第1話 天使が空から降ってくる ⑤
陽が陰りはじめる時刻だった。
「とりあえずはお疲れさま」
「お疲れさまです。急で大変でしたね。B.A.T.の負傷者は二名ほどだそうです」
「班ごとに装甲車の近くにいてくれよー。まだ出る可能性はゼロじゃないからな」
コロニーの庭では、各班のメンバーが少しくつろいだ表情を見せていた。黒く巨大な装甲車が何台も入り込み、住人たちはさぞ不安だろうと危惧したが、ガラスの内側に張り付いてこちらを見ている者たちは、すでにエンジェルが襲来したことなど忘れたとでも言うように、興味津々の様子だ。
「民間人ってのはすぐにビビるくせに、喉元過ぎると途端に好奇心むき出しにしますよね。まだ帰って来ない子どもがいるんでしよ? その子の親の気持ちにもなってやれよって思いませんか」
ギデオン班のディーノが、同じくギデオン班のツヨシに言う。ツヨシは、はっはと笑い、「まあそう言うな。それほど怖かったんだろ」と応える。そしてラウラを見つけると、静かに歩み寄ってきた。
「ラウラ、ブリクサ隊長はまた単独行動なんだってな」
「そうなの。そんな隊長って他にいる?」
信頼しているツヨシには、ラウラもくだけた口調で応じる。
「あっはは。まあうちのギデオン隊長に限っては、誰よりも規律に厳しいからな。それより、なんでシェルターの中に奴らが入れたのか、本部から何かあったか?」
アウターウェブで守られたシェルターに、エンジェルが侵入できたのはなぜか。それが解明されなければ、今後も同様のことがあちこちで起こりうるということだ。それは民間人にとっては、生活圏が脅かされることに他ならず、細々と維持されている生産や経済に重大な支障をきたす結果につながる。
「ううん、まだなにも。調査は思いのほか長引くかもしれないわね。だって、想定外のことでしょう?」
「うーん、そうだな。調査を待つしかないのか……」
あごに手を添え、ツヨシは眉間にシワを寄せて考え込んでしまった。そこへ、誰かが近づいて来る。
「失礼します! お呼びでしょうか!」
ツヨシの少し後ろに、若い隊員が直立不動で立っていた。ラウラは初めて見る顔だ。
「あぁラウラ、紹介しておく。先月からギデオン班に配属されたマティアスだ。戦闘能力は申し分ないんだが、ちょっと人の好いところがあってな、やさしいっていうか……、エンジェルの奴らが命乞いするような仕草を見せやがると、そのたびに躊躇するんだ。やつらの芝居だ、ってその都度言って聞かせるんだが、なかなか身に沁みてわからない。下手すると自分の命が無くなるってときに、兵士として致命的な欠点だろ。ラウラからなにか言ってやってくれないか?」
ツヨシが言い終わると、ラウラはマティアスという若い兵士を上から下まで一通り眺め、右手を伸ばして彼の前髪を鷲掴みにした。そして鼻先がつきそうな位置まで顔を近づけ、その瞳の奥を見つめながら言う。
「貴様が奴らに殺されたいなら構わない。だが、それは同時に仲間の命を危険にさらすことになるんだ。そんな奴は兵士として不適格だ。貴様が死にたいなら勝手に死ね。仲間を巻き込むことは許さん。ギデオンやツヨシの命令に従えないならB.A.T.を去れ。わかるな?」
マティアスは、美しいラウラの静かな迫力に委縮し、首をコクコクと振るだけで声を出せない。
「わかったなら兵士として正しい行動をしろ。義務を果たせ。私からは以上だ」
ラウラが顔を離すと、マティアスは最敬礼とともに大声で返事をする。
「イエッサー! 自分は、自分の任務を果たすことに忠実に臨むであります」
やや上ずった調子っぱずれの声を聞き遂げると、ラウラはそれでいいと言わんばかりに頷いて見せた。
「……よし」
「はうぅ……、さすがラウラ副隊長。かっこいいですぅ」
ガラスの中からその様子を見つめていたシアラは、溜め息をついてラウラに見惚れている。シアラの肩越しに庭を眺めていたカルマは、「隊長はやく帰って来ないかなぁ」と子どものように呟いた。
「ブリクサ隊長はご無事なのでしょうか」
アンが心配そうにラウラに問うと、横にいたイザークは微笑みながら言う。
「ブリクサ隊長の無事など、憂うこともないだろう。なんせ、あの人は悪魔だからな」
「早く、スミレちゃんのお母さまに無事を知らせてあげたいわ」
ラウラが言う。周りにいた全員が、思い出したように顔を上げて視線を交わし合った。
鬱蒼と茂る樹木には、その幹に何体ものエンジェルがとまっている。
大小さまざまな成虫が、翅を畳んだ姿で休んでいるのだ。その数は数百体にも及び、さらに森の中央付近にそびえる巨木の幹には、おびただしい数の蛹があった。
