三十五話 『いまやるべきこと』
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小さな手ではあるが、その鋭い爪はバケモノのそれだ。
直登の手が離れたことで、弥生の身体が波のように跳ねる。
その力は凄まじく、武瑠も投げ出されそうになった。
もう押さえきれないっ……
「直登離れろッ、もうダメだッ!」
ふたりは同時に弥生から離れるが、弥生の手は武瑠の足首を掴んでいた。
仰向けに倒れた武瑠はその手を蹴り払いにいくが、弥生はそれを避けて馬乗りになる。
「あ゛……ア゛ァ゛ぁぁぁぁッ!」
天に吠えた弥生の制服が〝内〟から破れた。
膨らんだ腹部を切り裂いて、『ヒト型』のバケモノが顔を出す。
驚愕する武瑠に、その赤い眼が怪しく光った。
「ま、まずいッ!」
上半身を出した『ヒト型』は、武瑠の腹に喰いつこうと牙を剥く。
それを直登が阻む。
「武瑠をやらせるかよッ!」
弥生にタックルを仕掛けて武瑠から離した。
もつれあって倒れるふたり。先に起き上ったのは――
「相模ッ、アンタの血をよこせえェェェッ!」
血に飢えた獣のような形相の弥生。
土気色の顔をした弥生が、素早く直登に跨る。
「く、くそ、調子に乗ってんじゃねえッ!」
直登は、弥生の腹部にいるバケモノへと拳を突き出す。
しかしその拳は、弥生が我が子を護るように受け止める。
もう片方の腕も押さえた弥生が、押し倒した直登の顔を覗き込んだ。
その赤い眼が楽しそうに笑う。
「ア゛ー―ア゛……さあご飯の時間よ、思う存分食べナサイ」
恍惚とした表情を浮かべる弥生。
その腹から顔を出しているバケモノが、
今度こそ獲物にありつける……
そんな喜びを表すように甲高く吠えた。
「直登ぉぉぉッ!」
バケモノの食事は、またもおあずけとなる。
武瑠は、後ろから弥生を羽交い絞めにして裏投げを放つ。
その隙に直登は抜け出した。
弥生の腹部からバケモノを掴み出した武瑠は、そいつを地面に叩きつけ、赤い眼で睨んでくるその顔を踏みつけた。
「死ねッ、お前なんか死んじまえよッ! お前のせいでみんなが、篠峯や矢城さんが……なんなんだよお前らはッ!」
バケモノが動かなくなっても、武瑠は踏み続ける。
許せなかった
自分たちが何をしたというのか
なぜ命を狙われなくてはいけないのか
殺されなきゃいけないようなことは何もしていない
突然現れたバケモノに、友人たちが無慈悲に殺されていった――。
今まで溜まっていた怒りを全てぶつけるように
武瑠は『ヒト型』を踏み続けた。
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微動だにしない『ヒト型』のバケモノは、だらしなく口を開け苦悶の表情で絶命している。
大粒の汗を流す武瑠は肩で息をしながら、
「直登、宇津木さんは?」
そう問いかけたが、弥生の傍で片膝をついている直登は首を振った。
「まだ微かに息はあるが……」
歩み寄った武瑠は言葉を失う。
気絶している弥生の腹部には大きな穴が開いていた。
息があってもどうしようもなく、すぐに失血死してしまうだろう。
そう。傷を塞ぐことも、血を止めることも出来なかったせいで死んでしまった
篠峯聡美のように……。
「か、かぐら?」
目を開けた弥生が、武瑠を見て消え入りそうな声を出した。
反射的に身構えてしまったが、
「宇津木さん、正気に戻ったのか?」
赤かった眼が普通に――いつもの弥生の目に戻っていることに気付いた武瑠は、苦しげに咳込んだ弥生の手を握った。
「な、なんであんたがこんなところに? 由芽や桃香たちと一緒なんじゃなかったの?」
弥生は吐いた血にも気付かぬ様子で、不思議そうな目を向けてくる。
武瑠がそれに答える前に弥生は目を瞑り、
「なんだか変な夢を見ていたみたい。あんたたちが言っていた『バケモノ』てのが出てきてさ……。ホラー映画も真っ青だったんだから」
嫌悪感に満ちた苦笑いを浮かべた。
「宇津木、お前は船に行ったんだろ? 本当に貴音や一颯たちはいなかったのか?」
苦い顔で直登が問いかけた。
ここは気休めでも、心配や励ましの言葉を言うべきなのだろう。
直登もそれが判っているから、こんなにも苦しそうな顔をしている。
