第6話 穂乃花は芹沢に話しかける
翌日、昼休みを知らせるチャイムが鳴ったので、穂乃花は着席していた芹沢に近づいた。
「ねぇ、芹沢くん。ちょっと話があるんだけど、来てもらってもいいかな?」
「え、でも……」
芹沢くんが、冴えない顔をしている。以前のような好意すら感じない。
以前に引き続き、彼は穂乃花を避けている。近づかれるのも嫌そうだ。
その彼の態度にすぐさま心が折れそうになる。
それに加え、視線をいっぱい感じていた。
周囲にいるクラスメイトたちが、穂乃花たちの動向を気にしている。
「おい、あれ」
「誰?」
「工藤さんじゃん」
目配せを送り合い、ヒソヒソと声を潜めて芹沢と穂乃花のことを見ている。
ぶしつけな目。盗み見るような目。見下したような目。
いくつもの目が、粗探しをするように窺っている。
穂乃花にも細かい棘のような視線が突き刺さる。思わず逃げ出したくなるほど、周囲の反応が恐ろしかった。
でも、こんな状況で彼を置き去りにしたら、今度こそ取り返しのつかない気がした。
どうしよう。穂乃花自身も悲鳴を上げそうだった。
再び芹沢を見れば、彼の表情も強張っていた。目をきょろきょろと落ち着きなく動かしている。肩が少し震えた気がする。机に置かれた手が強く握られる。
悪意のない好奇心が、彼を追い詰めている。
このままじゃ、彼が潰れてしまう。
それに気づいて、全身の肌が粟立った。
そんなのは嫌だ。
怒りに似た強く激しい想いが、穂乃花を奮い立たせる。
意を決して深く息を吸い込んだ。
「噂が、事実じゃないって知っているよ」
穂乃花はみんなに聞こえるように大きな声で口にしていた。
「だって、私は芹沢くんが幼稚園の頃から一緒だったから」
周囲が穂乃花に威圧されたみたいに一瞬で静まり返った。
シンとした教室は、わずかな物音を立てるのも憚れるような、張り詰めた異様な雰囲気があった。
誰も動かない。みんなの視線が穂乃花に集まる。
芹沢は驚いたように大きな目で穂乃花を見上げる。
「だから、ちょっと廊下に来て?」
自分を信じてほしい。そう強い願いを込めて穂乃花は彼を見つめる。
彼の喉がゴクリと動く。
「あ、ああ……」
やっと彼は了承してくれた。彼は席からゆっくり立ちあがる。
先日もいた廊下の突き当りに穂乃花は芹沢と共に来た。
今日は曇り空で、どんよりとした空模様が窓から見える。
「粕谷先生は、芹沢くんのお母さんなんでしょう?」
穂乃花が尋ねると、芹沢はびっくりした表情を浮かべる。
「よく思い出したね」
「でも、どうしてみんなに話さなかったの? 隠すようなことではないよね?」
穂乃花は芹沢をまっすぐに見つめる。
彼の表情がひるみ、視線がわずかに逸らされ、床に向けられる。長いまつ毛が彼の頬に影を落としていた。
「……粕谷先生とは血は繋がっていないんだ」
「え、どういうこと?」
昨晩、穂乃花が見たアルバムの中の写真では、一年生の芹沢と粕谷先生が笑顔を浮かべて並んでいた。
穂乃花の母が高校の入学時にどこかで粕谷先生を見たことがあると言ったのは、恐らく小学校のときに顔を合わせた記憶がわずかに残っていたからだ。
「粕谷先生は、僕の父の二番目の再婚相手で、離婚するまでは僕のお母さんだったんだ。僕の本当の母親は僕が赤ちゃんのときに離婚している」
「つまり、芹沢くんのお父さんは、粕谷先生と再婚したんだけど、小学四年生のときに離婚したってこと?」
穂乃花の確認の問いに芹沢は頷く。
つまり、粕谷先生はかつて芹沢の継母だった。
「父の浮気のせいなんだ。だから不倫とか浮気とか大っ嫌いなんだ」
「……大変だったんだね」
芹沢は最後の言葉は吐き出すようにつぶやいた。とても苦々しい顔をしている。
そこから彼の深い心の傷を感じた。
不倫を最低なことと彼が言っていたのも、母親との別離という自分の辛い過去があったからだった。
もしかしたら、この過去が影響して、女子から告白されても彼女たちを受け入れられなかったのかもしれない。その可能性も少しは感じた。
「高校に入学して久しぶりに粕谷先生と会って、また連絡するようになったんだ。あの日、先生の家族と一緒に遊園地に行ったとき、誰かに目撃されたみたい」
「でも、粕谷先生は久しぶりに会って感激して抱き締めてくれただけなんだから、黙ってなくてもいいと思うんだけど……」
穂乃花が真相の説明を勧めると、芹沢はばつが悪い顔をする。
「う、うん。そうなんだけどさ……。第一、高校生にもなってお母さんに抱き締められたなんて、話すのも恥ずかしかったんだ。それに僕からお母さんの過去を勝手に話すのも悪い気がしたし……」
そう言い訳をする彼の頬はほのかに赤かった。
照れくさくても、粕谷先生の気持ちを考えて、抱擁を交わしていたと分かり、そんな彼に対して微笑ましい気分が込み上がる。
確かに芹沢の父親と過去に付き合い戸籍に×がついているなんて、今はなんの縁もない粕谷先生の個人情報を勝手に話せないだろう。
噂が広まったときに「母親と会っていただけ」と言えなかった彼の事情を穂乃花はやっと理解できた。
「やっぱり、芹沢くんって、優しいよね」
そう笑顔を浮かべながら呟くと、芹沢はますます恥ずかしそうに頬を赤らめた。