ひときわ大きな個体がそこに近づき、蛹の背をかすかに切開して中をのぞき込む。そこには数日前にさらった人間を生きたまま入れてあった。その人間は足元から徐々にスープ状に溶けつつある。それは蛹の状態で、羽化するのをひたすら夢見る幼虫の養分となり、エンジェルの身体の一部を形成することになった人間は、完全に溶けて吸収されるまで、痛みや不快感、そして人間としての感情や記憶を手放すことはない。覗かれていることに気づいた人間はエンジェルを見上げ、朦朧とした意識下で唇を動かして何かを訴えようとしている。大きなエンジェルは、見上げてくる人間の瞳をじっと見つめ返した。
「痛いの……。自分の身体なのに自分じゃないようで、それでも痛くてたまらない。足の先が痺れて、膝が割れそう。お腹も裂かれるように痛む。ねぇ、この痛みはいつまで続くの? わたしはまだ、生きているの?」
蛹の中で溶けかかった人間は、曖昧な意識のままエンジェルに話しかける。自分たちはエンジェルに襲われ、そのうちの何人かは蛹に押し込まれたというのに、いま目の前にいるエンジェルは、まるで慈悲をたたえた聖母のような眼差しで自分を見つめている。次第にせん妄状態に陥りながら、そんな幸福な妄想を試みた。エンジェルが何を言っているのか言語化することはできないが、それは福音のように人間の脳に直接響く。そしてその声は、慈愛に満ちた聖母のそれのようで、溶けかかった人間たちは安心したように微笑んだ。
「なんだかとっても気持ちがいい。こうして私もエンジェルになってゆくのね。今は半分人間で、半分はエジェルになるために溶けている。なんてステキなの。ふふふ……」
すでに目玉とむき出しの脳だけになった人間の残骸が、どろりと濃い液体の中で喋っている。
人間には、エンジェルが微笑みながら小さく頷いたように見えた。真っ黒く大きな瞳は、じっと人間の目玉と見つめ合っている。意識と意識のやり取りの中で、かつて人間として生まれた女は、新たな命を内包して歓喜に打ち震えた。
大きなエンジェルは、自らつけた蛹の切開創を前肢でそっと撫でる。すると傷はなかったように消え、蛹はふたたび沈黙した。次の蛹に移り、また赤い前肢でそれをひらいては中を覗いて会話する。羽化が近い蛹に一通り同じことをすると、そのエンジェルは大きく翅をひろげて飛び上がり、森の上を鳥のように旋回した。
スミレを赤い腕で抱きながら飛ぶエンジェルは、コロニーの裏庭にある物置小屋を過ぎ、西の方角へ向かっていた。ブリクサとの距離は、おそらく二百メートルほどだ。初めは一体で飛んでいたのに、両側から二体ずつ合流するように増え、全部で五体になった。五体程度の敵ならば、スミレが人質にされていても何の問題もない。奴らに突然何らかの能力が加わり、今までより強くなっていたとしても、ブリクサは一体残らず処理するつもりでいた。
まずはスミレを奪還しなくてはならない、ならば先に他の四体を仕留めておいた方が良いと判断し、ブリクサは左右の腕に持った銃から炎を放つ。
グギュッという悲鳴のような声をあげ、右の二体は黒焦げになって落ちた。左の二体が振り返って炎の弾を避けようとした時、ブリクサはボードのスピードを思い切り上げ、瞬時に奴らの横にまで接近した。そして腰につけた『デビルスウォード』を抜くと、一体に一太刀ずつ浴びせる。白い胴体を真っ二つにされた二体のエンジェルは、青くどろりと粘度の高い体液を振りまき、不規則に回転しながら地面へと落下していった。ブリクサに気づいたスミレは、エンジェルの腕の中で悲鳴をあげて助けを求める。
「たっ、たっ、たすけて! こわい、こわいよぅ!」
必死の形相が痛々しい。庭で転んでいたところをさらわれたのだから、時間はそれほど経っていないはずだ。だが、初めて経験する強い恐怖は、幼い精神を確実に蝕んでいる。奴はなぜ子どもをさらったのだろう。今までにエンジェルのそんな行動は見たことがないし、報告を聞いたこともない。子どもをさらってどうするつもりだ、どこへ連れていこうとしているのだ、と、このエンジェルの新たな行動パターンに疑問を感じつつ、ブリクサはスミレが抱かれている状況を見極める。通常現れるエンジェルより、若干大きいような気がした。赤い前肢は昆虫のそれに違いないのだが、スミレを抱いている腕は、その中にいる子どもを大切に運んでいるように見えた。いや、そんなはずはない。ただ偶然にそう見えるだけだろうと自身の考えを否定するが、スミレはエンジェルの腕の中で、痛みや苦しさは感じていない。当然だが、ただ恐ろしく不安なのだ。
「すぐ助けてやる。暴れて落ちるといけないからじっとしていろ。怪我はないな?」