しかし、もう助からないであろう彼女には聞きたいこと、聞いておかなければならないことがたくさんあるのだ。
弥生は寝ぼけ眼で首を傾げ、
「相模もいたんだ。悪いけど質問は後にしてくれない? なんだ――か――さ、すごく――眠くて……」
ゆっくりと目蓋を閉じた。
「待ってくれ宇津木さん! 眠っちゃダメだッ!」
武瑠は肩を揺らしながら、己の非道さに腹が立った。
意識をはっきりとさせることで、〝痛み〟〝苦しみ〟〝恐怖〟を呼び覚まし、そして死にゆく〝絶望〟を与えることになるのは目に見えている。
しかし、武瑠も一颯たちの事を聞きたかった。
さっきまでの弥生は異様で、全ての話が本当だとは言い難い。正気に戻った今だからこそ聞いておきたいのだ。
武瑠と直登の呼び声もむなしく、弥生は眠るように息を引き取った。
目の前で、誰かが死ぬ瞬間を見るのは初めてだった。
死んでしまった姿を見た時以上に、目の前で死なれた時の方が精神的なショックが大きい。
「宇津木さんまで……」
武瑠は弥生の手をそっと放した。
「宇津木、どうしちまったんだろうな。なんで、あんな……」
直登の疑問は武瑠にもわからない。
ただ、知りたいことを知ることは出来なかったが、弥生が苦しまずに逝けたことに関してはよかったと言ってもいいのかもしれない。
普段の弥生は暴力的な人間ではない。
気が強い所もあるが、困っている人には手を差し伸べる優しい女の子だ。
さっきの彼女は、バケモノに操られていた
赤い眼をしていた弥生が、バケモノを引きずり出した途端に正気に戻ったことからそうとしか考えられない。
◇
「武瑠、そろそろ……行くか」
弥生への黙祷を終え、直登が立ち上がった。
「そうだな、三島さんたちを探さないと!」
武瑠も、気合いを入れて勢いよく立ち上がった。
『カラ元気も元気のうち』
気落ちしている暇などないのだ。
船には誰もいなかったと弥生は言った。
それが本当なら、一颯たちはこの時にも危険な状況にいるかもしれない。
一刻も早く探し出す必要があった。
しかし、直登は意外な言葉を吐いた。
「なに言ってんだ、皆本たちと合流するんだろ? ボケたこと言ってないで早く行こうぜ」
武瑠は、歩き出す直登の肩を掴んだ。
「ボケたこと言ってんのはどっちだよ? 三島さんたちが危ないかもしれないんだぞッ!」
「……だから?」
直登は武瑠を睨む。
「だから?……って、直登は心配じゃないのかよッ!」
「心配じゃないわけねえだろッ!」
突然怒鳴った直登が、武瑠の胸ぐらを掴み上げた。
「俺だってあいつらが心配だよッ! 心配で心配でたまらねえよッ! だけどなッ、俺たちだけで何が出来る! それに、待ちぼうけを食らう皆本たちはどうなるッ!」
その目には涙が浮かんでいた。
「今は……今は皆本たちと合流して、船を動かすカギを見つけて手に入れる。それから一颯たちを探す。それが最善のはずだ。違うか?」
直登の言う通りだった。
どこにいるのかわからない一颯たちを探すなら人数は多い方がいい。
それに、自分たちが勝手な行動をしてしまえば、皆本たちの行動にも支障をきたすだろう。
向こうには女子が多い。
さらに、問題児の今河もいるかもしれないとなると、危険はさらに増してしまうことだろう。
納得した顔の武瑠を見た直登はそっと手を放し、
「まったく……いつもなら武瑠が先に結論を出す考えのはずだ。しっかりしてくれよな!」
拳で軽く胸を突く。
「すまん……」
武瑠は頭を下げた。自分が、どれだけ冷静さを欠いていたのかを思い知らされた気分だ。
「案外そんなに心配することもないかもよ? 一颯は頭も良いし、意外とカンも鋭い。貴音はふたりを元気付けてるだろうし、和幸だって場を和ませてるはずだろ? 向こうもきっと無事でいるはずだ!」
直登は親指を立てた。
三人を――特に、昔からよく知る一颯に対する信頼の証しなのだろう。
「そうだな。俺たちは、今やるべきことをやろう! そして、みんなで一緒にこの島を脱出するんだ!」
今は一颯たちが無事でいることを信じるしかない。
武瑠は自分の頬を叩いて気合いを入れ直し、皆本たちが待つヘリポートの方角を見つめた。
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