第1話 天使が空から降ってくる ⑥
スミレを赤い腕で抱きながら飛ぶエンジェルは、コロニーの裏庭にある物置小屋を過ぎ、西の方角へ向かっていた。ブリクサとの距離は、おそらく二百メートルほどだ。初めは一体で飛んでいたのに、両側から二体ずつ合流するように増え、全部で五体になった。五体程度の敵ならば、スミレが人質にされていても何の問題もない。奴らに突然なんらかの能力が加わり、今までより強くなっていたとしてもブリクサは一体残らず処理するつもりでいた。
まずはスミレを奪還しなくてはならない、ならば先に他の四体を仕留めておいた方が良いと判断し、ブリクサは左右の腕に持った銃から炎を放つ。
グギュッという悲鳴のような声をあげ、右の二体は黒焦げになって落ちた。左の二体が振り返って炎の弾を避けようとした時、ブリクサはボードのスピードを思い切り上げ、瞬時に奴らの横にまで接近した。そして腰につけた『デビルスウォード』を抜くと、一体に一太刀ずつ浴びせる。白い胴体を真っ二つにされた二体のエンジェルは、青くどろりと粘度の高い体液を振りまき、不規則に回転しながら地面へと落下していった。
ブリクサに気づいたスミレは、エンジェルの腕の中で悲鳴をあげて助けを求めた。
「たっ、たっ、たすけて! こわい、こわいよぅ!」
必死の形相が痛々しい。庭で転んでいたところをさらわれたのだから、時間はそれほど経っていないはずだ。だが、初めて経験する強い恐怖は、幼い精神を確実に蝕んでいる。奴はなぜ子どもをさらったのだろう。今までにエンジェルのそんな行動は見たことがないし、報告を聞いたこともない。子どもをさらってどうするつもりだ、どこへ連れていこうとしているのだ、と、このエンジェルの新たな行動パターンに疑問を感じつつ、ブリクサはスミレが抱かれている状況を見極める。
通常現れるエンジェルより、若干大きいような気がした。赤い前肢は昆虫のそれに違いないのだが、スミレを抱いている腕は、その中にいる子どもを大切に運んでいるように見えた。いや、そんなはずはない。ただ偶然にそう見えるだけだろうと自身の考えを否定するが、スミレはエンジェルの腕の中で、痛みや苦しさは感じていない。当然だが、ただ恐ろしく不安なのだ。
「すぐ助けてやる。暴れて落ちるといけないからじっとしていろ。怪我はないな?」
およそ恐怖に震えている子どもにかける言葉とは言い難いが、ブリクサはこんな風にしか話せない。人との適切な接し方がわからないのだ。
「うっ、うっ、うん……」
スミレはコクコクと頷きながら、嗚咽なのか返事なのかはっきりしない声を出す。目尻から頬に流れた涙が乾き、うっすらと白い筋を作っていた。小さな手をブリクサの方に伸ばそうとするが、やはり恐怖でその腕は縮こまったまま動かない。開きかけた手のひらをふたたびギュッと握りしめ、スミレは濡れた黒い瞳をブリクサに向けた。目を合わせたブリクサは、早く救出してやらなければ先にスミレの精神がやられてしまうと、奪還の機会をうかがう。
ブリクサと並んで飛ぶエンジェルは、スミレを抱えたままブリクサの方にちらと首を振った。真夜中の湖面のような真っ黒い眼、白くもっさりとした毛が密集した頭部、赤茶色で櫛のような触角。何度見ても不快な巨大昆虫だったが、この個体はいままでと違う、とブリクサは感じた。なにが違うというのだろう。そう、まるで母親のようにスミレを抱くその姿に、こいつには感情があるのではないかと思わせたのだ。その途端、ブリクサの中のなにかがふつっと切れた。この個体に対する猛烈な憎悪と殺意がこみ上げ、一分一秒でも生かしてはおけないと、一旦距離を取るために減速する。背後から眺める敵は、いつものように白い翅をせわしなく動かしている。その間から見え隠れする太い胴部は、無防備にだらしなくぼってりと膨らんでいた。ブリクサはそれを身震いするほど醜いと思う。だが胴部の両サイドに並ぶ朱色の斑は美しく映え、それもブリクサにとっては忌々しかった。
ふたたびボードで急接近すると、デビルスウォードを振り上げたブリクサは、翅の下からのぞく太い胴の下端を、後ろから水平に薙ぎ払った。体長一メートル七十センチほどのエンジェルの胴部から、下十数センチほどが失われる。その太い切断面からは、一瞬ののちに青緑色の体液がとろりと垂れ、やがて汚物そのものといった内容物が濁流のように迸った。
