第五十四話 『二転三転』
突然現れた男の子は、私の手を引いて闇の外へと連れ出した。
最初に入ってきた入口からではなく、後ろの扉から外へと誘導される。
「急いでっ! 今、連中は向こうにいるから、こっち側は見えない!」
男の子は小声で私にそう言った。
地面に降り立つと、また乱暴に引っ張られる。
何度も後ろの様子を振り返るその顔は随分と青ざめていた。
自分のやっている行為が仲間への背信行為であることを理解しているのだろう。
しかし、彼は足を止めなかった。必死に私を逃がそうと尽力してくれる。
むしろ、当事者である私の方が、足が止まり気味だった。
「何やってんだよ?! 早く逃げないとアイツラに売られちゃうぞ!」
えっちらおっちら現場より一キロくらい離れた辺りで、とうとう男の子が私に噛みついた。
ぐずな私に激しく苛立っている。
「だって……だってぇ……! ゆーとさんが、ゆーとさんが、まだぁ……」
男の子の顔がウッ、と歪んだ。
彼の目に映っているのは、涙と鼻水でみっともなく汚した私の泣き面だ。
恥ずかしい。けど、それ以上にあの人の元から離れたくなかった。
男の子の顔に迷いと決心が揺らぐ。
何度も私の顔と、既に見えなくなった森の向こう側を交互に見返しては、溜息をつく。
――と、その時私の視界に何か大きな影がかかった。
「あ――」
男の子の背後。何かがいる。
大きな木に身体の半分が隠れているが、ジワリと動いている。
私の身長の五倍くらいはあろうかという大きさの異形の怪物。
口の端から大量のよだれ。ぎょろぎょろ飛び出た目玉が私と彼を吟味していた。
怪物は私たちに向かって太い腕をやおら振り上げる。
その動作は非常に静穏で、何だか現実離れしている。
彼はまだ気付いていない。あんぐりと口を開けた私を不思議そうに見ている。
「ァ――避けてッ!!」
反射的に彼を押し出した。
反動で自分が押し戻される。お腹の横に鈍い衝撃が走る。
痛い、と思う暇もなく、意識が遠のく。
僅かに見えた視界が捉えたのは、自分が宙を舞っていること。
そして、尻餅をついたあの男の子が私を茫然と見上げているところだった。
※
――ピチョン……ピチョン……
水が何かにぶつかる音。こだまする空疎な旋律に私の意識は覚醒させられた。
「……ここ、は……」
「起きた?」
薄暗い空間の向こう側から声が飛んできた。
パチパチ音を立てるたき火の反対側からだ。
岩肌で視界の全面が覆われている。どうやら、どこかの洞窟らしい。
「よかった。一時はどうなることかと思ったけど、怪我はなかったみたいだね」
少々無愛想ではあるが、私には声の主が自分のことをとても気にかけてくれていたことが分かった。
視線を落とすと、自分が身体を起こした所には、沢山の枯れ葉が敷かれている。
そして、見慣れぬ上着が身体に。
「麻痺針でアレがひるんだ隙に逃げたんだ」
『アレ』とは、気絶する前に見た例の怪物のことだろうか。
恐ろしい生き物だった。
男の子は、ひとつため息をこぼすと、小さく「助けてくれてありがと」と呟いた。
そして、彼は自分の膝頭に顔をうずめた。
くぐもった謝罪が聞こえる。
「あの人を助けてあげられなくてごめんなさい……」
沈黙。
いいえ、気にしてません、とはとてもじゃないが言えなかった。
頭ではどうしようもなかったことと分かっていても、諦めきれることではなかった。
舵取りを失った思考の船は指針を見失い、喉の奥からは音にも鳴らぬ嗚咽が漏れるだけ。
そうして、私は泣き続けた。
泣いて泣いて泣いて涙が涸れるまで、この身に降りかかった不幸を呪うしかなかった。
※
目を覚ましたとき、俺の身体は拘束されていた。
大きな木の幹にグルグルと固定されていた。
四肢も縄に噛まれているのか、身動き一つ取れない。
「はぁーあ。俺も鹿狩りに参加したかったなぁ」
「あー、お前じゃムリムリ。せいぜいここの魔物に捕まってエサになんのがオチだろ」
「るっせぇなぁー。魔払いの呪符が無けりゃオメーも条件同じだろーが……」
襲撃してきた盗賊の下っ端であろうか。
男二名がすぐ近くでそんな会話を交わしていた。
彼らが俺が起きたことに気付く様子はない。たき火で暖まりながら、談笑している。
俺は、目だけを動かして周辺の状況を把握する。
見た限り、彼ら以外に人間はいないらしい。ということは、この場にある監視の目はあの二人だけか……。
バレないように首を回して、牛車を探す。
あった。
やはり、幌の扉が開いている。
それは、つまり中身が彼らの手で漁られたということを意味している。
目的のものが手に入ったのなら、彼らの目的は達成されたはずだ。
しかし、状況がおかしい。
クソッ、と突然、賊が毒づくのが聞こえた。
「っのヤロー、新入りだからって油断してたら……」
苛立ち混じりに吐き捨てた男に対し、もう一人が
「だから、ああいうのが一番信用なんねーんだって。ま、いずれ捕まるさ」
とたしなめる。
話が見えてこない。テトは、無事なのか……。
さっきから不安が胸の内を渦巻いている。
彼らは彼女を売り物とみているらしく、傷つけるということは考え難いので、ある意味安心できる。
しかし、何としても彼らの手に渡るのだけは回避せねばならない。
無事なのか、無事でないのか。
それさえ分かれば……。
「つまり、こういうことだろう。彼らの中に裏切者が現れ、君のパートナーを攫って行った。『鹿狩り』とは、裏切り者の後始末ってところかな?」
耳元で突然喋りかけられた。
「っ?!」
驚いて振り返れば、そこには――
「ハロー♪ フルタニ君。また会ったねぇ」
昨日、ロイヤルギルドの建物に消えたあの人物がしゃがんで俺を覗き込んでいる。
ミドルでパーマがかった金髪に、前髪の奥から覗く碧眼。
口に咥えた煙草のようなものが、薄っすらと紫煙を伸ばしている、
『ここの人たちの間では「冷鬼」なんて呼ばれ方されててさ。みーんなから避けられてる』
餅田は、その女性をこのように評していた。
冷たい鬼……。たしか、名前は……
「そーいえば、自己紹介していなかったかな」
よっこいしょ、と彼女は立ち上がると俺の腕も一緒に引っ張り上げた。
さっきまで身体をきつく縛っていた縄が全て地面に落ちる。
拘束が一瞬にして解かれた。
驚く俺に、彼女はふっと笑い、口に咥えていた煙草を取り外す。
「キルナ・トリスタン。ロイヤルギルド・アデレイド支部の副長だ、よろしく」
彼女は、そう名乗ると籠手で武装された手を差し出した。