第1話 天使が空から降ってくる ⑤
庭に出てきたラウラとすれ違ったカルマは、複雑そうな表情をしながら首を掻いていた。
「ぼく、苦手なんだよねぇ。『母親』ってのがどうもさ……。愛情の塊でしょ、いいも悪いも。どう対応していいかわかんないから、シアラに任せちゃっていい?」
目を合わせずに言うカルマに、ラウラは小さく溜め息をつきながら答えた。
「ええ、あなたは『母親たち』以外のケアを頼むわ。ケアと言っても、こちらから進んで何かする必要はない。まだここのエンジェルが完全にゼロになったとは言い切れないし、万一のときに民間人を守るためにいてほしいの。人への対応はシアラに任せて構わない」
ラウラの言葉に、カルマは小さく「やった!」と言って笑顔を見せる。あんなに強いのに、内面はふにゃふにゃなのよね……と内心で苦笑しながら、ラウラはボードを起動させて飛んでいった。
「こちらブリクサ班のラウラ。ギデオン班、ゲイザー班、タケル班、それぞれ状況を知らせてください」
機器に呼びかけると、まずギデオン班のアンから返答があった。
『こちらはギデオン班のアンです。コロニーの北に位置する駅周辺、アーケード等に百体ほどのエンジェルがおりましたが、民間人はいち早く避難したので負傷者はゼロです。ドローンによりますと、エリアのエンジェルはすべて処理できたもようですので、撤収の準備をいたします。以上です』
はきはきと喋るアンは、ギデオン班の優等生として知られている。隊長のギデオンはじめ、隊員からの信頼も厚い。
『ゲイザーです。我が班は寺社が立ち並ぶ南西エリアを制しました。建物や人的被害はありません。処理したエンジェルは約百五十体。正確な数はのちほど報告できるでしょう。こちらも撤収準備に入ります。以上!』
第三軍のゲイザー班には若い男性隊員が多く、チームの連携はB.A.T.でも一、二を争うほどだといわれている。ゲイザーの的確な指示にすばやく対応できる隊員たちで構成されている班だ。
『タケル班のマリナです。こちらは東側を受け持ちました。エンジェルの数は約百二十体で、ほとんど全部処理したと思いますが、未確認です。負傷者は民間人に二名、B.A.T.では自分が軽傷を負いました。こうして通信させられているのは、怪我を負ったペナルティだそうです。そろそろ撤収ですか? うちらも倣います』
マリナの報告を聞き、ラウラは爪を噛みながら思った。過去にも何度か、マリナのようにやる気の感じられない隊員を見たことはある。彼らはたいてい何度目かの出動で負傷する。それも、取り返しのつかないような大怪我を負うのだ。あんな隊員を押し込まれた隊長は本当に気の毒だ、と。
「ギデオン、ブリクサ班もそろそろ撤収します。でもブリクサが独りで子どもの救出に行っているので、全隊コロニーの庭に集合して万一に備えたいと思います。よろしいですか?」
『こちらギデオン。ラウラ、ブリクサはまた単独か。副長として心配が絶えないな。で、ブリクサは本当に一人で大丈夫なのか?』
ブリクサとは第一軍の隊長同士、性格は正反対だが気の合うギデオンは、きっとひとりで苦笑しているだろう。その顔が目に浮かぶようで、ラウラも思わずほっと心を緩めた。
「ええ。ブリクサは『強い』から」
『……そうだな、わかった。すぐにそっちへ向かう』
ギデオンの力強い声に、ラウラは励まされたような気になる。そうだ、ブリクサは必ず少女を守って戻ってくる。
陽が陰りはじめる時刻だった。
「とりあえずはお疲れさま」
「お疲れさまです。急で大変でしたね。B.A.T.の負傷者は二名ほどだそうです」
「班ごとに装甲車の近くにいてくれよー。まだ出る可能性はゼロじゃないからな」
コロニーの庭では、各班のメンバーが少しくつろいだ表情を見せていた。黒く巨大な装甲車が何台も入り込み、住人たちはさぞ不安だろうと危惧したが、ガラスの内側に張り付いてこちらを見ている者たちは、すでにエンジェルが襲来したことなど忘れたとでも言うように、興味津々といった様子だ。
「民間人ってのはすぐにビビるくせに、喉元過ぎると途端に好奇心むき出しにしますよね。まだ帰って来ない子どもがいるんでしよ? その子の親の気持ちにもなってやれよって思いませんか」
ギデオン班のディーノが、同じくギデオン班のツヨシに言う。ツヨシは、はっはと笑い、「まあそう言うな。それほど怖かったんだろ」と応える。そしてラウラを見つけると、静かに歩み寄ってきた。
「ラウラ、ブリクサ隊長はまた単独行動なんだってな」
「そうなの。そんな隊長って他にいる?」
信頼しているツヨシには、ラウラもくだけた口調で応じる。
「あっはは。まあうちのギデオン隊長に限っては、誰よりも規律に厳しいからな。それより、なんでシェルターの中に奴らが入れたのか、本部から何かあったか?」
アウターウェブで守られたシェルターに、エンジェルが侵入できたのはなぜか。それが解明されなければ、今後も同様のことがあちこちで起こりうるということだ。それは民間人にとっては、生活圏が脅かされることに他ならず、細々と維持されている生産や経済に重大な支障をきたす結果につながる。
「ううん、まだなにも。調査は思いのほか長引くかもしれないわね。だって、想定外のことでしょう?」