グギェーッ! と大きく咆哮し、そいつはスミレを抱いて飛びながら、胴部を前後左右に激しく振って身体のバランスを取ろうとしている。痛みを感じないといわれる昆虫だからこそ、翅をもがれても脚をすべて切り落とされても、苦痛に身悶え恐怖に支配されることなく、そのまま働き続けるのだ。スミレを抱く腕にはなんの変化も見られない。きつく締めるわけでも、先端についた鉤部分でひっかき傷をつけるわけでもなく、変わらず大切そうに抱いている。だが、一刻も早く捕らわれたスミレを救わなければならない。少しでも早く、人間がその腕で抱きしめてやらなければ、スミレはこの恐ろしい記憶に一生苦しめられることになる。
エンジェルの身体の中身は、半分くらい失われたのだろうか、飛行速度は大幅に落ち、左右にフラフラと揺れながら飛んでいる。スミレたちが居住するコロニーからは、もうだいぶ遠くに来た。エンジェルは、スミレをさらってどうするつもりだったのか。人間が奴らの食糧になるという想像がブリクサの頭をちらとかすめたが、液体を吸うことしかできない口吻で、人体を食糧にするにはそれを溶かさなければならない──。
だが今はそんなことを考えなくていいと、ブリクサはもはやボロボロの状態になったエンジェルを眺め、少し哀しい眼をする。そしてボードを下降させると、敵の下からデビルスウォードを突き上げた。それは腹側の神経を切断し、心臓である肺脈管までもを貫いた。すると驚くことに乳白色の卵が何十、何百もぽろぽろと胴下部の切断面から零れ落ちてきた。とうとうエンジェルの腕から力が抜け、スミレはすとん、とブリクサの腕に収まる。エンジェルはそのまま落下していったが、その腕は最後までスミレの方へと伸ばされていたように見えた。
「チッ、まだ生きてやがる」
墜ちてゆく敵を睨みつけてそう呟くが、腕の中にスミレがいるのだと思い直し、ブリクサはつとめて穏やかな表情をした。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
安心したのか、スミレはいきなり大声で泣き出した。ブリクサは小さな頭に手のひらをあててなだめ、ラウラに通信する。
「ラウラ、子どもはコロニーの西で確保した。無事だ。これから戻る」
『了解。スミレちゃんの母親に伝えます。それから犠牲者は民間人に一名です。遺体は本部に搬送しました』
ほっとしたように、ラウラは吐息交じりで応じた。スミレの無事を、早く母親に知らせてやりたかった。
「わかった」
短く答えたブリクサは、周囲にエンジェルがいないことを確認すると、スミレをボードの前に立たせてコロニーへ向けて大きく旋回した。
ボードの上に立ち、ブリクサに肩を支えられながらベルトで身体を固定したスミレは、振り向いて言う。
「あのね、スミレね、すごくこわかったけど、ぜったいに助けに来てくれるってしんじてたよ」
あまりの恐怖から解放された反動で、なにかしら喋っていたいのだろうが、ブリクサには子どもを安心させられるような語彙が備わっておらず、ましてや子どもに好かれる笑顔を作ることもできなかった。
「……そうか、よかったな」
視線をスミレの高さにおとし、ぶっきらぼうに応えるブリクサだが、それでもスミレは「うふふっ」と嬉しそうだ。あとはこの経験がトラウマにならないよう、本部からコロニーにメンタルケアラーを派遣するよう、上官に要請するだけだ。
コロニーの本棟をぐるりと回るようなかたちで飛んできたが、最後のカーブを過ぎるとき、ブリクサの目は外壁にへばりつく十体ほどのエンジェルをとらえた。
「俺につかまれ」
上体を屈ませてスミレの身体に巻き付けたベルトを緩めると、ブリクサは小さな身体を右腕でしっかりと抱いた。そして正面を見据えると、エンジェルたちは外壁から飛び立って、ホバリングしながらブリクサに襲いかかろうとしていた。それらの顔に順番に視線を固定すると、ブリクサは腕の中のスミレのまぶたに手のひらをあて、ゆっくりとそれを閉じた。
「怖いからな。見なくていい」
およそ十体のエンジェルに囲まれたブリクサは、すぐ近くで待機している仲間に応援を求めるべきだが、面倒がってそれをしない。ブリクサ一人なら、十体のエンジェルを処理するなどなんでもないことだが、今回はスミレがいる。早くラウラに連絡し、スミレの安全だけでも確実なものにしなければならない。そのとき、エルから通信が入った。
『ブリクサ、ドローンがエンジェルの姿をとらえていますが、二、三人で応援に行った方がいいのでは?』
「ああ、悪い。いまラウラに連絡したところだが、とにかく子どもの安全が最優先だからな」
