第六十話 『脆弱な覚悟』
ルカ・ヴァレンタインは眼前の光景に茫然としていた。
異変に気付いたのは、狐族の少女と別れて数時間経ったくらいのことである。
周囲を徘徊しているであろう賊に用心しながら、夜の森を進んでいた折、妙な騒ぎ声を聞いたのだ。
どこかで聞いたことのある男たちの声。
ルカは水に打たれたように急いでその喧噪の方へと走っていった。
足場の悪い地面を強引に走破しながら、沢山の松明が集まる場所を目指し、そこで目にしたのは――
「おらっ! よくも逃げやがったな、このガキがあああ!」
野太い吠え声をあげた男が腕を振り上げる。
バシッという張り手が唸り、小さな人影が倒れた。沢山の男たちに囲まれた中心部、その中にルカは先ほどまで行動を共にしていた、あの少女の姿を見た。
「て、テト……!」
何回も顔を叩かれたのだろう。彼女の頬は真っ赤に腫れあがっていた。
その目には沢山の涙が溜まっている。
「手間ァ、掛けさせやがって! 吐け! ルカの野郎はどっちの方向に逃げた!!」
髭の盗賊団団長がテトの頬を掴んで迫る。
彼女は疲弊して生気の無くなっているように見えたが、ルカはその口元が小さく動くのを見た。最初は小さく、それが段々と大きくなって。
「ぉ……せん……」
「ああ?!」
「貴方たちには……教えませんッ!!」
一瞬、誰が上げた声なのか分からなかった。
なぜなら、それは森中に響き渡るほど大きな声だったから。
毅然とした、反抗的な目つきで団長を睨み上げるテト。ルカは場の雰囲気が更に切迫するのを感じた。
「こ、このっ……」
まさか口答えをされるとは思わなかったのだろう。
団長は僅かに動揺したような声を上げる。もう一度、毛むくじゃらの腕が振り上がった、彼女を殴るべく。
「叩くなら好きにしなさいっ! けど、絶対に彼の居場所は教えません!!」
「ナメんな、くそ餓鬼がァァァ!」
痛々しい衝撃音が夜空に響き渡る。
彼女の小さな身体がその一撃でなぎ倒され、僅かに血滴が舞う。
「……!」
気付けば、ルカは腰元のダガーを抜いていた。
自分がそばに居れば、彼女が捕まることはなかったはず。
今、彼女が痛い思いをしているのは自分のせいなのだ。
「よせ」
もはや冷静な思考も出来ないまま飛び出そうとしていた、そのとき。
突如、ルカの身体は後方に引き戻された。かなりの勢いだったはずだが、それ以上の剛腕で動きを抑えられる。
「なんだ?! お前――」
大きな声を上げる前に、その口を手で封じられる。
目の前にいたのは、金髪碧眼の美しい女性だった。彼女は空いている手の人差し指を自らの口前に持っていき、『静かに』と強いてくる。
「――?! ……!!」
「私もあの女の子の救助を依頼されている。頼むから少し黙っていてくれ」
暫く暴れていたルカだったが、ようやく状況を把握して大人しくなった。それは、その女性の一言もあるのだが、もう一つ足元に見知った青年が倒れていることに気付いたから。
「ん……? ああ、これか。彼女がリンチに遭っているのを見た瞬間、いきなり突っ込んでいこうとしたのでね。危なっかしいからまた気絶させてある」
「無事、だったんだ……」
ルカは意外な心持ちで瞼を閉じて横たわる青年を見下ろす。
たぶん殺されてしまうだろう、と思っていた。
あの団長が彼を生かしていた理由はよく分からない。仲間に引き入れるつもりか、それとも奴隷商に引き渡すつもりだったか。
「はん、当たり前だろう。コイツはそう簡単に殺せないからな。厄介なことに……」
「? それってつまり、こいつは死なないのか……?」
そのような特徴で思い出すのは、魔族のアンデッドたちだ。
ルカも直接見たことはないが、文献を通してその特徴くらいは知っている。
生ある動物の血肉、特に人肉を求めて墓地などに出没する異形の存在。朽ち果てた身体から漂う臭いはこの世のモノとは思えない酷さらしい。しかし、だとすればこの人は……
眉を顰めたルカにその女性は鼻を鳴らした。
「ふん、言い方に語弊があったかな。彼は普通の人間だよ。ただ、常人には持ち得ないような能力を授かっているようでな――」
