のない生物の飛来に、人々はたちまちパニックになった。
なぜあんなに巨大な蛾が存在するのか、突然変異したものなのか、人間を攻撃する目的なのかそうでないのか。何もわからず戸惑っている人間に対し、その巨大蛾はあまりに素早く殺戮を始めた。
狙われた人間は抵抗する間もなく数秒あとには死体となって転がり、地面はどこも血の海となった。狂ったように叫びながら、安全な場所を求めて逃げ惑う人間たち。襲ってくるものが何なのかもわからず、抱き合ったまま動けない親子もまた、首や手足を切り落とされて絶命する。そして半日とかからないうちに、その街は壊滅状態に陥った。
翌日には、巨大蛾の群れはイタリアの南部に、そしてフランス、ベルギーの地に現れ、同じように人々をただ襲っては殺戮を繰り返していった。
国際会議であれこれと決めている余裕はない。この事実が広まるのは時間の問題だが、それは世界中がパニックになることを意味する。
各国の首脳陣は「それ」を人類の脅威とみなし、軍隊を出動させた。火炎放射器を放つと巨大蛾はひどく苦しみ、白い翅を大きく広げては身悶えた。やがて太い胴体が爆ぜると、その中から青黒い体液をどろどろと溢れさせて絶命した。だが、それでもすべての敵を駆除することは出来ない。
一番初めに襲撃を受けた地であるドイツの首相デボラは、すぐさまヨーロッパ諸国と連携し、情報の共有をしなければならないと国際通信会議を開いたが、メディアには一切を伏せるよう要請した。メディアが報道すれば情報は操作され、いたずらに人々の恐怖心を煽るだけだ。「それ」の正体がわからない段階での発表は、デマが錯綜するだけだろう、と。そう考えるのは他国の代表も同様だった。
直ちに調査部隊が編成され、巨大蛾の死骸の分析が始まったが、あらゆる方面から調べた結果、もともと地球上に存在する蛾の細胞以外に、未知の成分や人工的なものであると決定づけるだけの証拠は得られなかった。それではやつらは一体どこから現れたのか……。もっと詳しく調査すれば、必ず結果を出せるはずだと、科学者たちは躍起になった。
壊滅に追いやられた街の周辺の人々は、いつまた「それ」が現れないかと一日中怯えて過ごさなければならなかったが、一週間、一ヶ月と経つにつれて恐怖は薄れ、街はふたたび活気を取り戻していった。もう「それ」は軍隊によって全滅したかもしれないと、誰もが楽観的な考えを持つようになった頃、世界中の人々が「それ」の存在を知ることになった。
きっかけは、SNSにアップされた動画だった。『天使たちのお仕置き』とタイトルの付いた動画の中で、人々を恐怖に陥れた巨大蛾は、白い翅を大きく広げたさまが天使のように見えることから、投稿者はそれを「エンジェル」と呼んだ。
画面に映っていた景色が突然照明を遮られたように暗くなり、カメラが空に向けられる。それまで青かったそこを覆うのは、太陽を背負って黒く浮かび上がって見える、無数の「何か」だった。行き交う人々も空を見上げ、バッタやイナゴの大群が押しよせたのかと思い、悲鳴を上げながら建物の中に避難しようとした。しかし、たちまち降下して地上に近づいたそれらは、人間の大人ほどもある、巨大な白い蛾に似た生物だった。
何が起こっているのか、誰にもわからなかった。今まで隣で話していた人間の首がいきなりとび、その身体が鮮血を噴き出しながら地面に転がるのを見ても、彼が死んだと理解するのは誰にとっても時間が必要だった。数秒後、自分の頬を両手で押さえながら絶叫する者は、自身の目が見ているものと、自身の頭の中に沸き起こる恐怖が現実のものだとは、なぜか思えなかった。
「ヒトはあまりの恐怖に直面すると笑ってしまうものなのか」と、どこか他人事のように思いが滑っていく。だが、そんな引きつった曖昧な笑顔をしながらも、その口は極限まで開かれ、その喉の奥からは言葉にならない絶叫が溢れ続けるのだ。そうしながらも、やがてその者も動きをぴたりと止め、自らの血の海の中で息絶えていった。
人間の首や身体の一部が突然切断され、おびただしい血を流しながら次々に死体となっていく。その地獄のようなさまは、ところどころスローで編集され、人間を襲って殺しているのが巨大な蛾だと視聴者に知らしめた。奴らは滑空しながら人間に近づき、その翅をやや立てるようにして構える。そして鋭利な刃の一太刀のように翅を振り下ろすと、そこには人体の切断面が現れるのだ。