「うーん、そうだな。調査を待つしかないのか……」
あごに手を添え、ツヨシは眉間にシワを寄せて考え込んでしまった。そこへ、誰かが近づいて来る。
「失礼します! お呼びでしょうか!」
ツヨシの少し後ろに、若い隊員が直立不動で立っていた。ラウラは初めて見る顔だ。
「あぁラウラ、紹介しておく。先月からギデオン班に配属されたマティアスだ。戦闘能力は申し分ないんだが、ちょっと人の好いところがあってな、やさしいっていうか……、エンジェルの奴らが命乞いするような仕草を見せやがると、そのたびに躊躇するんだ。やつらの芝居だ、ってその都度言って聞かせるんだが、なかなか身に沁みてわからない。下手すると自分の命が無くなるってときに、兵士として致命的な欠点だろ。ラウラからなにか言ってやってくれないか?」
ツヨシが言い終わると、ラウラはマティアスという若い兵士を上から下まで一通り眺め、右手を伸ばして彼の前髪を鷲掴みにした。そして鼻先がつきそうな位置まで顔を近づけ、その瞳の奥を見つめながら言う。
「貴様が奴らに殺されたいなら構わない。だが、それは同時に仲間の命を危険にさらすことになるんだ。そんな奴は兵士として不適格だ。貴様が死にたいなら勝手に死ね。仲間を巻き込むことは許さん。ギデオンやツヨシの命令に従えないならB.A.T.を去れ。わかるな?」
マティアスは、美しいラウラの静かな迫力に委縮し、首をコクコクと振るだけで声を出せない。
「わかったなら兵士として正しい行動をしろ。義務を果たせ。私からは以上だ」
ラウラが顔を離すと、マティアスは最敬礼とともに大声で返事をする。
「イエッサー! 自分は、自分の任務を果たすことに忠実に臨むであります」
やや上ずった調子っぱずれの声を聞き遂げると、ラウラはそれでいいと言わんばかりに頷いて見せた。
「……よし」
「はうぅ……、さすがラウラ副隊長。かっこいいですぅ」
ガラスの中からその様子を見つめていたシアラは、溜め息をついてラウラに見惚れている。シアラの肩越しに庭を眺めていたカルマは、「隊長はやく帰ってこないかなぁ」と子どものように呟いた。
「ブリクサ隊長はご無事なのでしょうか」
アンが心配そうにラウラに問うと、横にいたイザークは微笑みながら言う。
「ブリクサ隊長の無事など、憂うこともないだろう。なんせ、あの人は悪魔だからな」
イザークとエルが顔を見合わせて頷く。
「早く、スミレちゃんの母親に無事を知らせてあげたいわ」
ラウラが言う。周りにいた全員が、思い出したように顔を上げて視線を交わし合った。
鬱蒼と茂る樹木には、その幹に何体ものエンジェルがとまっている。
大小さまざまな成虫が、翅を畳んだ姿で休んでいるのだ。その数は数百体にも及び、さらに森の中央付近にそびえる巨木の幹には、おびただしい数の蛹があった。
ひときわ大きな個体がそこに近づき、蛹の背をかすかに切開して中をのぞき込む。そこには数日前にさらった人間を生きたまま入れてあった。その人間は足元から徐々にスープ状に溶けつつある。それは蛹の状態で、羽化するのをひたすら夢見る幼虫の養分となり、エンジェルの身体の一部を形成することになった人間は、完全に溶けて吸収されるまで、痛みや不快感、そして人間としての感情や記憶を手放すことはない。覗かれていることに気づいた人間はエンジェルを見上げ、朦朧とした意識下で唇を動かして何かを訴えようとしている。
大きなエンジェルは、見上げてくる人間の瞳をじっと見つめ返した。
「痛いの……。自分の身体なのに自分じゃないようで、それでも痛くてたまらない。足の先が痺れて、膝が割れそう。お腹も裂かれるように痛む。ねぇ、この痛みはいつまで続くの? わたしはまだ、生きているの?」
蛹の中で溶けかかった人間は、曖昧な意識のままエンジェルに話しかける。自分たちはエンジェルに襲われ、そのうちの何人かは蛹に押し込まれたというのに、いま目の前にいるエンジェルは、まるで慈悲をたたえた聖母のような眼差しで自分を見つめている。次第にせん妄状態に陥りながら、そんな幸福な妄想を試みた。エンジェルが何を言っているのか言語化することはできないが、それは福音のように人間の脳に直接響く。そしてその声は、慈愛に満ちた聖母のそれのようで、溶けかかった人間たちは安心したように微笑んだ。
「なんだかとっても気持ちがいい。こうして私もエンジェルになってゆくのね。今は半分人間で、半分はエジェルになるために溶けている。なんてステキなの。ふふふ……」
すでに目玉とむき出しの脳だけになった人間の残骸が、どろりと濃い液体の中で喋っている。
人間には、エンジェルが微笑みながら小さく頷いたように見えた。真っ黒く大きな瞳は、じっと人間の目玉と見つめ合っている。意識と意識のやり取りの中で、かつて人間として生まれた女は、新たな命を内包して歓喜に打ち震えた。
大きなエンジェルは、自らつけた蛹の切開創を前肢でそっと撫でる。すると傷はなかったように消え、蛹はふたたび沈黙した。次の蛹に移り、また赤い前肢でそれをひらいては中を覗いて会話する。羽化が近い蛹に一通り同じことをすると、そのエンジェルは大きく翅をひろげて飛び上がり、森の上を鳥のように旋回した。