気まずそうに答えるが、スミレのことを考えれば最善だ。
『では、チーム全員で向かいます。コロニーにはギデオン班に残ってもらってますから』
エルは含み笑いをしているような口調だった。またブリクサが子どもっぽくて、とラウラがこぼしていたのかもしれない。
エンジェルたちは、じりじりと距離を詰めながら空中を進んでくる。メンバーが到着するまでには一分とかからないだろう。ブリクサはスミレの身体への衝撃を極力軽減させるため、火炎放射器を使った。これなら撃った反動でブリクサの身体が跳ねることもない。その一撃で、三体のエンジェルが焼け落ちていった。
その向こうから、頼もしいメンバーの姿が見えてくる。ブリクサは口許が緩むのを隠し切れず、思わず声を洩らして笑った。
残りの七体が一斉に飛びかかろうと翅を大きく振るわせたとき、イザークが『ブリッツゼーレ』を放った。静謐で精倒な光は、安息ともいえる死を三体に与え、その隙にシアラがブリクサの腕からスミレを受け取った。
突然あらわれたメンバーに慌てた残り四体のエンジェルは、ばあっと四方に散ると、四方向からブリクサめがけて突進してきた。
「クソッ、めんどくせえ蛾だな」
小さく毒づくが、スミレの安全を見送ったブリクサの顔は晴れ晴れとしていた。これでもう、一切の拘束から解き放たれたのだ。何十、何百体のエンジェルが来ようとも、皆殺しにしてやると、火炎放射器をボードに置き、両手にデビルスウォードを構える。一斉に襲いかかるエンジェル。ブリクサは笑っていた。たった四体のエンジェルを、さも物足りないと言いたげに切り刻み、舞い散る翅のかけらに向けて火炎放射器を向ける。
「ブリクサ! 無駄撃ちはやめて! 総指揮官に小言を言われるのは私なのよ!」
常日頃から、「ブリクサ隊長は殺しすぎだ」とゲンシュウに嫌味を言われていた。「彼は何故、死んだエンジェルに対してまでしつこく攻撃するんだね? 弾や燃料、装備だってタダじゃないんだ」と。ラウラはつい先日も呼び出されたことを思い出し、ブリクサに怒りを向けた。
「ドローンの映像は本部にも送信されているし、すべて保存されてる。もうやめてちょうだい」
姉のようなラウラの物言いに呆れた顔をするが、ブリクサはゆっくりと武器をもとの位置に戻すと、ボードを発進させながらみなに声をかけた。
「戻るぞ」
その背中を見て、ラウラとエルは顔を見合わせる。イザークとカルマも苦笑いだ。
「ほんとに子どもっぽいわよね? ねえエル、私間違っていないわよね」
訊かれたエルは返答に困り、イザークの顔を見た。イザークは肩をすくめ、カルマも両手のひらを上に向ける。
「私だってあいつらを滅茶苦茶に切り刻んで苦しめて焼き殺してやりたいのよ。でも、それはB.A.T.の仕事とは言えないわ。ブリクサには隊長の自覚が足りてない」
頬に手を添えて溜め息交じりにこぼすラウラを、三人はやさしい目で見守っていた。
ブリクサが本棟の近くまで来ると、強化ガラスの内側ではシアラが送りどけたスミレを抱きしめ、母親らしき女が号泣していた。スミレを囲んだ少女たちも一緒に泣いている。その光景を眺め、ブリクサはやっとB.A.T.の任務も一段落だとひと息ついた。ボードのスピードを落とし、玄関前に着地しようとしたとき、どこから現れたのか、手負いと思われるエンジェルが二体いることに気づく。それは憎悪をむき出しにしたように翅を立て、伸びっぱなしの口吻からはドロドロした粘液をボタボタと滴らせていた。
「汚ねえな」
ブリクサは顔をしかめ、建物内の民間人たちに目を遣る。シアラがこちらを見ていたので、子どもたちを奥へやるよう目で指示した。
「ブリクサ、あとは俺たちがやります。中へ入ってください!」
追いついてきたエルが叫ぶ。ラウラも専用武器『パニッシュ』を取り上げて構えた。
「そうもしてられねえ。こいつらが待っててくれると思うか?」
ブリクサが左手を突き出す。ギミックのその腕は瞬く間に形を変え、二体のエンジェルに照準を合わせた。その銃口が発したのは、毒々しいまでに赤く、凶々しいまでの怒りと憎悪を可視化したような弾だった。
その赤黒い弾は至近距離にいるエンジェルの翅を打ち抜くと、空中で向きを変えて戻ってくる。高速で何度も往復する弾は、エンジェルの翅にも胴部にも無数の穴を開け、奴らが紙屑のように倒れるまで止まらなかった。
元の形などまったくわからないまでに崩れたエンジェルの身体は、自らの内からあふれ出た体液にまみれながら、爆発に巻き込まれたようにところどころ焦げていた。