初めは、誰もが作りものやCGだと信じて疑わなかった。動画が本物なら、撮影者はなぜ襲われないのか、なぜ大量殺戮が起きている場所にいて平然とカメラを回しているのか、と。
当然、動画を検証する者が現れる。さまざまな技術を駆使した結果、それが正真正銘の真実を写したものだと発表する。たちまち元の巨大蛾による殺戮動画と検証動画が拡散され、誰もが「エンジェル」の存在を認めるようになるまで、そう時間は要さなかった。
フランス、スペイン、スイスと、ヨーロッパ諸国に犠牲者が増え続ける中、各国の政府と軍は大急ぎで対エンジェルの戦闘部隊を作った。『Black Arms & Tenets』B.A.T.の通称がデビルなのは、「エンジェルと戦う黒い人たち」だからだ。
それはB.A.T.隊員が対エンジェル専用の戦闘服を着用した状態を指す。もともと人命救助のために開発されていたボディスーツを改良して出来たもので、それはエナメルのように艶やかな黒い色をしており、身体にぴたりと張り付くタイトなシルエットなのだ。着用すると身長の約三倍のジャンプ力を発揮出来、ある程度の空中戦にも対応可能な上、軽量・柔軟・強靱で、極端な高温や低温、衝撃やある程度の毒物等からも隊員の身を護るように設計されていた。
西ヨーロッパの地に初めて現れたエンジェルは、各地で殺戮を重ねながら東へと移動していた。ポーランド、スロバキア、ハンガリーと犠牲を増やし続けているエンジェルが、ルーマニア、ウクライナを超えてアジア圏へと到達するのも間近と思われたが、ベラルーシに入ったところでB.A.T.に撃墜され、その数は目視できる範囲では約半数にまで減少したと推測された。
陸伝いに移動するエンジェルは、渡り鳥のように長距離を飛行することが出来ないとみて、デボラたち各国代表は、極東の島国・日本に協力を仰ぐ意思を固めた。周りを海で囲まれた島国である日本にエンジェルが到達するのには、かなりの日数がかかるとふんでのことだった。
日本国の総理大臣ライゾウは、それを快く受け入れた。国を挙げての急務として、B.A.T.の拠点の設置、B.A.T.隊員の確保と各班の編成、シェルターの増設、防壁設置と、日本はエンジェルを迎え撃つ準備を急ぎ、第一波の攻撃を最小限の被害で防ぐことに成功した。
エンジェルが最初に発生してから半年経つ頃には、世界の人口はその半数以下にまで減少したが、生き残ることが出来た人類の尊い命が、もうエンジェルによって無残に奪われることがないよう、B.A.T.はエンジェルを絶滅させるために、戦い続けている。
──2059年 東京都下・調布市の殉職者墓地
萌えはじめた葉を透かし、春のやわらかな陽射しが揺れている。それはブリクサの背中でゆるゆると遊びながら形を変えるが、ときおり吹きつける冷たい風は、首筋を切るように鋭かった。そんな、過ぎ去った冬の余韻が見え隠れする午後、ブリクサはかつての仲間たちが眠る墓碑の前に跪く。
「もう六年……、いや、まだ六年か」
何も答えない仲間たちの顔を順番に思い浮かべ、ブリクサは静かに息を吐いた。
六年前。それまでのブリクサは、上の命令を絶対とする優れた隊員だったが、あの日から一変、エンジェルを心の底から憎むようになった。仲間を一度に失うことになったのは、隊長である自分が判断を誤ったからだ。クラウスは違うと言うが、現場での責任はすべて自分にあると、ブリクサはかたくなにそう思っている。
あの日も全員無傷で帰還するはずだった。それが、隊員全滅という事態に見舞われ、ブリクサは一人だけ死に遅れた。これからどう戦ってゆけばいいのかと苦悩し、今後はもう隊を率いることはできないと思った。そもそも片腕で何ができるというのか。他の隊の人間は、ブリクサを慰めるものもいれば、「部下を見殺しにした」と非難する者もおり、B.A.T.を去ろうかと考えはじめていた。
左腕を失ったのは、あの日遭遇したエンジェルとの戦闘中だった。利き腕を失くしたわけではないと、右腕一本で戦い続けたが、隊員が死亡する原因となった爆発で吹き飛ばされ、瀕死の重傷を負いながらも本部に収容された。