およそ恐怖に震えている子どもにかける言葉とは言い難いが、ブリクサはこんな風にしか話せない。人との適切な接し方がわからないのだ。
「うっ、うっ、うん……」
スミレはコクコクと頷きながら、嗚咽なのか返事なのかはっきりしない声を出す。目尻から頬に流れた涙が乾き、うっすらと白い筋を作っていた。小さな手をブリクサの方に伸ばそうとするが、やはり恐怖でその腕は縮こまったまま動かない。開きかけた手のひらをふたたびぎゅっと握りしめ、スミレは濡れた黒い瞳をブリクサに向けた。目を合わせたブリクサは、早く救出してやらなければ先にスミレの精神がやられてしまうと、奪還の機会をうかがう。
ブリクサと並んで飛ぶエンジェルは、スミレを抱えたままブリクサの方にちらと首を振った。真夜中の湖面のような真っ黒い眼、白くもっさりとした毛が密集した頭部、赤茶色で櫛のような触角。何度見ても不快な巨大昆虫だったが、この個体はいままでと違う、とブリクサは感じた。なにが違うというのだろう。そう、まるで母親のようにスミレを抱くその姿に、こいつには感情があるのではないかと思わせたのだ。その途端、ブリクサの中のなにかがふつっと切れた。この個体に対する猛烈な憎悪と殺意がこみ上げ、一分一秒でも生かしてはおけないと、一旦距離を取るために減速する。背後から眺める敵は、いつものように白い翅をせわしなく動かしている。その間から見え隠れする太い胴部は、無防備にだらしなくぼってりと膨らんでいた。ブリクサはそれを身震いするほど醜いと思う。だが胴部の両サイドに並ぶ朱色の斑は美しく映え、それもブリクサにとっては忌々しかった。
ふたたびボードで急接近すると、デビルスウォードを振り上げたブリクサは、翅の下からのぞく太い胴の下端を、後ろから水平に薙ぎ払った。体長一メートル七十センチほどのエンジェルの胴部から、下十数センチほどが失われる。その太い切断面からは、一瞬ののちに青緑色の体液がとろりと垂れ、やがて汚物そのものといった内容物が濁流のように迸った。
グギェーッ! と大きく咆哮し、そいつはスミレを抱いて飛びながら、胴部を前後左右に激しく振って身体のバランスを取ろうとしている。痛みを感じないといわれる昆虫だからこそ、翅をもがれても脚をすべて切り落とされても、苦痛に身悶え恐怖に支配されることなく、そのまま働き続けるのだ。スミレを抱く腕にはなんの変化も見られない。きつく締めるわけでも、先端についた鉤部分でひっかき傷をつけるわけでもなく、変わらず大切そうに抱いている。だが、一刻も早く捕らわれたスミレを救わなければならない。少しでも早く、人間がその腕で抱きしめてやらなければ、スミレはこの恐ろしい記憶に一生苦しめられることになる。
エンジェルの身体の中身は、半分くらい失われたのだろうか、飛行速度は大幅に落ち、左右にフラフラと揺れながら飛んでいる。スミレたちが居住するコロニーからは、もうだいぶ遠くに来た。エンジェルは、スミレをさらってどうするつもりだったのか。人間が奴らの食糧になるという想像がブリクサの頭をちらとかすめたが、液体を吸うことしかできない口吻で、人体を食糧にするにはそれを溶かさなければならない。
だが今はそんなことを考えなくていいと、ブリクサはもはやボロボロの状態になったエンジェルを眺め、少し哀しい眼をする。そしてボードを下降させると、敵の下からデビルスウォードを突き上げた。それは腹側の神経を切断し、心臓である肺脈管までもを貫いた。すると驚くことに乳白色の卵が何十、何百もぽろぽろと胴下部の切断面から零れ落ちてきた。とうとうエンジェルの腕から力が抜け、スミレはすとん、とブリクサの腕に収まる。エンジェルはそのまま落下していったが、その腕は最後までスミレの方へと伸ばされていたように見えた。
「チッ、まだ生きてやがる」
墜ちてゆく敵を睨みつけてそう呟く。だが、腕の中にスミレがいるのだと思い直し、ブリクサはつとめて穏やかな表情をした。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
安心したのか、スミレはいきなり大声で泣き出した。ブリクサは小さな頭に手のひらをあててなだめ、ラウラに通信する。
『ラウラ、子どもはコロニーの西で確保した。無事だ。これから戻る』
『了解。スミレちゃんのお母さまに伝えます。それから犠牲者は民間人に一名です。遺体は本部に搬送しました』
ほっとしたように、ラウラは吐息交じりで応じた。スミレの無事を、早く母親に知らせてやりたかった。
『わかった』
短く答えたブリクサは、周囲にエンジェルがいないことを確認すると、スミレをボードの前に立たせてコロニーへ向けて大きく旋回した。