三重の扉を開けてブリクサが建物内へ入ると、憔悴した幼いきょうだいたちを守るようにエイジが座っていた。気配に気づいたエイジが顔を上げ、ブリクサを真っ直ぐに見据える。犠牲者の家族か、とすぐにピンときたが、ブリクサはエイジにかける言葉が見つからない。エイジが立ち上がる。そしてブリクサの前まで来ると、ギラギラと燃えるような瞳で言い放った。
「俺は、あなたの隊に入る」
B.A.T.ジャパン本部に戻ったブリクサ班は、総指揮官であるゲンシュウの部屋へと招集された。
「突発的な戦闘にもかかわらず、犠牲者は一人という結果は評価すべきだが、本来ならば犠牲者は常にゼロでなければならない。これは我々軍部や政府、あるいは富裕層といった者がシェルターより安全だと考えられるここで暮らす以上、市民の持つ不公平感や不安、そして恐怖といった感情をできうる限り取り除きたいという、ボスの気持ちだ。これを常に念頭において任務に当たってくれ。しかし、子どもが全員無事だったことはよかった。これ以上、人類の数を減少させることは絶対に避けなければならない。我々はすでに『絶滅危惧種』なのだから」
『絶滅危惧種』と言ったときのゲンシュウは、口角をわずかに上げた。が、次の瞬間には何もなかったように表情を固め、「しかしな……」と続けた。
「総指揮官」
ゲンシュウの言葉を遮り、ラウラが発言の意思を表す。
「なんだね、ラウラ」
ゲンシュウが顔をしかめた。ラウラの真剣な顔を見つめると、やれやれ、と小さな溜め息をついて発言をうながす。
「今回は検体用のエンジェルを捕獲できませんでしたが、前回の出動から、なにか判明したことはありませんか? 化学班の研究報告によると、採取した鱗粉から猛毒を含む物質が見つかったそうですが、その成分によっては、デビルスーツの材質等を再考する必要もあると思うのですが」
ラウラの言う通り、これまでに採取したエンジェルの体組織から、有害物質がいくつか発見されている。それは人間を攻撃する際に発動されるのか、そうだとしたら防御策を講じる必要があるのではないか。だが、B.A.T.にも予算というものがあり、それはゲンシュウを悩ませる問題のひとつだった。
「今回のことは、現在各国から情報を集めている。シェルター内にエンジェルが現れたという前例がないだけに、みな衝撃を受けている。最強のステルス性を誇るアウターウェブで囲まれたシェルターは、本来エンジェルたちに見つからないはずなのだ。いや、それは知っての通りだが、それを見ることができ、なお且つ侵入することも可能な新種の敵が発生したとなると、これは厄介だ。市民の安全をどうやって守ってゆくか、また世界会議を開かねばならんし、新たな装備を開発する必要もある」
自分が言ったことへの返答はこれか、とラウラは不満げな顔をした。
「アウターウエブ自体を防御と攻撃の双方の役割を併せ持つ素材で作り変える必要も出てくるだろう。その費用を考えると頭が痛いが、その辺りはまた財団に頼るしかないな」
ゲンシュウは本当に頭が痛いとのかと思わせるように顔をゆがめ、小さく首を振った。そんな中、デビルスーツが新しくなるなら、スカッツみたいにひらひらを付けてもらおうと、新調されたキュートなデビルスーツで戦う自分を想像し、シアラはふふっと一人で笑った。
一年後──
B.A.T.ジャパン本部の入隊式には、あのシェルターにいたエイジの姿があった。
コロニーの庭にエンジェルが大量に来襲した「あの日」、早速エイジはB.A.T.ジャパンに連絡を取り、入隊志望だと告げる。そして一年間の訓練を終え、入隊試験にも無事合格したエイジは、制服を着け、最敬礼で入隊式に臨む。そんなエイジの初々しい様子に、対面から見ていたラウラは、微かな期待をおぼえた。
「本日付でブリクサ隊に配属されました、エイジです。よろしくお願いします!」
ブリクサの軍服の肩章が、太陽の光を反射するようにギラリと光った。直立不動のエイジの前まで歩み寄ると、ブリクサは真っ直ぐにエイジの目を見据える。ギラギラとやる気をみなぎらせるエイジの靱いまなざしがブリクサを射るようにとらえ、それを真正面から受け止めたブリクサもまた、そんなエイジの顔を冷たい炎のような眼で見つめた。互いの瞳に相手が映る。そこでどんな想いが交わされたのか、やがて訪れる残酷な現実は、ひたひたと足音を忍ばせながら、だが確実にそれぞれの運命を脅かそうとしていた。