緊急手術が行われ、肘の上で滅茶苦茶に潰されていた左腕は、肩と肘の中間あたりで切断された。その他の怪我は幸い深刻なものではなく、臓器にも損傷はなかったため、回復は早かった。
だが、片腕の兵士など何の役にも立たない──。そう思ったブリクサは民間人に戻る決意をした。辞職願を出そうというまさにその時、以前から研究し、試作に試作を重ねた義手が完成したと、クラウスのラボから連絡が入る。クラウスの義手を着けてまた戦うため、ブリクサは再度の手術を受けた。
「リョウスケ、今年の新人はどうだと思う? おそらくうちにも一人配属されるはずだ。強い奴だといいな」
ブリクサの思う「強い」とは、自身のように恐れずエンジェルに立ち向かえる隊員のことを指すのか。それとも、ただ殺す技術が高ければブリクサ班の一員としての任務を果たせるという意味なのか。ブリクサはリョウスケを思い出し、懐かしむような、哀しむような目をする。「B.A.T.最強の悪魔」と囁かれているブリクサが、何年経とうがかつての仲間たちを想い、また彼らを失った悲しみの中にいるのだ。彼らの無念を背負い続け、いつかエンジェルという害虫をこの地球上から葬り去るために。
「マユミ、ゴーティエは九歳になった。クラスでいちばん勉強ができるんだそうだ」
一人一人の顔を思い出して言葉をかけながら、ブリクサは厳しい表情を浮かべる。
「みんな、奴らが発生してからもう十年だ。いい加減ケリをつける。おまえらにも奴らがいない地球をもう一度見せたかったぜ」
伏せたまぶたを上げてブリクサが立ち上がると、ラウラから電話が入った。すると、墓碑の上をひらひらと白いものが舞っているのが目に入る。それは白い蝶だったか、それともシロヒトリか。ブリクサは両手で包むようにその昆虫を捕え、ラウラに向けて「すぐ戻る」と短く答えた。解放された白い翅を持つ虫は、新緑にまぎれるようにゆっくりと去っていった。
火炎放射器から放たれた炎が、十体ほどのエンジェルを一度に襲った。黒く焼け焦げた胴部と、灰になった翅をこぼしながらくるくると地面に落下するエンジェル。
『シアラ、地上にはあと何体だ?』
ブリクサの声が届くと、シアラが答える。
『地上にはあと三十体ほどです。私はファルチェでそいつらを片づけます』
シアラの声が聞こえ、ボードで急降下してゆく姿が見えると、カルマが『んじゃ、僕は援護しようかな』と追って降下していった。
『シアラ、カルマ、地上はお願いね。こっちは全部焼き切るわ』
ラウラが答え、火炎放射器を構え直した。ブリクサは目視出来ないほどのスピードでデビルスウォードを操り、エンジェルを切り刻む。イザークとエルは閃光とともに奴らを葬り、レイは無表情で粛々と処理してゆく。
十分後、息を切らせたシアラの声が全員に届き、地上のエンジェルの処理は完了したと報告された。
空中戦の生き残りも、あとわずか十数匹だ。最後まで気を抜いたつもりはないが、ラウラの一瞬の隙をついた一体のエンジェルが、背後から襲いかかった。白い大きな翅は、ゴムの膜のようにラウラの身体を拘束する。身動きができない苛立ちとおぞましさに、ラウラは握ったままの火炎放射器を背後に向けて噴射した。が、トリガーを弾く指に充分に力が入らず、その弱々しい炎は翅の一部を焦がすことしかできなかった。
「ラウラ副隊長! 大丈夫か!」
イザークがボードで接近しながら叫ぶ。副隊長ともあろうものが、こんな体たらくではみんなに申し訳ないと、ラウラは力を込めて、専用武器であるパニッシュの銃身に指先を伸ばした。助けようと接近してくるイザークに、真上からエンジェルが襲いかかる。翅を立て切りかかってくる奴をかわしながら、イザークは火炎放射器を放つ。エルもレイもブリクサも、それぞれに二、三体ずつのエンジェルがまとわりつき、拘束されたラウラを助けることが出来ない。
ラウラの身体を締め付ける翅が、さらに強く密着してきた。肋骨がきしむ音が身体の内側から聞こえる。エンジェルはラウラの横顔を覗くように顔を突き出し、その口吻を伸ばしてきた。ラウラは顔を背けてその攻撃を避ける。もう限界だと思った。