と、彼女はそこまで話すと突然何かを察したように動いた。ルカは彼女の強い力に押され地面に組み伏される。
仰向けになったルカの目の前に、女性の綺麗な顔があった。
その尖り気味な唇が動き
「動くな。向こうからこっちを見てる奴がいる……。カンづかれたかもしれん」
と告げられる。
ルカも目線だけを動かして、森の向こう側に注目した。
「そ、そうか?」
周囲が暗いので、誰がどっちを向いているかなど分からない。松明の灯りでテトの金髪がかろうじて見えるくらいだ。この人は随分と夜目が利くらしい。
そうして数分伏せていて、女性の「もう大丈夫だ」という言葉を聞くまでが随分長く感じられた。
彼女は、小さな舌打ちをする。
「さすがはウチの精鋭たちの頭を悩ませる輩だな。まったく、この辺りで摘み取っておきたい所だよ」
「やるの?」
今まで出したこともないような低く冷めた声が出た。
その事実に内心驚きながらも、自分の武器を持ち上げアピールする。
ボクはいつだってやれる、と。
「出来るのかい? 君に……」
が、意に反して目の前の金髪女性の眼は、何かを憂うような色を宿していた。
「それでテトが助かるのなら」
「はは。強いねぇ」
強い決心を表明したつもりだったのだが、冗談めかしたような口調で往なされる。
相手には悪いが、少々イラッとした。
「あいつがあんな目に遭ってるのは、半分ボクのせいなんだ。だから、ボクにはあいつを助ける義務があるんだ」
「ふーん。でもさぁ、もし失敗したらどうするの?」
「失敗……?」
目線を上げると、その女性は賊に囲まれているテトを、続いてルカを交互に見やりながら言う。
「あの子は助からず、そして君もここで死ぬ。その覚悟はあるのかい?」
「あ……ある」
「声が震えてるけど」
「きっ……!」
腹の底から沸き上がった憤怒が両手を動かす。
「……やれやれ、穏やかじゃないねぇ」
胸倉を掴まれた状態の女性の眼は全く覇気がなく、心底呆れたような色を宿していた。
それが更にルカの激情を焚きつける。
「何なんだ、お前は……! テトを助けにきたんじゃないのかよっ! おちょくってんのか?! なら、お前の手なんか借りねーよ!!」
そう吐き捨てると、乱暴に彼女を突き離した。もう目をくれてやることもしない。
ルカは向こうで未だ暴行を加えている盗賊たちを見据える。
勢いよく白刃を抜いた。
「危なくなったら、助けてあげるよ」
物凄い勢いで隣りに立つ女性に殴りかかった。
ドスッ、という鈍い音と共に拳が止まる。
「まったく……ぬるいパンチだ」
荒い息を繰り返すルカに対して、その女性は全く呼吸が乱れてない。
全身の力を込めて放ったはずなのに、片手でテキトーにあしらわれてしまった。
「こっ、こんの――!」
蹴りでもいれてやろうかと、画策した瞬間。
「うぐっ?!」
いきなり世界がヒックリ返った。
背中から地面に落とされ、視界が揺れる。頬が痛い、と知覚すると同時にその女性に殴られたのだと認識する。
が、あまりの痛みでその思考さえもままならない。
「痛いか? この馬鹿ガキ。私も女の子を殴る趣味は無いんだけどね。ちょっと我慢ならないな、今の君を見ていると」
完全に頭に血が昇っていたルカは獣のようにその女性に飛びかかる。
が、またしても空を切り、勢いを利用して投げられた。
背中を大木にぶつけて地面に落ちる。
「げほっ! げほ! がはッ……」
肺が悲鳴を上げて、何度も咳き込む。視界に広がる草の上に赤い液体がポタポタと落ちた。どうやら鼻血が出ているらしい。
「くそ……! この……くそ……げほっ! しね、しねぇ……ごほっ! しんじゃえ……」
怨嗟の声がドロドロと漏れる。
気付けば赤くない液体まで落ちているらしい。視界は歪み、ルカのプライドも、ぼっきりへし折られていた。
「泣くなよ……みっともない」
冷徹な声が上から降って来る。
血も涙もない女だ。ルカはそう思って顔を上げる。
ちょうど夜空の雲が動いたのか、月光が辺りを照らした。
暗さで判然としなかった女性の姿がハッキリとする。
――そして、ようやく気付いた。
ああ、こいつはロイギルの副長だと。
キルナ・トリスタン。
通称、『冷鬼』
自分がかつて憧れた女剣士が、そこに居た。